月に泣く
「少し、先に行っててくれ」
「あ……はい」
「みらい」奪還のための唯一の協力者である如月克己。余裕があるのか自分の実力に自信をもっているのかわからないが、たんたんと顔色ひとつ変えずに話す男を、角松は信頼していた。
麻生と青梅は心配そうに一度振り返ったが、すぐに暗い海へと潜っていった。
「…部下がいるとできない話か?」
思いがけない角松の行為を止めるでもなく黙ってみていた如月が尋ねた。如月はともかく角松ら三人は一刻も無駄にできないはずなのだ。朝までには戻らなくてはならないし、なにより泳いでの行動は予想しているよりはるかに時間がかかるだろう。あえて、それも角松だけが残る理由はないはずだった。
「如月中尉、頼みがある」
角松は少し困ったような、曖昧な笑みを浮かべた。次いで言ったセリフは、またもや如月にとって思いがけないものだった。
「……肩を貸してくれ」
言うが早いか、こつんと頭を如月の肩に乗せてしまった。
「おい、角松?」
「……梅津艦長の、」
「…………」
「最期、は………」
声が震えている。くっと奥歯を噛み締めているのが如月に伝わった。
「角松……」
そっと頭を抱いてやると、角松はさらに頬を肩に押し付けた。ぽとりと首筋に水滴が落ちる。涙。
梅津のいない今、艦長は角松だ。彼の一喜一憂は乗員全体の士気にかかわる。泣くに泣けず、喚くに喚けないというのが今の角松の心情だろう。まして、「みらい」を草加に奪われ、砲雷長は負傷して実質人質状態となればなおさら、自分の感情を抑え付けなければならなかった。
如月は言葉を探した。慰めるべきか、励ますべきか。悩んで、しかし適当な言葉は思いつかず、ありなおまま、自分の感じたことを言おうと決める。
「…世界が、ドイツやアメリカが核というものを開発しているのに、まして核が日本に落とされることがわかっていながら、先制して持とうということの、どこが悪いと、他人は言うかもしれない」
ピク、と角松が反応した。耳をすませている。如月は続けた。
「だが、その恐ろしさを、災厄を知っていれば、伝えることができる。結果がどれほどの恐怖を世界にもたらすか、知っていれば、止めようと思うのはむしろ当たり前だ。核などなくても、戦争を終わらせる手段はいくらでもある。必要なのは、核ではなく、勇気だ。少なくとも私は、それを梅津さんから教えられた。―――角松」
そっと彼の肩に手をかけ、顔をあげさせた。予想通り角松の頬には涙の痕がついていた。
如月は微笑した。角松の尊敬と信頼を一身に集めていた梅津と行動を共にし、言葉を交わし、その死を看取ったことは誇ってよい。任務でなく、如月克己個人として。
「あれほど見事な人を、私は見たことがない」
如月の言葉を飲み込むように、角松は二度、三度と瞬きをして、それからくしゃりと顔をゆがませた。泣き出す寸前の、子供の顔だった。
「………っ、きさら………っ…」
ぼろっと涙腺が一気に外れてしまったかのごとく、角松の瞳から涙があふれた。
目の前で泣き崩れる自分より大きな体躯を如月は抱きしめた。60年後の未来から来たという人間の体は別段自分の体と変わったところがあるわけでもなく、あたたかい。鼓動が響き全身に伝わって、どこからどこまでが自分なのか、わからなくなりそうだ。
この感情につく名前を如月は知らないが、決意だけは変わらない。
角松と共に、戦う。彼の役に立ち、どこまでもまっすぐな心が傷つくことのないようにしたい。角松が自分を見つめ、そして願わくば、いつか隣に在るように。
泣き止んだ角松はみっともなく泣き喚いたことを恥じ入るように笑った。早くしないとあの二人が心配するぞと、如月が何もなかったように振舞うと、ああ、と応え、元の「角松二佐」の顔に戻った。
「では」
短く言って海へと向かう角松に如月は軽くうなずいた。
そして多少、付け加えた。
「では、また」
約束とまではいかない、再会を願う言葉を。