らはラッパのラ





 こんなもの簡単だろうと思っていたことができないと、わりと地味にショックだ。

「…………」

 音が出ない。角松は首をかしげつつ、トランペットを睨みつけた。彼と同じく吹奏楽器であるサクソフォンを担当している菊池は器用に音をだしている。角松はもう一度息を吹き込んだが、すかぁとなんとも情けない空気の行き過ぎる音しかしなかった。

「角松、大丈夫か?」

 ピアノの音を確かめていた梅津が尋ねた。ダメとも言えず、はあと曖昧に答えておく。実際大丈夫ではないが、練習すればなんとかなるだろう。練習あるのみだ。
 しかし初日の今日、角松は練習どころかその手前の段階でつまづいてしまった。

「意外〜。洋介って楽器ダメなんだ〜」
「コツをつかめばなんとかなるさ」

 いかにも楽しそうにからかったのは尾栗、慰めたのは菊池だ。角松はというと、何を言われても腹が立つとばかりにくちびるを引き結んでいる。

「コツなんてあるのか?」
「あるだろう。俺だって音を出すのに一時間近くかかったぞ。音を出すのに慣れるのも大変だった」

 苦労を語られるとそこまで行っていないのが情けなくなってくる。角松はさらに沈んだ。
 弦に置く指の位置と強弱だけで音を出すチェロと違い、サクソフォンやトランペットはくちびると舌を使う。向き不向きもあるだろうが、音を出せるようになるには要領をつかまねばならない。
 トランペットはマウスピースという丸い差込型の吹込み管にくちびるをあて、細かく振動されることで音を発生させる。たいていの金管楽器はこのようにして音を出すが、くちびるを震わせることが初心者にはむずかしいのだ。くちびるだけで音階を変化させる必要もある。これができないと、金管楽器は話にもならない。

「これがマウスピースか」

 トランペット用のちいさなマウスピース。サクソフォンもマウスピースを用いるが、構造がまったく違う。こちらはリードという木片をマウスピースに付けて締金で止める。リードの種類によって音も違ってくるので重要なのには変わりない。

「落とすなよ」

 金属製のマウスピースはリードと違って壊れることはないが、歪めば音に違いが出てしまう。ハンドタオルに包まれたマウスピースを受け取った尾栗は、しげしげと眺めた。ためしにとくちびるをあて、息を吹き込んでみる。が、空気のかすれた音がするだけだった。ふうんと音にならないことに不満そうな顔をして菊池に回す。口の部分をタオルで拭い、菊池もくちびるをあてた。たしかこうやるんだったよなと頭で思い浮かべて吹く。
 低い、布を裂くような音が出た。

「あっ!」
「あ〜あ」

 角松は目を怒らせて立ち上がり、尾栗は目を覆った。菊池ははっとしてマウスピースを離した。ジト目で睨まれて、背中を嫌な汗が伝っていく。

「あ、よ、…洋介」

 菊池は口ごもった。まぐれなのだ。たまたまなのだ。理屈がわかっているのだからできるかもしれないとは思っていたが、本当に音が出るとは予想していなかった。しかしそれを言ったら理屈がわかっていても吹けずにいる角松を侮辱することになる。視線を泳がせたが角松は容赦なかった。

「どうやったんだ?」
「いや、その…」

 たぶんお前と同じように。しかしこれでは角松は納得できない。さらに詰め寄った。

「もう一回やってみろ」
「…………」

 仕方なく言われるまま吹いてみる。マウスピース特有のにぶい音に、角松の目つきがますます鋭くなった。
 今度はマウスピースなしで。角松の要求のままマウスピースを外す。くちびるに彼の目が集中するのを感じて、頬が熱くなってきた。緊張している菊池に尾栗はにやにやと笑うだけで、助けるつもりはなさそうだった。下手なことを言えばからかわれるだろう。

「ほら、早く」

 真似をするつもりなのだろう。角松がくちびるを舐めてしめらせた。艶やかなそこにどきりとする。尾栗の目が細くなった。男臭い笑みだと菊池は思う。焦りとともに苛立ちが湧き上がった。
 人差し指と中指を、角松のくちびるにあてた。

「……っ?」

 指一本ぶんほどを開けて、吹いてみるように促す。驚いていた角松の顔が真剣なものになり、息が細く吹き出された。

「そうじゃない。くちびるを震わせるんだ」

 こう、と角松の手をとり、自分のくちびるに同じようにあてさせる。そのまま吹いてみせた。

「………っ!」

 ぱっと角松の手が飛び退いた。顔が赤くなっている。
 ひゅうっと尾栗が口笛を吹く。フン、と菊池は鼻を鳴らした。ちょっと溜飲がさがった。

「…わかったか?」
「な、なんとなく」

 ほら、とマウスピースを返す。角松は手の腹で拭うと自分のくちびるにあてた。吹く。
 ひゅうっと再び尾栗の口笛。菊池はほっとしたようながっかりしたような気分で肩を落とした。

「吹いてみろよ」

 トランペットを差し出すと、角松は紅潮した面持ちで受け取り、マウスピースを装着した。
 軽快な音。角松の目が丸くなり、それから彼は2人に笑いかけた。ドレミファソラシド・ドシラソファミレド。

「…吹けた!」

 幾つになっても初めてのことに成功すれば嬉しいものだ。苦労をしたのならばなおさらである。子供のように喜ぶ同い年の親友に、2人は微笑ましくなった。

「そのまま、なんか吹いてよ」

 尾栗のリクエストに角松は笑って応えた。音こそ出なかったが指の位置と楽譜は頭に入っている。練習曲だが吹けるのは楽しい。
 最後の一音。角松は浸るように瞼を下ろした。名残惜しげに空気を震わせ、音が止む。
 キスに似ていた。