泣く資格など、ない
デートは角松の言ったとおり、いたって健全だった。夕方の帰り道に少し早めの夕飯として屋台のラーメンを食べた。バイクの風に当たり続けて冷えた体にラーメンは驚くほどあたたかく、美味しかった。こういうところで食べるのが妙に美味いんだよなと角松が自慢げに言った。
再びバイクを走らせる帰り道。フルフェイスの中からやや音程の外れた鼻歌が聞こえてきた。角松が歌っているのだった。何の曲なのかまるでわからなかったが、角松の気分がとても良いことが草加にも伝わった。嬉しかった。
駅に着けば、別れの時間だ。
「…うちに寄っていきませんか」
草加に他意はなかった。ただ別れを惜しむ気持ちで角松を誘ったのだが、彼は渋い顔をして黙り込んでしまった。いまさらいうまでもなく、角松は草加の部屋で痛い目をみている。
「…………」
「あっ。いえ、…何もしませんから」
下心を警戒された草加が言い訳がましく角松の疑いを否定した。慌てる草加にくすりと笑い、角松が肩をすくめた。
「…じゃ、片付け手伝ってやろうかな」
「…………」
今の草加の部屋は、はっきりいって客を招くような部屋ではない。自分の部屋の惨状を思い出し、今度は草加が黙り込んでしまった。
駅周辺の有料駐車場にバイクを停めてくると行った角松を見送って、草加は足早に部屋へと向かった。せめて少しくらい片付けておかなくては、本当に掃除で終わりだ。
だが草加の足は部屋の前で止まってしまった。見覚えのある顔が、ドアの前で彼を待っていたからだ。草加を見つけ、ほっとしたように走り寄ってくる。
「…どうして、ここに」
昨夜店に来なかったし、携帯電話も繋がらなかったから心配したのだと男は言った。さすがに酒の匂いはしない。もしかしたら今夜も店に行くつもりがないことを予感したのかもしれない。草加がその気にさせたまま、放置された男。
「…それは」
すまなかった。とりあえず謝罪しておく。今の今まで忘れ去っていた男だが、心配してくれたのを無下にはできなかった。携帯電話は壊れてしまったので新しく買い換えたのだと説明すると、彼は自分の携帯電話を取り出して新しいアドレスを教えてくれと言ってきた。当然の要求に草加は言われるまま携帯電話を取り出し、しかしそこで躊躇した。
男にアドレスを教えるということは、彼との関係を維持することになる。つまりは肉体関係だ。
体の関係がある男と連絡を取り合っていることを角松が知ったらどう思うだろう。今日のデートは2人の間が進展したとはいい難い健全なものだった。2人にとってはちいさくとも、草加にとっては大きな一歩だ。
「悪いが…帰ってくれ」
男が顔色を変えた。当然のように、草加と寝るつもりだったのだろう。
「もう、つきあえない。好きな男ができたんだ」
しかも角松は今、ここへ向かっている。草加はハッとして通路から階下を見下ろした。ちょうど角松がマンションへと入ろうとしているところだった。
まずい。このままでは角松と男が鉢合わせしてしまう。どういうことだと男が草加に詰め寄った。納得させるのは時間がかかるだろう。過去の所業を悔やんでいる時間はなかった。草加は慌てた。
部屋を開け、くっついてくる男を寝室へと追い立てる。今日はまさか角松も寝室にまでは来ないだろう。絶対に出てくるなと念を押し、草加は大急ぎで片付け始めた。間に合うはずがないが、少しでも小奇麗にしておかなければ来るまでに何をやってたんだと言われてしまう。
ピンポーン、とチャイムが鳴る。心臓が嫌な感じで縮みあがった。
「いらっしゃい」
笑顔がぎこちなくならないように懸命に、草加は笑って角松を出迎えた。意識は寝室を窺っている。角松は何度か瞬きをしてそんな草加を見つめた。
「どうかしたのか?」
「いえ…その…」
草加はちらりと背後を窺った。角松の視線がつられて奥を見る。ちいさなため息。片付けの途中だった部屋は、余計にちらかって見えた。
「おまえ掃除ヘタだな…」
「…………」
話題がずれたことにほっとしつつも、そんなことはありませんと草加は反論した。時間があればいくらでも綺麗にできる。それは誰だってそうだろと角松が笑った。
「…何か、匂うな」
「何…が?」
一瞬ドキッとしたことが角松にわからないようにさりげなく、草加が問うた。2人は台所の片づけをしている。角松と会わずにいた期間、草加がほとんど外食かコンビニエンスストアの弁当などで食事をすませていたため、食器にはうっすらと埃が積もっている有様だった。こんなところで淹れられたものを飲みたくないと、至極まっとうな角松の意見を受け入れての掃除だった。
角松が鼻を鳴らしながら異臭の元を探し、冷蔵庫を開け――すぐさま閉めた。
「角松さん?」
「おまえコレ…いつからほったらかしなんだ!?」
冷蔵庫の中にはたいしてモノが入っていない。だがタッパーの中に作りおきしてあった「何か」が著しい変化をみせていた。不吉な国防色のカビらしきものをまとわせて膨らみ、蓋を押し上げてはみ出している。
「新種の生命体かよ」
「な、なんでしょうね?」
角松の呆れ顔に、草加もひきつった笑みを浮かべた。恐る恐る取り出し、中身を捨てる。もはや何であったのかの判別も不可能だった。タッパーを洗って、漂白剤で消毒する。異臭の元はこれだった。
ようやく綺麗になった台所で、角松がコーヒーを淹れた。どこまでも警戒している角松に、草加は反省し、恐縮するのみだ。
どことなく小汚いリビングでコーヒーを飲み、ほっとひと息ついたところで角松が言った。
「じゃあ、俺帰る」
「え……っ」
角松が自分の部屋で警戒しつつもくつろいでいることに嬉しさを噛み締めていた草加は、彼を引き止める。さっさと立ち上がっていた角松に追い縋った。
「もう?ゆっくりしていってください」
「長居しても悪いだろ。もともと片付けに来ただけだし。後は自分でやれよ?」
でも、と未練たっぷりの草加を、角松は冷たく鋭い目で睥睨した。
「それとも、」
草加は角松の変化に硬直した。
「身辺整理まで俺に手伝わせる気か?」
「………!」
「イロイロと最低だけどな草加、今度からちゃんと、靴も隠したほうがいいぞ」
玄関で自分の靴を履いた角松が並べられた靴を目で示した。一人暮らしの草加の玄関には今、仕事用の革靴と今日履いていたスニーカー、そしてもうひとつ。あきらかに草加のものではないスニーカーがあった。それだけ、踵が履き潰されていた。
青褪める草加に角松は冷たい微笑を与えた。最初から、何もかも承知であったのだ。
ただ、草加が何も言わなかったことが、角松を傷つけた。
「何か言うことは」
「…彼とは別れます」
彼、ね。呆れたような侮蔑を含んだ呟きに、草加の顔が慙愧に歪む。
角松が本気を求めてきた時、どうして逃げ出したのだろう。あきらめることもできなかったくせに、甘やかす腕に縋りついた過去。悔やんだところで消えることのない事実は今、草加の部屋の寝室に隠れている。
「じゃあ、…またな」
ひらひらと手を振って、角松は帰っていった。
草加は呆然としたままリビングに戻ると、角松の座っていた場所にへたりこんだ。こてんと頭をテーブルに乗せ、彼が口をつけたコーヒーカップを見つめた。
「………っ」
好きだ。角松への恋心がじわりと潤んで溢れそうになる。泣く資格など、自分にはないのだ。わかっている。
角松を求めるのなら、戦うしかない。草加は自分の過去と対峙すべく、すっくと立ち上がり、決意した。