さてそのほかはみな、狂気の沙汰(サンプル)





 実に微笑ましい夫婦の会話だ。こちらが羨ましくなるほどの。
 帰ろう。盗み聞きなどしたのが莫迦だった。ひどくみじめな気分だった。草加は足を踏み出し、しかしそこで振り返った。吸い寄せられるような仕草。一日の終わりに角松を見ておきたいと、そう思ったのだと見てしまってから思った。何かの言い訳のように。
 角松は、今まで草加が見たことのない顔をしていた。会社で会う時とも、私人として会った時とも別の顔。
 あえていえば、それは妻の顔だった。
 男性の角松に妻という表現はおかしいかもしれない。だが決して梅津以外には見せないであろう表情だった。およそ男という男が理想として描く妻。優しく、厳しく、賢さの中にも甘えの混じった、けれどもかれのためになら一転戦うことを厭わない勇敢さも併せ持ち、妻でありながら母としての要素も持ち合わせている。深い愛情によって裏打ちされた顔。
 草加は二人に背を向けた。雨の中を歩き出す。タクシー待ちの列は思ったよりも短かったがもう乗る気分ではなかった。とても誰かと、見知らぬ他人にすら顔を見せられない。
 氷雨が傘からはみ出した肩や革靴を容赦なく濡らしていく。感覚がなかった。降って湧いた凶暴な思いつきに、草加は全身を支配されていた。
 梅津は今日、遺言状を作りに行ったと言っていた。そう、遺言状。梅津がいなくなってから必要とされるもの。死。なんと素晴らしい思いつきだろう。梅津がこの世から消えてなくなれば、角松はかれのものではなくなるのだ。
 草加は物事に際し慎重に、熟慮を重ねた上で決断を下す性格だったが、同時に果断極まりない性質を持ち合わせた男でもあった。この時の草加がまさにそうだった。自分の思いついた死という素晴らしい現象を梅津に決定づけた。そしてそのために自分はどう行動すべきか考え始めた。角松洋介の存在は、ここではまったく無視された。それとこれとは別の問題だとかれの頭脳は考えていた。まず、梅津を排除するためにはどうすべきか。草加は考え、考え続け、部屋まで辿り着いた。
 濡れた服を脱ぎ捨ててベッドへ潜り込む。冷え切った体はあたたまることなく、眠りについた。

 そしてその夜もやはり、夢を見た。