桜の国の旗振って(サンプル)
角松が草加に最初にしたことは、草加が角松に最初にしたことと同じであった。
「軍服の前だけ脱いで、これ着ろ」
もっとも始末に困ったのは日本刀だった。どこからどう見てもごまかしようがない。
「しょうがない。誰かに見咎められたら祖父の形見ですって言っとこう」
平和な21世紀の日本で軍刀など持ち歩いていたらその時点で銃刀法違反で捕まってしまう。
「ここに来るまでが危険だったのだ。私は命を狙われている」
「そりゃまた物騒な」
本当のことなのだが角松に危機感をわかれというほうが無理だろう。彼は今まで誰かを殺したことも殺されかけたこともない。おそらく、殺そうと思ったことすらないに違いなかった。命を狙われていると言われても、遠い風景のように実感がつかめない。
「ここのステップに足をかけて。落ちないようにな」
「はい」
角松の自転車の後部には荷台がない。2人乗りには不向きだった。
「じゃ、しゅっぱーつ」
後ろの体重に出だしがよろめいた。腰を浮かせて漕いでいるうちにスピードに乗る。角松の肩に手をかけて立って草加は緊張していた。彼は自転車に乗ったことがなかった。
ゆっくりとしたスピードが一定の速さになり、ようやく草加にも風景を眺める余裕ができた。
角松の世界に行ってみたいと言い出したのは草加だった。
そこがどんな国なのか。角松が生きるにふさわしい世界なのかこの目で確かめたかった。百聞は一見にしかず。あの頃、それを望むことすら思いつかなかったあの頃にはできなかったことが、今ならできるのだ。
角松は気楽に快諾した。
例の写真は、またいきなり帰されては叶わないと折りたたまれてポケットの中だ。広げると桜の風景に空気が揺らいだ。角松と草加は手を繋ぎ、夏から春へ、理屈にあわない不自然なトンネルを潜り抜けた。
2人がまず向かったのは、やはり角松の部屋だった。
角松としてはさっさと大学に直行してしまいたかったのだが、日本刀を所持した男を連れて行くわけにはいかない。
草加はぽかんとした顔であたりを見上げている。
「すごいな…ここが東京か」
ビル群や道路、自動車のみならず電信柱にすら感動している草加に、角松もどことなく誇らしい気分になった。
「…本当に大学行くのか?もっと面白いところがいっぱいあるぜ」
「この時代そのものに興味があるのだ。ならば大学はてっとり早いだろう?それに、あなたがどういう研究をしているかの興味もある」
「別にラボ持ってるわけじゃないし、4年生なんてほぼ卒論に追われてるだけだ」
角松洋介が大学生であることを知った草加の驚きは相当なものだった。年齢が『彼』より若いから自衛隊に入隊する前かもしれないとは思ったが、まったく関係のない生活を送っていたとは考えなかったのだ。そういえば初対面の際に草加の軍服姿にあからさまではないものの嫌悪感を示していた。さりげなく軍が嫌いなのかと問えば、アッサリまあなと認められてしまった。理由を訊いても家庭の事情だとそっけない返事だ。『彼』は父親が自衛官だったから自分も自衛隊に入ったのだと聞いたことがある。彼もほぼ同じ人生を歩んできたはずだが、なぜなのだろう。もっと深く聞いてみたかったがあまりしつこくしても逆にどうしてだと訊きかえされかねない。草加は躊躇っていた。
大学に着くと、角松は草加の希望通り図書館へ案内した。基本的に大学構内は部外者立ち入り禁止だが、たとえ部外者がいても誰がそうだかわからないだろう。老若男女どころか様々な人種があふれかえる活気に草加は感嘆の声をあげた。
「…じゃ、俺は講義に行くから」
「ああ」
子供ではないのだからいちいち世話をする必要もないだろうと、角松は行ってしまった。わりと無責任だが、草加にはありがたいことだ。何を調べるつもりなのかいちいち説明するのは骨が折れるだろう。草加は未来の象牙の塔に立ち、積み重ねられた知識の山へと足を踏み入れた。
角松は落ち着かない気分で授業を受けていた。草加の希望と自分の都合が一致したので大学に連れてきてしまったが、本当に大丈夫だろうか。草加が生きている時代と今は、あまりにも違いすぎる。未来を知ることが良いことだとは思えなかった。未来とは未知であり、同時に無垢でもある。だからこそ人は未来に夢や希望を描くのだ。草加に未来を知る覚悟があったとしても、導かれる結果が望んだ未来とかけ離れていたら失望してしまうだろう。角松は自分たちとは違う道のりを歩き出している草加の時代がより良くなっていけばいいと願っている。だがそれは、草加がひとりで決めることではなく、草加たちが悩みながら掴み取っていくものだ。
草加に言おう、カンニングは、やはりダメだ。
今日の講義を終えると『角松は友人とのおしゃべりに加わることなく図書館に急いだ。
だが、真剣な顔つきで読みふけっている草加を前にすると、何も言えなくなってしまう。切実なものを、草加の顔から読み取ることができた。
草加は軍人だ。大切な人々を喪う修羅場を潜り抜けてきた軍人だ。おそらくその手は何人もの人を殺したことがあるだろう。彼はこの世界を、どう思っただろうか。戦争は、もはや見る影もない平和な国。