代償






 地区の広報誌に、市民プールの無料券がついてきた。一家族様限定で一回限り。ちょっと早いが学校が夏休みになり子供たちで溢れかえる前に行こうと決め、角松は朝のジョギングでそれを菊池と草加にうっかりもらした。それはもう嬉しそうに。

「…………」
「…………」

 言われた二人は角松の住むマンション前でいつものとおり別れると、ろくに読みもしなかった広報誌をあわてて引っぱり出し、ページのはしっこに切り取り線が記されただけで使用して欲しいのか欲しくないのかいまひとつわからないチケットを握りしめた。せっかくもらったんだし使わないと損、だけどこの歳になって男がひとりで行くにはためらわれるし友人を誘うのもちょっと、という口実を得るために。
 そんなわけでちゃっかり加わった草加と菊池に、水着などの入ったバッグを持った角松と二人の愛息子を腕に抱いた尾栗は呆れかえったが、にこやかにさわやかに火花を飛ばしあっている横恋慕二人に何も言うことはできなかった。
 自分の嫁さんがモテすぎるのも困ったものだが優越感があることもたしかで、なにより角松がけして裏切ったりしないことを尾栗は信じていた。そして隣で呆れている角松が、家族団欒を邪魔されたことに苛立っていることも知っていた。だれだってデートを邪魔されれば悪気はないとわかっていても(わかっているからこそ)内心むかっ腹たつだろう。



 市民プールは思ったとおりすいていた。多くは角松同様混む前に来ておこうと考えた子供連れの母親グループで、何人かで固まっている。男が少ないせいもあるがどうみても家族には見えない子供含めた五人は目立っていた。
 角松の水着は黒い競泳用水着だった。脇に鮮やかなブルーの流線型の模様がひとすじ入っているだけでいたって地味である。いかにも鍛えられた身体にぴったりとフィットしている水着は角松にとても良く似合っていた。他の三人も同じく競泳用水着。子供だけは某菓子パンキャラクターの描かれた子供らしい水着だった。
 草加は初めて見る角松の水着姿に見蕩れていた。あまり他人に肌をさらして欲しくないと思うがそれを本人に言ってもいいのは角松の夫である尾栗ただひとりだ。草加は意識せずに角松のさらされた肌を眺め回し、そしてそこに尾栗のキスマークなどがつけられていないことを確認してほっとした。

「なんだ?」

 まだ肌寒いなと上にパーカーを羽織った角松が、草加のぶしつけな視線に怪訝な顔をした。いえ、と目をそらした草加が何を考えていたのか瞬時に悟り、だが胸に湧いた怒りを顔に出すことなく子供の手を引いて子供用のプールへと向かう。角松と尾栗の愛息子は狭くて浅いプールに目を丸くしていた。

「そっか、プールは初めてだっけ」
「海にはしょっちゅう行ってたけどな。プールデビューだ」

 大人にはせいぜい膝の辺りまでしかない子供用プールはそれでも子供の身長では胸まで水が来た。一度母を見上げ、うなずくのを見るや子供はちいさな顔を思い切りざぶんと水につけた。すぐに上げ、目が沁みてこないことが嬉しかったらしく歓声をあげて何度も同じ事を繰り返した。

「俺が見てるから、泳いできていいぞ」

 ちいさな手を引いてまずはバタ足の訓練をさせてやりながら角松が言った。子供用プールで何もすることがない尾栗は助かったとばかりに菊池を誘って行ってしまう。所在なげにプールサイドに立っていた草加は所在なげに立ったままだ。

「…草加さん、は?」
「私は、…あまり泳げないので」

 それは事実だが、下心でもあった。こうしていれば、傍目には草加と角松が夫婦のように見えるだろう。仲の良い親子だと。
 かりそめの妄想と願望に頬を緩めた草加に、ふうんと気のない相槌をうって、角松は子供の手を放してやった。海とは違い向かってくる波のないプールは子供にとっては快適で、彼はまたたくまに狭いプールを自在に泳ぎ始めた。他の子供たちは水の冷たさにひるんであまり泳いでいない。母親が子供より自分たちのおしゃべりに夢中なのであまりあちこちに行けないのだろう。時々ちらちらと母親たちの目が草加を見ていた。
 夏とはいえ今日のように肌寒い日は泳いでいても体が冷えやすい。角松はだだをこねる息子をなだめて時々暖をとらせた。

「それにしてもあいつら、いつまで泳いでるんだ」

 ずるい、と愚痴りながらホットココアを飲ませている角松の声が聞こえたようなタイミングで、二人が戻ってきた。

「おそい」

 どことなく拗ねた響きを含んだお叱りに、尾栗は悪いと手を顔の前で合わせた。

「つい雅行と競争しちゃってさ」
「まさかずっと泳いでたのか?」

 バッグからタオルを取り出した角松が、それを頭からかぶせた。

「体が冷えちゃってるじゃないか。…くちびる、紫になってるぞ」

 と、言うが早いか角松は夫のくちびるに自分のそれを重ねた。その間にも彼の髪の毛を丁寧な手つきで拭いている。大きなタオルで隠れているので、傍から見ればただ頭を拭いてあげているようにしか見えないだろう。
 だが、菊池と草加はすぐ隣にいた。これ以上ないほど見せ付けられた二人は一瞬硬直する。菊池は胸の痛みに耐えかねてうつむいた。動いたのは草加だった。
 彼は無意識のままに手を伸ばし、角松を尾栗から引き剥がしていた。キスを強引に中止させられた角松が驚いて振り返る。草加の瞳には傷ついた色がありありと浮かんでいた。

「なんだよ草加」

 いいところを邪魔された不満を隠さずに睨みつけると、草加はようやく手を放した。が、痛みの支配力は強いらしくこわばった表情のままだ。

「………い、え…」

 なんとか暗く掠れた声で返事ともつかない声をもらした草加を一瞥して、角松は尾栗に泳いでくると言った。

「なにかあったかいものでも飲んでおけよ?」
「はいはい」
「はいは一回」

 角松の奥さんらしいセリフに笑ってうなずいて、尾栗は好きなだけ泳いでこいと送り出した。内心では二人の男におおいに同情している。
 角松は今日、家族水入らずでプールに行けることをとても楽しみにしていた。尾栗と、そして自分の仕事の関係上、たとえ日曜日であっても親子でいられる時間は少ない。一般の会社員とは違い有給休暇がとりにくいこともあるが、それ以上に部下の教育というか、面倒をみなくてはならないことが多いからだ。尾栗が角松の『夫』であり子供の『父親』でいられる時間は、同時に角松が安心して過ごせる時間でもある。それを草加と菊池に邪魔された。
 角松は二人が自分に寄せている好意にとっくに気がついている。角松にしてみても悪い気がしないこともあって、二人に甘い態度をとってきた。言い換えれば曖昧な態度だ。はっきりと告白でもされればはっきりと断るだろうが、草加も菊池も答えがわかっているのでなにも言わずにこうして微妙な関係を続けてきたのだ。
 だから時々、彼らは痛い目にあうことになる。
 角松は今、自分がだれのものなのか、これ以上ないほどはっきりと示してみせたのだ。自分がそれを望んでいるのだと。
 尾栗は自分が掴んでいる幸運と幸福を欠片も疑っていない。それがだれかの不幸に繋がると知っていても手放すつもりはまったくなかった。
 水着に隠れて見えない、かなり際どいところに尾栗はその証しを刻み付けていた。もし角松の肌を暴こうとする不届き者がいれば、イザという場面でそれを発見することになるだろう。

「好きなだけ泳がせておいていいのか?もう30分もあがってこないぞ」

 痛みから回復した菊池が心配そうに言った。泳ぎ疲れたのか尾栗に抱っこされた子供は眠ってしまっている。大人用のプールに移動した男たちは楽しげに泳いでいる角松をずっと眺めていたのだ。角松はまるで泳ぐ為に生まれてきたいきもののように生き生きと輝いている。

「食いもんでも持って呼べば来るさ」

 釣りじゃあるまいしと思ったがあながちハズレでもない。尾栗のセリフに草加は複雑な笑みを浮かべた。

「それに冷えたらあっためてやるから大丈夫」

 その特権を持ったただひとりの男の言葉を肯定するように、角松が水しぶきをあげた。