あなたの魂に安らぎあれ(サンプル)





 ザッと風が行き過ぎ、雲が月を隠した。はっと角松が空を見上げた。一瞬で雲は月から遠ざかり、先ほどと変わることのない月が姿を現した。
 痛みにも似た感覚が、草加を貫いた。
 角松は草加に、落胆した表情を見せずに体が冷えないうちに休めと言って艦内へ戻っていった。彼が何を思ったのか、草加がそれを見抜いたこともきっと気づいていただろう、しかし角松はなかったことにした。
 角松の、いかにも軍人らしい隙のない背を見送りながら、湧き上がってくるこの想いはなんだろうと草加は思った。まったく未知の感情であり、感覚であった。身動きもとれないほどの強さで、草加はそれに支配された。
 悲しみか苦しみか、そのどちらでもあるようで、そんなものではないような気もした。ただ、痛みだけを感じていた。歌っている角松を見たときにも似た、しかしそれよりももっとずっと強い痛みに、指先が、痺れているように熱く疼いた。
 資料室で読んだこれから先の『歴史』。角松たちが歩んできた『歴史的事実』が頭の中をぐるぐると巡っていく。
 歴史というのは、過去のものだ。すでに起こってしまった事実を、人は過ちを正すために残し、学ぶ。繰り返さないために、より良き未来を築くために、人は歴史という事実を残すのだ。たとえどれほど醜く、汚濁に塗れたものであろうと、それが人間の歩んできた道なのだと。事実はひとつしかなく、変えようがない。そこへ行く道は幾重にも分かれていたが、事実が変わらないというのは普遍の真理だ。そして人間の歴史は、人間が生み出すのだ。神でも、まして悪魔でもなく。
 角松洋介は、この時代を愛していない。
 草加は奥歯を噛み締めた。彼の目に、この世界はさぞ醜く映っているのだろう。未だじんわりとした痛みに痺れている両手を見つめた。あの時、死ぬはずだった手だ。
 今もそれは変わりなく、草加はいつ死ぬかわからない時代を生きている。生まれてきた以上、死は決定事項であり、角松も例外にはならない。
 暗い海は、いったい幾つの命を飲み込んだのだろう。やがて私もそこへ行き、海になり風になり光となる。彼が美しいと感じるものすべて。目に映るものすべてが美しくなれば、彼は愛してくれるだろうか。
 皮肉だな。草加は口元を歪ませた。笑おうとしたのだが失敗だった。誰も見てはいなかったが、草加だけは自分の失敗を知っていた。やはり、皮肉だ。