叫びたいほど懐かしい





 草加が部屋のドアを開けますと、そこには角松がいました。
 角松は朝、草加が部屋を出たときとさほど変わらず、窓辺に置かれた椅子に座って外を眺めています。その目はどこを見ているともつかない虚ろなものでした。
 かどまつさん。
 草加が呼びます。角松は振り返りません。角松の心は粉々に砕けて壊れてしまっているからです。



 ある日のことでした。



 草加は角松に、彼の拠り所となる艦を沈めたことを告げました。みらいと名づけられた艦は草加の知るどの艦よりも高性能で強いものでしたが、それでも攻撃には弱く、草加の知る世界一大きな艦の一撃であっさり壊れてしまったのです。証拠もありました。写真です。
 角松は信じませんでした。ですが草加の示した写真の中には遺体となった親友や尊敬する上官のものまであったのです。そんなものを得意気に突きつけられてはいつまでも信じないわけにはいきませんでした。
 角松は泣きました。泣いて草加と自分を責めました。逝ってしまった仲間たちに自分も連れて行ってくれと虚空へ向かって手を伸ばし懇願しました。もちろん彼らがオバケになって現れてくれるはずもなく、泣きつかれた角松は今度は笑いはじめたのです。あはは。あははは。はは、は。草加は気の済むようにさせました。どんな慰めも彼には効果がありませんでした。
 狂ったような笑い声が消えたとき、角松は今の角松になっていました。
 角松はなにもしません。なにも言いません。虚ろな瞳はなにも映さず、なんの反応もかえしません。
 こうして角松は、草加だけのものになりました。



 何もしなくなった角松のために草加はいろんなことをしてあげます。食事は口元にもっていけば食べますが、空腹感すらない角松はただ目の前に置かれただけでは食べようとしないのです。いちいち草加が食べさせます。
 入浴も草加の役目です。毎日髪から爪先まで綺麗に洗います。排泄すら草加が促がさなければなりませんでした。角松が何不自由なく生きていられるように、草加は一生懸命です。
 それでも草加はしあわせでした。
 角松は何にも反応しませんが、それでもいくつかのことを覚えていて、草加が強請るとお話をしてくれます。なかでも草加のお気に入りは、くさかの話でした。
 夜、痩せてしまった胸に顔をうずめて草加がお話をせがみます。くさかの話をする時、角松はほんのわずかではあるものの口元を綻ばせ、表情を見せるのです。
 話は出会いから始まります。みらいがここに来た時、タイミングをあわせたように飛行機が落ちてきたこと。夜の海が冷たかったこと。くさかが生きていて嬉しかったこと。話をしたこと。旅をしたこと。裏切られて怒ったこと。それ以上に哀しかったこと。向かい合ったこと。撃たれたこと、撃てなかったこと。こわいものを作ろうとしているくさかを、止めなくてはいけないこと。
 だからおれはくさかにあいにいくんだ。そう言ってお話は終わります。体のあちこちを撫でたり舐めたりしている草加が彼のくさかであることを彼は認識していませんでした。
 草加がされるがままの体に昂ぶった自身を埋めても、あ、と声をあげるだけでした。以前なら頑としてこの行為を拒否し、受け入れようとしませんでしたが今は違います。あっさりと受け入れます。抵抗せず、ただ受け入れるだけです。
 草加は嫌がりながらも快感に悶える角松を見るのが結構好きでしたが、今の角松は草加を受け入れるかわりによがりもしませんでした。
 くさかの話をしてください。草加は強請ります。くさかという単語に角松はふっと目を瞬かせ、楽しそうに同じ話を繰り返しはじめました。
 やがて草加から溢れた液体でずちゅ、とねばっこい音が立ち始めた頃、草加は角松の首に手をかけました。力を入れると草加のいるそこが締まるのでとても気持ちが良くなります。今の角松には射精も絶頂もありませんから草加は自分でなんとかしなくてはなりませんでした。角松のお話が途切れ、あ、とちいさな喘ぎになりました。
 草加が角松の中で果てると、すぐに彼は眠ってしまいました。角松はされるがままなだけでしたが、それでもこの行為は疲れるのでしょう。草加も目を閉じます。
 耳をすませて鼓動を数えます。早く脈打っていたそれがやがて緩やかなものになり、落ち着いていくのです。角松の鼓動は草加の大好きなもののひとつでした。彼の大きな黒い瞳の、今はもう見ることのできない強い眼差しと同じくらい大好きなものです。
 草加は後悔しています。角松が壊れてしまうとは草加は想像すらしたことがありませんでした。こんな結果になるとわかっていたら、みらいを沈没させたりしなかったでしょう。ただ彼の帰る場所がなくなれば、自分の傍にいるしかなくなるだろうと思っていたのです。
 角松は言います。くさかにあいにいく。あいたい。あいたい。私はここにいますと草加が言っても彼は彼が草加であることがわからないのでした。



 時々草加は無性に角松洋介に会いたくなります。壊れてしまう前の角松は、少なくとも草加を憎んでいたのは確かでした。それはとても辛いことでしたが、単なる風景、あるいは現象にしかなれない今よりよっぽどマシでした。どれほど怒っていても憎んでいても、最後には許す瞳で草加を見ていてくれました。私のあのひとをかえしてくれと角松を揺さぶって叫びたくなります。ただ愛していたのだ。こんなことを望んでいたわけではない。帰してくれ、懐かしいあのひとを。草加のおもいびとは隣にいましたが、心はどこにもありませんでした。



 それでも草加はしあわせです。
 とてもとても、しあわせです。