責任と良心と打算と諦念と
草加は朝から何度も確認しているカレンダーを見た。今日は間違いなく今日で、間違えようがないのだが、もしかして今は昨日の自分が見ている都合の良い夢なのではないかと疑ってみたり、あるいは今日の約束そのものが実はたんなる思い込みなのではないかと思ってみたりと忙しい。
昨日の朝、帰り際に角松が言った。草加、明日デートしよう。
昨夜はあれから2人は草加の部屋へと行き、角松はそのまま泊まることになった。草加の傷の手当をしただけで2人は何事もなく朝を迎え、家主の家事への無関心ぶりがあきらかになる一悶着を経て解散となったのだ。玄関での出来事。目を丸くした草加に、俺たちデートもしたことなかったよなと呆れたように角松は続けた。
明日は予定何かあるのか。ありません、ありえません。じゃ、明日。そこの駅で。あったかくして来いよ。角松は自分が何を言っているのかわかっていたのだろうか。あなたが好きですと言っている前科持ちの男とデート。それはどういうことになるのだ。角松とデート。ふたりでおでかけ。
それからの草加は大変だった。まず会社では怪我をしているにも関わらず妙に浮かれているのをごまかさなくてはならなかったし、壊れてしまった携帯電話の手続きをしなければならなかった。デートには何を着て行けばいいだろうかと会社帰りにデパートに寄った。どこへ行くのか、角松は教えてくれなかったのでよけいにあれこれと考えてしまい、時間はあっという間に過ぎていった。まだ一晩あるというのにすでに軽い疲労を覚えたほどである。
そして今日。草加はこの数日間で実に久しぶりとなる爽やかな気分で家を出た。わかりやすいことこの上ないが体が浮き上がるように軽く感じた。
待ち合わせの時間より少し早く待ち合わせの駅に着く。角松はまだ来ていなかった。
ほっと息をついた草加は近くのショウウインドウで自分の姿をチェックしようとガラスを覗きこみ、眼を見張った。
一瞬自分が子供のように見えたのだ。あながち間違ってはいないかもしれないと思うといたたまれなくなる。情けないことに、草加にとってこれは初デートも同然なのだ。
もちろん、草加も男だ。デートくらいしたことはある。
だが、本当の意味で好きな相手とのデートとなると初めてだった。照れと見栄が入り混じった、初々しい少年。それが今、草加に見えた自分だった。
「草加!」
ヴォン、とエンジンをふかす音とともに角松の呼ぶ声。パッと振り返ると、そこにはフルフェイスのヘルメットを脱いだ角松が手を振っていた。エンジンを止め、バイクから降りる。草加は慌てて駆け寄った。あたたかくしてこいというのはこういう意味だったのかと仰天している。
「おはようございます、それ…」
おはようと言って角松はシートをポンと叩いた。
「俺の相棒。まぁ友だちの古いやつを譲られたから、おんぼろだけどな」
角松は背負っていたバッグから彼のものと色違いのヘルメットを取り出し、草加に被せた。それからそのバッグを今度は草加に背負わせた。後部シートに跨らせる。
「手摺りがないから腹にしがみついてもらうけど、手を離すなよ」
「はい」
男2人を乗せたバイクがいささか苦しげなエンジン音を鳴らす。大丈夫かなと一瞬ヒヤリとした草加の心を読んだように、ちゃんと整備したと角松が言って、手袋を外した手を差し出してみせた。太くて節ばった指先には黒いオイルの跡。いかにも使い慣れた彼の手に、草加はわけもなくときめいた。あの手によって整備されたものに乗っている。
「じゃ、行くぞ。間違っても寝るなよ」
「寝ませんよ!」
いくらなんでもそこまで気を抜いたりはしない。草加は言い募ったが、角松はフルフェイスの中から後ろは気持ちがいいからとくぐもった声で言い返してきた。
本当だった。
ハンドルを握る緊張感がない代わりに、他人に身を任せているのだという緊張があった。しがみついた体から伝わってくるあたたかさ。互いの鼓動さえも聞こえてくるようだ。気を使ってくれているのか時々角松が話しかけてくる。声が、空間を猛スピードで移動する。瞬時に背後へと飛ばされていくのに邪魔をされながら、叫ぶように会話した。どきどきする。自動車の密室とはまったく違う空気だった。ぴったりと密着した体から生み出されるそれはまったく新鮮だった。キスすることも、手を繋ぐことすらできないのに、こんなに近くに感じている。
「…はー…」
目的地に着いたとき、草加はすっかりまいっていた。こんなにどきどきしたのは、たぶん生まれて初めてだ。
「帰りは寝てしまうかもしれない」
正直な感想をもらすと角松が得意げな顔をした。
「気持ちいいだろ」
「…すごく」
2人ぶんのヘルメットをバッグに収納し、角松は肩にかけた。草加は自分の手を広げてみた。手袋の中の手は冷えているのに、汗ばんでいた。緊張から解き放たれ、ちいさく震えている。
駐車場に、バイクは少なかった。この寒い季節にわざわざ風の中を潜り抜けて来る物好きは少ないのだろう。ちらほらと見えるのは家族連れやカップル。同性同士というのはもっぱら女性だけだった。いい歳した男の二人連れなんて、珍しいにもほどがある。
角松は本当にノーマルな嗜好なのだなと草加はふっと悟った。デートに慣れた男同士は、もっと秘めやかでロマンティックな場所を選ぶのだ。太陽の眩しい日中ではなく、夕暮れ時の湿っぽい雰囲気を好む。表ではなく裏。太陽ではなく月。密やかに、やさしい闇に溶け込むように。
「角松さん」
「なんだ?」
「どうして急にデートしようなんて、…言い出したのですか?」
「ん、――…」
訊くか、そういうこと。独り言のように角松はぼやいた。草加と視線があうと気まずげに逸らす。
「…大人になるって厄介だよな」
「…?」
「この次に何が起こるのか、ある程度先が読める。たとえば誰かとつきあいだしたら、この歳だし結婚のことを厭でも意識する。楽しいことだけじゃなくて、現実的なことをだ」
「…それで?」
草加は男だ。角松とそういうつきあいになったとしても、結婚という目的地には当然辿り着かない。
「このまえの夜、目の前ですっころんだお前見て、キスしたいって思ったんだ」
「は!?」
ちなみに草加の手のひらにはバンドエイドが貼り付けてある。額と鼻先はさすがにはっていないが、擦り傷がばっちり残っていた。
「だけどあそこでキスしたら、コイツ絶対調子付くと思って」
「それで、デート?」
「普通に健全なデート、したことなさそうだったから。誘ったら喜ぶかなと」
「………」
草加は唖然として、少し照れくさそうな顔をしている角松を見つめた。どうしてそういう思考になったのかよくわからないが、この人いったいどれだけ私のことを見抜いているのだろう。そして、思った。もしかしたら、とんでもない男に惚れてしまったのではないだろうか?
諦めにも似た、わくわくとする予感に全身が高揚していく。
恋だった。