───この世に、これ以上の深い憎悪など、知らない。
【Plunder】
夏の暑い日が去り、秋も最中に降る雨は結構長い。
乾いた大地を潤すように降り始めたそれは、何日も晴れることはなく次第に肌寒い日が増えてゆく。
草加は窓ガラスを打つその滴が伝って流れ落ちてゆくのを、やり場のない感情を持て余しながら睨んでいた。
口惜しい、憎い、恨み。
すべて当てはまるようで、どれも的を外している。
脳裏に浮かぶ、彼の姿。
表情を殺してただ静かに佇む姿は、己の知る彼の姿ではない。
どうして。
彼が海軍高官の集う催しに出席していたのか。
何故。
あの滝栄一郎に従っていたのか。
己の知らない時間が確実にそこには存在していて、彼に声をかけたくともそうは出来なかった。
上官の命令で出席していた草加にとって、その図はまさに青天の霹靂で全神経が、全感情が目の前の事実を否定した。
彼の性格ならば黙って滝に従うはずはない。
そうせざるをえない状況を滝が作ったとするならありえるが、それだけでは説明できない何かが存在しているように思えてならなかった。
草加が寝る間も惜しみ、駆けずり回っているのは偏に彼の為だ。
未来を垣間見た瞬間から、例え彼と対極に立ったとしてもそれだけが草加の生きる意義ですらあった。
彼の、直向なまでの崇高さが愛しくて。
あの強い眼差しに射抜かれれば、歓喜に身が震えるほど高揚する。
これまでこんなにも熱くする人間は誰一人としていなかった草加にとって彼という存在は何物にも代えがたい絶対的なものだった。
───嗚呼。
たった数ヶ月の時間が、こんなにも彼を遠くさせる。
彼だけはどれほどの時間が経とうとも変わることなどないと信じていたのに。
行きかう人越しに見つめれば、彼は滝の指示通りに動いている。
これは嫉妬なのだろうか。
周りの雑音など耳にも入らず、熱の篭っていた眼差しを鋭く尖らせて、草加は下ろしたままの拳をきつく握り締めた。
ふと、彼が滝の傍から離れる。
その時滝が遣したその嘲りの双眸に、目の前が赤く染まった気がした。
このまま逃げることも出来ず、何食わぬ顔して声をかければ上っ面の白々しいやり取りが続き。
この男が本当に嫌いだ、と腹の中で毒づいたとき、滝は見透かしたような含みのある眸で嘲笑を浮かべた。
「こんな薄ら寒い会話でお茶を濁そうとするな。言いたい事をはっきり言えばいいだろう」
「特に何も言うことはない」
「ふん、強がっていればいい。この際だから言っておくが、あれを落としたのは俺だ。二度とあれに近づくことは許さん」
滝の顎で指し示されたのは、彼。
思わず目の前の男を力いっぱい殴り飛ばしたい衝動を寸でで堪えて、精一杯の虚勢を張ってみせる。
「……貴様の、汚い手で縛り付けられた者に所有者面するのはおかしなものだ。私は彼の所有に関して誰の指図も受けない。私は私のやりたいようにやるまでだ」
淡々と返した草加の声が、微かに震えた。
しかし挑発に乗った滝には気づかなかった様子で、憤りに口許を歪めて鋭くぶつけてくる殺気を黙殺し、彼が戻る前にその場を離れた。
あの時の空気や滝の顔を思い出すだけで、抑え切れない感情が暴れ出す。
今まで生きてきた中で、これほど誰かに殺意を抱いたのは初めてだった。
雨はしとしとと降り続ける。
窓から見える街は活気が失せ、まだ夕方には間があるというのに人気は殆どなかった。
ぬかるんだ道、水溜りに波紋を作る雨垂れ。
静寂に満ちた世界には、どこか張り詰めた空気だけが痛い。
生きるか、死ぬか。
日々命を明日へと繋いでいくことが困難なこの時勢に、一人の男を巡っての不毛な争いは滑稽でしかなかったけれど、このまま黙って身を引く気など毛頭なかった。
草加は時計を確認し、軍服の上から合羽を羽織り部屋を出た。
昼間なのに薄暗い、陰鬱な思いにさせる景色の中を一人歩いていく。
この日に通りに人一人居ないことに感謝して、草加は周囲の気配を捉えながら一定の速度を保ったまま足を運んだ。
やがて街ひとつ通り過ぎた頃、荒んだ建物の中の地下へと降りた。木造の腐りかけた階段は体重を乗せるたびに悲鳴を上げる。
そして鉄の扉を開けると、湿気を含んだ黴臭い匂いが鼻についた。
「お待ちしておりました」
靴を鳴らして最敬礼を取る部下に目で答え、簡素なベッドに鎖で括られ、目隠しされた男を見つめた。
「ご苦労だった。二階からの警戒を頼む。入ろうとする者があれば、誰であろうと撃ち殺して構わぬ」
「はっ!」
再び敬礼をして出て行った部下の後姿を見送りながら、草加は口許だけで微笑む。
何かの役に立つかと、飼い慣らしておいて正解だった。
少しずつ”計画”に先立っての準備及び手駒が揃ってきたところだが、あれだけの忠臣は片手に余るほどしか居ない。どこか感情の欠落した青年だったが、だからこそこういった非人道的な命令も眉ひとつ動かさずに遂行することが出来る。
人を殺すことにも、何の躊躇もない。
まさにこの時代を象徴したような青年だった。
視線を落とせば、戒められた男は身動きひとつせずに横たわっている。
眠っているわけではないだろうが、この事態にも取り乱さないいっそ見事だ。
「角松二佐」
そっと囁けば、ふっと身を強張らせる。
禁欲的なほどに隙なく着こなされた軍服を乱したい衝動に駆られながら、差し伸ばした指先で唇をなぞった。
「……貴方は、頭を垂れる相手を間違っている。何の弱みを握られたのだ?この唇で、何を言わされたのだ」
「だ……誰だ?ここは何処だ。滝、様は……?」
か細く震える吐息で呟かれた言葉は、草加に向けての言葉ではない。
宙に浮かばせるようなあやふやなそれに柳眉を潜め、見下ろす眼差しに険が帯びた。
「角松二佐、いい加減にしろ!」
声を荒げて目隠しを毟り取ると、唯一草加を熱くさせるその双眸が現れる。
しかしその眼差しは草加を通り越して何かを見つめているように、心許なく。
以前のような強く真っ直ぐな意思は微塵も感じない。
「貴方を……ここまで狂わせたのは、あの男か?」
不意に草加が部屋の隅にある大きな箱の蓋を足で蹴り上げると、中には猿轡をはめられ拘束された滝が鋭く草加を睨み上げた。
それに酷薄な笑みを浮かべて、その体を床の上に転がす。
「角松二佐、私がこの男を忘れさせてやる。私はかつての強い貴方が好きだ。牙の抜けた貴方をそのままにするつもりはない」
優しげな笑みを浮かべて、額、眦、頬、唇へと口付けを落とし。
緩やかにそれを深めていった。
拒絶もなければ積極的でもない舌を甘噛みし、口腔内を蹂躙していく。
見せ付けるように施されるそれを憎しみに染めた眼差しで凝視する滝に、草加は口付けを解いて濡れた唇を歪ませた。
「そこで指を咥えて見ていろ、滝。私を本気で怒らせた貴様が悪い」
「滝……?滝、様……、何でもします、愛してますから、彼らを奪わないでください……っ!」
名前に反応したのか、虚ろな眼差しを恐怖に染めて懇願する彼の体を抱きしめて。
草加は何度も何度もその背を、髪を、頬を優しく撫で、そっと耳元で甘く囁いた。
「大丈夫だ、角松二佐。貴方を脅かす者は私が排除してやる」
彼の体を守るように抱きしめていた草加がゆっくりと身を起こし、懐から拳銃を取り出す。慣れた仕草で撃鉄を起こして、引き金に指をかけて銃口を滝の額に向けた。
血の気が失せ、青褪めた額に汗が滲む滝の表情に、初めて怯えの色が浮かぶ。
あの夜にこの男に受けた屈辱の数々。
いつだって、この男が邪魔だった。
「んーっ───!」
「これで終わりだ、滝中佐」
そう言い終えた瞬間に、草加は躊躇いもなく引き金を引いた。
部屋に響いた銃声が消えた時には弾き飛ばされるように転がる、骸ひとつ。
硝煙の匂いよりも強く血の匂いが広がり、草加は喉元で嗤うと持っていた銃を床の上に投げ捨てる。
「あ……あ……っ」
自我を失った彼に、この事態が判るのだろうか。
途切れ途切れの悲痛な悲鳴を迸らせて強く身を捩る体を捩じ伏せ、囁いた。
何度も、何度も。
「怖がらなくていい、角松さん。私はこの男のように貴方を飼ったりはしない。
貴方に……優しくしたいのだ」
───傷の舐め合いというには、あまりにも一方的な。
興奮した彼を宥める為、己が滝と違うことを知らしめる為、草加は殊更優しく彼の体を抱いた。
肌蹴させたシャツから除く肌全てに口付けを降らせ、清めようとするように余す所なく。
「……あ……あぁ……っ!」
甘えるように鼻にかかった声で啼く声に、ひどく興奮する。
ずっと触れたいと、抱きたいと願っていた高嶺の花に漸く触れられた歓喜は高まるばかりで、強く刻み付けるように抱いてしまいたくなった。
この男にはそうさせる何かがある。
触れなければ見つめるだけで済む感情は、一旦その禁を犯してしまえば止め処なく貪欲になるばかり。
おそらく、滝もこの魅力に勝てなかったのだ。
行き過ぎては身を滅ぼす毒だと判っているのに、溺れずにはいられない麻薬のような。
彼の体に愛撫を施しながら、ちらと骸を一瞥して哀れだ、と思う。
そして、脆いとも思った。
「全てを忘れればいい。貴方は貴方の、守るべき者たちの貴方だ。そしていつか……再びあの時の眸で私を見てくれればそれでいい。貴方を抱いたこの時間を忘れても───」
快感に喘ぐ彼を見つめながら囁いて大きく広げさせた脚の奥、綻んだその蕾に雄を宛がうとゆっくりと腰を沈めていった。
少しの間だけ、強張らせた身体はすぐにも淫らに撓る。
抱かれることを覚えた肢体に眩暈を覚えて、汗で張り付く短い前髪を指先で掬った。
「んっ、あっ、あ……っ、た、滝……っ!」
彼の身体に負担をかけさせないように律動を始めれば、彼の口から溢れた名前が妙に癇に障った。
「角松さん、草加、だ。私は滝ではない」
「た、滝っ、やっ、あぁっ」
どれほど彼の意識を向けさせて名を教えても、彼は草加を見ようとはしなかった。
次第に高まっていく欲望のままに彼を貪りながら、草加は深く目を閉じた。
───嗚呼。
私は間違えてしまったのだろうか。
それなら、私はどうすればよかった。
私はずっと貴方が欲しかった。
ずっと、初めて助けられた時から愛していた。
この想いを殺して、憎かったあの男に従う貴方を見ていることだけは出来なかった。
貴方を奪われたままでいることは許せなかったのだ。
憎んでも、構わない。
貴方が私を見つめてくれるなら───。
キリ番とったのをいいことに、若月あやのさんの滝松SS「服従」の続きを…!とお願いして書いてもらったものです。ど〜しても草VS滝が見たくて!
松をめぐる愛憎劇がこんなにすごいものだとは…!感激です〜!