水着





 いつの時代であれ、男には女が必要だ。それが男ばかりの世界、狭い艦内であろうとも例外ではなく、むしろ男ばかりであるからこそ、なおさら男は女に夢を見る。
 たとえば、グラビア雑誌などで。

「…いーかげん、コレも飽きたなー…」

 端がよれて幾度も眺めたことがまるわかりのグラビア雑誌を閉じて、柴田がため息をついた。はーやれやれといった具合に肩をすくめればだよなと賛同する者が多数。士官食堂に彼らは手に手に似たりよったりの写真集を持ち寄っていた。
 いくらかわいい女の子の水着姿であろうとも、同じ顔と同じポーズでは使用に耐えるのはもって数ヶ月だ。互いのアイテムを交換してみても飽きるものは飽きるのである。

「海なら腐るほどあるのに、水着の女の子なんていねーもんな」
「無理だよなぁ」

 この時代にビキニ姿で海にいようものならしょっぴかれて終わりである。なんとも不自由だ。
 角松洋介が男から女へと変身して以来、「みらい」はありていにいって暇だった。滝や海軍による要請を「緊急事態」のひと言で切って捨て、無視し続けている。なんせ草加からしてあの状態なのだから、やる気もなくすってものだ。

「ちょ…っ、角松さん!なんて本を見てるんですかっ」

 今日も草加は元気に角松にからんでいる。いかにも昔の人間らしく、角松の持っているグラビア雑誌に赤面していた。おまえはどこの小姑だ。角松はいたって平然としている。

「たかがグラビアくらいでいちいち大声をだすな」
「そ、そんな半裸の女性などながめて、破廉恥なっ」
「こんぐらい、可愛いもんだろうが。…つくづくおまえって、ムッツリスケベだよな」
「な……っ!」

 男としていささか不名誉な烙印に、草加が絶句する。その場の男たちの視線が彼に集中した。いい暇つぶしがきたぞ、と。
 角松は少し気の毒そうに、しかし優越感をもって苦笑した。はっきりいってこの程度で口やかましく破廉恥だなどと風紀を取り締まっているようでは艦乗りには不向きだ。艦内に女が不足するのは当然で、だからこそ下品なジョークが頻繁に飛び交うし、それが気晴らしにもなる。むしろ積極的なくらいではければ部下に「扱いにくい上官」としての認識をもたれてしまい、ヘタをすれば総スカンをくらってしまう。狭い世界の一部であってもそんな評価を下されればあっというまに艦全体の評価となるもので、そうなってしまえば少佐だ参謀だなどといってみても直接動く者たちの動きも鈍くなる。動くべき部下が働いてくれなくては話にならない。悲惨な結果が待っているだろう。

「一般的にムッツリのほうがスケベ度が高いんだぞ。…おまえってねちっこそうだもんな」
「そんなことはありません」

 そこかしこから漏れてくる忍び笑いに草加が全力で否定した。角松はニヤリと笑うと草加の前に水着姿で扇情的なポーズをとる女性の雑誌を広げて見せた。どうでもいいが下ネタになるとなぜ人はこういうニヤリ笑いを浮かべてしまうのだろう。

「じゃ、おまえはどっちが好み?」
「………………。右」

 これに答えなければムッツリを確定されてしまう。たっぷり逡巡し、草加はしぶしぶ答えた。

「ふーん。こういうのが好みなんだ?どこがポイントだよ」
「…腰まわりが。多産系かな、と」
「へぇ、基準そこか」

 意外そうに言って、角松は改めて見比べてみた。確かに左よりも右のほうがぽっちゃりしている。
 へー、とわざとらしくうなずいている角松に、今度は草加が尋ねた。

「そういうあなたはどちらなんです?」
「俺?俺は…」

 パラパラとページをめくり、角松は指さしたのは草加の選んだ女性よりも露出の少ない、どちらかというとスリムな女性だった。

「で、どこがいいんですか?」

 草加にとっても意外であった。角松の好みはもっと、グラマーでわかりやすいかと思っていたのだ。なかば投げやりに問う。

「顔」

 ズバッと角松が答えた。それはそれであんまりな答えに草加は一瞬絶句する。

「なんか、こう…泣かせたくならねえ?」

 同意を求められても困る。顔立ちはさすがにモデルだけあって美しいといえるが、どことなく穏和な雰囲気だ。無表情に近いそっけない微笑を口元に乗せ、視線だけはきりっとこちらを見ている。草加の言う半裸に近い肢体を隠すようにくねらせ、手を太腿に添えていた。挑発するでもなく、かといって恥じ入っているようでもない。このポーズのなかでそそる部分があるならそれは黒く長い髪だろう。豊かな黒髪が流線型を描き、女の丸みを強調している。確かにちょっと、自分の色に染めたくなる女だ。自分の腕の中で泣かせ、縋りついてこられたら手放せなくなりそうだなんて説明をされてももっと困る。
 なぜなら今の角松こそがまさにその条件にぴたりとあてはまるからだ。自分の腕の中で泣かせ、他の誰にも渡さない。体で縛りつけることに躊躇いを抱かせない、むしろ夢中にさせてしまいたいと思わせる。そういう類の女だ。

「水着が白ってのもいい」

 角松は草加を含めた男たちが自分に対しどのような目を向けているのかまったく気づくことなく話を続けている。

「え、白なのおまえ?やっぱ黒のビキニじゃねえ?」

 場の空気を正しく読んだ尾栗が話を繋いだ。水着は下着と並んで男であっても好みがうるさいアイテムだ。

「黒ってなんだかいかにもって感じ。勝負しに来てるっていうかさ」

 一体何と戦うつもりなのかはさっぱりだが、言いたいことはわかる。

「その点白のほうがそこはかとなくエロい。純真なイメージあるのに濡れると透けそうでドキッとするし」
「あ、それはわかるな。巨乳の子が白、とかってグッとくる」
「俺けっこーでかいぞ」

 そこは胸を張るところではない。上官の微笑ましい会話に、なにやら淫靡になりかけていた空気がほどよく弛んだところで角松の爆弾が投下された。絶妙のタイミングだ。

「…触ってみたのか……」

 確認というよりは独り言。どこか呆然としている菊池に当然、と角松はうなずいた。

「目の前に手ごろな乳があったら、とりあえず揉んどくだろう」

 男として。やけにきっぱりと真剣に言い切ったが、はたしてそれは「とりあえず」で揉んでもいいものだろうか。菊池は額を押さえて俯いた。まるっきりセクハラの表情で笑いながら、尾栗が訊いている。

「で、どうだった?」
「ん?揉んでるのも揉まれてるのも自分だからな、つまらなかった」

 体は女、心は男。ギャップというのはこんなところにも現れるらしい。

「あ、そう…」

 他人の手ならいいわけ?などと訊く強者はどこにもいなかった。なんとなく物足りない空気が漂う。
 ちなみに草加は角松の爆弾発言に思い切り刺激されたらしく、真っ赤になって胸を見ては目をそらしていた。




「…いいな、海。泳ぎてえ……」

 ふっと、何かを懐かしむように角松が言った。海なら目の前にあるが、いかんせん泳いだり遊んだりとなると話は別だった。何もすることがないとはいえ、今は勤務中なのである。
 その場にいた全員が(草加除く)つられたようにふっと遠い目になった。いくら暇を持て余しているとはいえ、やはりストレスが溜まるのだろう。

「…艦長に掛け合ってみようか」

 なかでも一番ストレスを溜めていそうな副長がかたわらの航海長と砲雷長に同意を求めた。2人は少し考えてから、うなずいた。

「そう、だな…」
「このところとんでもないことばっかりだったしな。陸にあがるのもいいかもしれない」

 その旨を艦長に伝えると、彼は「ふむ」とやはりしばらく考えてからいつもの許可を角松に与えた。まあよかろう。ただし、とひとつ付け加えて。

「今回は副長も休みなさい」

 本来であれば副長は自分そっちのけで部下のために休暇をやりくりしなければならない。角松は戸惑いを浮かべた。

「しかし…」
「今、一番休養が必要なのは君だよ」
「……はい」

 少しきつめの口調で言われ、角松の表情がやわらかく弛んだ。嬉しさと申し訳なさを混ぜ合わせた笑顔は特に男の時と変わらないのだが、やはりどこかしら甘い。梅津はつい目を細めた。海ですごすとなればこの季節、薄着にもなるだろう。それは大いに部下たちを和ませるに違いない、そう思ってのことだったが、少しヒヤリとした。何事もなければいいが。ついでにその場にいた砲雷長と航海長にも休暇を命じ、艦長はいざというときの備えにすることにした。もっとも彼の意図を親友2人が正確にくみとっているかどうかまではわからないが。



 海で遊ぶことを許されたとはいえ、そんなにはしゃぐこともない。なんといっても今の角松には水着がないし、男連中と同じように褌一丁で泳げといわれてもできるはずがない。

「あら、ありますよ、水着」
「…へ?」

 目下のところ愚痴のこぼし相手である桃井にそれを言うと(主に女の体の不便さについての愚痴だ)、正真正銘の女性である彼女はあっさりと問題を解決した。

「寄港地がハワイだったでしょ、持ってきてたんですよ。今年の水着。まだ一回も着てなくてもったいないなと思ってて、ほら任務でいろいろ忙しくなっちゃったしプールにも行けなくて――」

 たたみかける女子トークについていけない角松に構うことなく桃井は私物を収納しているロッカーから包みを取り出した。どこかのブランドなのか、可愛らしいロゴがプリントされている。

「…一回も着てないのになんで3着もあるんだ?」
「それが女ってもんですよ。こっちの白は一昨年のなんですけどね。やっぱり白は勝負水着だと思ってとっておいたんですが結局着れなくて」
「勝負水着って白なのか?黒かと思ってたけど」

 尾栗とのやりとりを思い起こし、尋ねてみれば、桃井はまっさらな白いワンピースタイプの水着を広げ、

「やっぱり白ですよ。スタイルに自信がないと着れないもの。黒って結構ごまかしがききますからね」

 そんな説明をしながら角松の体に合わせて見せた。

「うん、こっちならサイズがあうと思いますよ。今年のは残念ながら、今のサイズなもので」

 悔しいけれど、サイズが大きい。ちょっと癪にさわるようで、桃井は苦い笑いを見せた。
 さあさあと急かされて、角松は水着に着替えた。女性用の水着を着ることに当然ながらためらいはあるものの、なによりこれで泳げるという期待のほうが勝った。
 2年も前の水着は使用していなくても多少の傷みがあるようで、角松の体にはややきつかった。肩や脇、太腿にくいこんでくる感触が慣れず、角松は何度も手を添えた。気恥ずかしいというか、歯が浮くような感じだ。

「こ、これで…いいのか?」

 水着姿で桃井の前に立つ。彼女は意外なほど真剣な眼で上から下まで眺め回し、首を振ってため息をついた。

「…副長、それはダメですよ」





 副長が水着姿になる、という噂はあっというまに「みらい」を駆け巡った。
 桃井と同じ発送をしてハワイで遊ぼうと思っていた、主に若手の者たちが浜辺にビーチパラソルやらビーチチェアやらその他海グッズをずらりと揃え、角松の到着を待つ。気分はアイドルの出待ち。ちなみにラジカセから流れるBGMはサザンではなくハワイアンだった。なんとなくそこだけ雰囲気が異様である。
 しかし現れた角松は、皆の期待に反して作業服姿だった。片腕に飲み物の入ったクーラーボックスを持ち、救護係の桃井をしたがえている。桃井はどこか苦笑に近い笑みだが、角松はなぜか頬を染め、むっつりとしかめっ面だった。桃井は水着の上にシャツを羽織っている。

「なんだ、水着じゃねえの?」

 思い切り残念、と尾栗が言った。菊池はというと残念なようなホッとしたような微妙な顔だ。2人は監督として来ているので角松同様作業服を着ている。

「…………」

 角松は反論もせず全員を集合させると、夏休み前の校長先生の挨拶よろしく細々とした注意事項を述べた。それから解散、となる。男たちは実に名残惜しそうにしていたが、角松が渋面なのにあきらめてそれぞれに散らばって行った。
 自由時間とはいえここには海以外に何もない。仲の良い何人かが固まって砂でなにか作り始めたり素直に泳いだりするだけだ。

「そういや、草加は?」

 色彩のとぼしい浜辺に目立つはずの第2種軍装が見当たらず、角松が尋ねた。正直いなくて良かったと思っている。
 そういえばいないな、と菊池。洋介の水着なんて聞いたら真っ先に飛んできそうだけどな、と尾栗。角松はさらに顔をしかめた。水着姿を見られたくない筆頭が草加なのだ。破廉恥だなんだとうるさいのに加え、ヤツには強姦未遂というとんでもない前科がある。
 角松は海に目を向けた。太陽を反射してきらめく波がまぶしい。楽しげに泳いでいる部下に、ついため息がでてしまう。

「…泳いでこいよ。水着、着てるんだろ?」

 何をそんなにムキになっているのか知らないが。菊池がやんわりと促がした。なんだかんだいって角松の水着を見たいのは菊池も同じなのだ。

「………。笑うなよ?」
「?」

 角松の念押しに親友2人は顔を見合わせ、同時にうなずいた。
 角松は作業服を脱いだ。
 チラチラと上官3人をうかがっていた男たちの動きがぴたりと止まる。全員の視線が集中するなか、蛹から蝶になるようにするりと、濃紺の作業服のなかから白い素肌が現れた。

「…………」
「…………」

 尾栗と菊池はただ呆然と親友の水着姿を見つめた。気のきいたセリフのひとつも言って角松の緊張を解いてやることもできなかった。誰だって目の前に理想の女が現れたらこうなるだろう。
 似合いすぎた。
 男の時と比べて体格はちいさくなっていたが、女にしてはやはり大柄だろう。桃井よりも背が高い。それはつまり、足が長いということになる。そして体と比べると相対的に顔がちいさく、目が大きく見えるのだ。ベリーショートの黒髪がそのちいさな頭をより魅力的にしていた。
 胸から腹にかけてのラインは女らしくやわらかい。同じくやわらかな皮膚に覆われた手足はすんなりと伸び、彼女の体がきちんと鍛えられたものであるのを示してうっすらと筋肉の筋が見えていた。筋肉質というほどでもないそれはすっきりと締まっている。つまりは素晴らしくプロポーションが良い。
 おまけに水着が白のワンピースだ。角松がグラビアモデルを評したとおり、透けそうで透けない感じがなんとも色っぽい。自分の腕のなかで喘がせたい女、そのものだった。

「…なんだよ、なんか言えよっ」

 じっと見つめられてさすがに照れたのか、角松が両手を腰に当てて怒鳴りつけた。ようやく我に返った尾栗と菊池が声を揃えて褒め称える。

「に、似合う似合う!」
「うんうん。眼福眼福」

 ありがたやありがたや。2回続けて言ってしまうのは気まずいからだ。尾栗と菊池は親友のコンビネーションでもって「わざとらしく」角松を褒め、手を叩いた。ぱちぱちという気の抜けた2人分の拍手は間が抜けている。
 もちろんこれは2人の精一杯の演技であった。角松を傷つけないための。角松はあからさまにホッとし、ふふんと胸を張った。重量のある乳房が重たげに揺れた。

「か……っ」
「?」

 不吉な叫びが聞こえたのは、その時だった。

「か、か、かどまつ二佐…っ!?」

 いやな予感、というか確信に角松が振り返ると、そこには案の定、真っ赤に硬直した草加がいた。
 草加は赤面し口元を手で覆いながらも目だけはしっかりばっちり動かして角松を眺めまわしていた。薄い布きれ一枚しか身にまとっていない、あられもない角松の姿を。

「な、な、な…っ」

 その場でぶったおれなかっただけでも上出来だろう。血圧が急上昇していそうな草加にしてみれば。彼はぱくぱくと金魚のように口をあけて酸素を吸い込み、吸い込みすぎて今度は青褪めている。赤くなったり青くなったり大げさに忙しい草加のリアクションに角松がかえって冷静になったほどだ。
 やがて言いたいことがまとまった草加が、ビシッと角松を指差して叫んだ。

「なんだってあなた、そんな、毛がないんです!?」

 しかし草加の驚きは60年分ずれていた。同時に角松にとって非常に突いてほしくない所を外さなかった。というか男がそれについて言及するのはタブーである。現に尾栗と菊池はあーあ、という顔になった。言ったよ、コイツ。

「え、…というか、あなた幾つです?」

 さらに罪を重ねる(女性に歳を尋ねるのは罪である)草加をたしなめたのは、角松ではなく桃井だった。草加にしてみれば大人であればそこここにあってしかるべき体毛がないという、不可解な現実を自分なりに考えてのことであったのだが、そんなものは草加の理屈だ。

「草加少佐!女性にそんなことを訊くものではありません!」

 ビシっと言ったがそれもまた角松にはショックだった。さすがにこの姿で「俺は男だ」と主張することはできない。

「だいたい、無駄毛の処理をするのは女としてあたりまえです!」
「………っ」

 角松が絶句し、凍りついたことに気づかずに桃井はその正当性を並べ立てた。そう、水着に着替えた角松にダメだしをした時と同じように。
 彼女の主張はこうだった。女性が男性に夢を見てもらうためには、内面だけではなく外見をも磨く必要がある。ただ単にスタイルが良ければいいという問題ではなく、仕草ひとつ、眼差しひとつにも気を使うものなのだ。まあしかし、中身が男の角松にそこまでしろとは要求できないが、それでも副長の水着姿を待ち望んでいる男たちをがっかりさせることは、やはり良くない。だからせめて、無駄毛の処理くらいはしなくては。

「…どうやって?」
「簡単ですよ。剃っちゃえばいいんです」

 剃毛。そう、剃毛である。これにはその時の角松はもちろんのこと、草加も引いた。
 そもそも女と違い、男は毛を大切にする。それが頭であろうが脇であろうがあるにこしたことはないだろうというのが男の常識だ。特に彼らのような体育会系男子における体毛は男らしさの象徴となる。つるつるにしてオイルを塗りたくるボディビルダーとはまた一線を隔すことを付け加えておく。まあそれもこれもまた時代によりけりだが、男子も無駄毛の処理に勤しみ美しさを競うこともあるが。しかしこれもまた角松や草加にはまったくあてはまらないのも確かである。

「…………」

 草加は実に複雑な視線でひどく手触りの良さそうな肌になってしまた角松を改めて眺めた。そしてまさかと思いつつ、視線を一ヵ所に固定する。

「……っ、疑うな!そこの毛はある!」

 そこまで剃られてたまるか!草加の視線の含むところを正確に読み取った角松が大声で否定した。
 草加は自分の思考を悟られたことに頬を染め、白い水着に隠されているそこを想像してみた。

「そ、そこだけあるって…よけい卑猥じゃないですか!」
「卑猥なのはおまえの頭だこの猥褻少佐!」

 ぎゃあぎゃあと、書いて字のごとく不毛な会話を繰り広げている上官と厄介者を、周囲はなまぬるい目で見ていた。なんとも色気のない会話である。
 ちなみに事の発端である桃井はというと、ちゃっかりビーチパラソルの影に陣取って日焼け止めクリームを塗っていた。思い切り他人事をアピールしている。
 尾栗と菊池もまたとばっちりはゴメンとばかりにその場から遠ざかっていた。靴を脱ぎ、膝のあたりまで裾をまくりあげて波打ち際を楽しむ。彼らにしても難しいこと抜きの海は久しぶりなのだ。2人とも目と耳は角松と草加をうかがっていたが割り込もうとはしなかった。まだ手と足は出ていないが、それは今の角松が自分の姿がどういうものであるのかを理解しているからであろう。手だけならともかく、蹴りは危険だ。
 草加が角松に何かしようものならば即行で助けるつもりである。だが、だがしかし、である。

「…なんか、ムカつく」
「ああ……」

 いかに会話が不毛とはいえ角松を独占しているのだ。角松は怒り狂っているがそこは士官である。冷静さも残っているだろう。どちらかというとこのバカらしい会話を「草加と」交わしているということを、楽しんでいるようにも見えた。

「だいたい何が卑猥なんだよ。女の子が水着なのに脇毛とかあるほうがよっぽどイヤだぜ」
「あってあたりまえじゃないですか。あるものをとってしまうほうが不自然です。手足に産毛もないなんて、まるで幼女じゃないですか。…なのにソコの毛だけあるって…どういう理屈なんです?」
「不潔っていうか、だらしない感じがする。あると」
「剃ろうが抜こうがいずれ伸びてくるじゃないですか。いちいち気にするようなことですか」
「……変なの」
「変ですよ」

 なにやら顔がニヤつくのは、やはり下ネタゆえだろう。真面目な顔をして語る内容でもないが。
 角松がさらに何かを言おうとしたときだった。草加があっという顔をした。

「…―――…っ?」

 ぬめり。弾力のある冷たいものが背中に滑りこむ。それは背中と水着の間でやわらかく形を変え、皮膚に張り付きながらゆっくりと降下していく。
 ぞわぞわっと竦みあがった角松は、慌てて背中に手を回した。が、水着の内側にあるものをどうすることもできなかった。

「ひゃあ!?な、なんだ…!?やだっ」

 意識できなかったのだろう、ずいぶんと可愛い悲鳴があがった。

「ひ……っ!」

 一気に鳥肌をたてた角松は息を飲んで目の前の人物に縋りついた。弾けるような笑い声が後方からあがり怒りが湧くが、それどころではない。ともかくこの正体不明の気色悪さをどうにかするのが先だ。

「ちょ…、大丈夫ですか角松さん?」
「なんとかしろ草加っ」

 早口にそれだけを言って歯を喰いしばる角松を支えながら、草加はその背にある膨らみを突いてみた。ぷにっとした感触。角松がまた悲鳴をあげる。

「いやだっ」
「な、なんとかしろと言われても、これでは…」

 それがあることで余計に水着が食い込んでいる。これでは手を入れることもできない。このまま水着の中を移動させるか、水着を脱ぐかしかなかった。

「脱がしていいから…っ」
「っ!?」

 角松の要求に草加は息を飲んだ。意外なほど細い肩が、小刻みにふるえている。
 慌てふためく角松を笑ってみていた悪戯の張本人である尾栗と菊池も息を飲んだ。笑顔のまま凍りつく。
 はっきりいってこの手の悪戯は角松にも覚えがあった。悪ガキが悪ノリしてやる遊びのひとつだろう。水着の中に、クラゲの死骸やカニを(こちらは生きたまま)入れて、耐久時間を競うのである。男ならではの遊びだ。なぜなら女子の水着は男子と違い、股がぴったりと隠されているからである。男子の水着はたいてい太腿の辺りまでで緩く、短パンに近い。水が通るからそこからクラゲを出すことができたのだ。もっとも女子のほうが男子よりも精神的に成熟していることもあって、「男ってバカね」という目で見ているので、女子にこの悪戯をする愚か者はいなかった。

「…………」

 草加は意を決して水着の肩紐をするりと外した。一層強い力で角松がしがみつき、ぽにょんとしたなんとも気持ちの良い感触が草加の胸に押し当てられる。
 落ち着け落ち着け。ここは男として耐えるべき場面だ。草加は自分に言い聞かせる。これは緊急事態、人命救助。こんなときにあらぬところを反応させていたら、激しくイメージダウン。無に帰れ私。

「や……、早く…」

 角松が押し殺した声で催促してきた。
 草加は頭の中で念仏を唱えながらえいとばかりに水着を背中のなかほどまで引き摺り下ろす。咄嗟に理性を働かせた角松が胸元を隠したが、豊かな乳房がちらりとはみ出していた。
 うわ、という声がひそやかに広がった。2人の様子を固唾を呑んで窺う男たちは異様な興奮に包まれていた。角松がグラビアモデルに言った「胸の中で泣かせたい」が今まさに実演されているのである。ただひとり桃井だけがそんな男たちをまさに「男ってバカね」と思いながら見ていた。この後に待ち受けているであろう角松の怒りよりも、目の前の欲望に忠実だなんて。
 ずる、と草加が反らされた背中の窪みにちょうど納まっていたクラゲを取り出した。

「と、とれましたよ」
「…………」

 ようやく角松が顔をあげた。目元が赤く染まり涙まで滲んでいる。草加の手の中のクラゲをじっと睨みつけ、そして視線を笑顔のまま硬直している尾栗と菊池に移動させた。2人は笑顔のまま、厭な汗を流している。

「…大丈夫ですか?」
「ああ。…助かった、礼を言う」

 角松は水着を直して立ち上がると、桃井の物言いたげな視線を無視してバスタオルを肩にかけた。再発防止策だ。
 すう、と大きく息を吸い込む。

「航海科、砲雷科、集合!!」

 一喝だった。軍隊仕込のドスの利いた上官の大音声に、その場にいた航海科、砲雷科の科員たちが一斉に集合し、整列する。もちろん尾栗と菊池も含まれている。
 角松は一部始終を笑ったり悶えたりしながら見ていた部下たちを睥睨した。

「どうやら貴様らは『元気』が有り余っているようだ」

 チラッと、整列した者たちの股間を一瞥すると、おおきくうなずく。

「尾栗三佐の悪戯を見ていたな?今は自由時間であり、規律がどうのとうるさく言うつもりはない。たしかにここへきて以来、娯楽のひとつもない状態だ。退屈していたのだろう。尾栗三佐、どうだ」
「はっ!そのとおりであります!」

 びっと背すじを伸ばし、尾栗は答えた。ヤバイ、これは冗談ではなくヤバイ。洋介のヤツそうとう頭にきている。ヘタに逆らえば、以前の草加以上の目にあわされるだろう。尾栗は判決を待つ被告人の気分に陥った。

「よろしい。では、提案だ。健康な成人男性が元気を持て余しているのは惜しいと私は考える。それがおかしな方向へいく前に発散させるべきだ。菊池三佐、反論は?」
「はい、ありません!」

 冷や汗を流しながら、菊池が上を向いて答えた。目を合わせるのが怖いのだ。

「よろしい。大変によろしい」

 角松は大きくうなずき、にっこりと笑みを浮かべた。まったく悪魔的な笑みを。

「防大時代にもやったと思うが、砂浜を50メートルダッシュ、30本だ。もちろんこれはあくまで提案であり、拒否することもできる」

 整列した男たちの前をゆっくりと歩きながら角松は言った。笑みは絶やさない。

「ちょ…俺たちもですか!?」

 思わずといった抗議をあげたのは桐野だった。隣の青梅に至っては上官を容赦なく睨みつけている。上官のとばっちりがこちらまでなぜくるのだ。
 防大の頃であればいざ知らず、今の彼らには体力的に厳しいだろう。角松はうなずいて、言った。

「連帯責任だ」

 ひと言で切って捨てた角松は最後に尾栗の前に立ち止まった。いくら草加から自分たちへ角松の気をひこうとしたのだとはいえ、そんな言い訳がきく状況ではなかった。青褪めた尾栗は恐怖のあまり裏返った声で了解した。

「はい、角松二佐。ありがとうございます!」

 やけくそだった。
 角松はうなずき、その様子をぽかんと見ていた桃井に彼らの監督を命じた。その目が据わっていることに、桃井は自分の予想が当たったことを悟った。気の毒に。

「じゃ、草加行こうぜ?」
「はい?どこにです?」
「あっち。せっかくの海なんだから遊ばないとな。ただし、健全に」

 くすっと笑って草加の腕をとった。やりたいだけやって、すっかり機嫌を治したらしい。
 じゃー頑張れよ。いかにもおざなりな励ましをかけて、角松は草加を海へと引っ張っていった。その姿はまるっきり、デートにはしゃぐ恋人同士だ。
 非常に仲睦まじく、というかいちゃつく2人をよそに、砂浜には男たちの怒号がこだました。