無慈悲を演じる義務
今、自分が何をしているのか、角松はよくわかっている。
人もまばらな深夜の地下鉄に乗り、過ぎ去り忘れようとしていたはずの男の元へと向かっているのだ。よくわかっている。乗るべきではないと、後悔もしはじめているのだ。
だが、どうにもならなかった。声をかけた途端に衝撃音と共に切れてしまった電話。草加になにかあったのだと思った瞬間、財布だけをつかんで駆け出していた。
行動せずにはいられなかったのだ。会えずにいてもどこかで元気にいるだろうという楽観的な思いがあればこそ無慈悲にもなれた。幸せになどといえるほど傲慢にはなれないが、それでも変わらぬ毎日を送り、別のいいひとを見つけてくれれば良かった。それでいずれ忘れてしまえれば、良かったのだ。
けれど。
ガシャン、バキン、と携帯電話が破壊された音に血の気が引いた。純粋に怖いと思った。草加拓海を喪うかもしれないと、もう二度と、祈りさえも届かない場所に行ってしまうかもしれないと思うと怖かった。
やけに遅く感じる車内で、角松は恐怖の痛みに苛まれていた。莫迦なことをしていると大人の部分が嘲笑う。草加に会って、どうしようというのだ。無駄に期待だけさせても、互いに傷つくだけだ。
一度だけ降りたことのある駅に着く。草加の部屋へはどう行くのだったろうか。すでにおぼろげになりつつある道順をたどりながら、草加を探した。地下鉄の出口に近づくにつれて冷気が強くなっていく。外へと出れば密閉空間の籠もったあたたかさがあっという間に吹き飛ばされた。冬の夜。白い息だけが目立った。
草加は、と頭を巡らせる必要はなかった。がさりとビニール袋が落下した音の方向に目をやれば、その先で草加が全力疾走していたからだ。まさかこうもあっけなく見つかるとは思わなかった角松だが、すぐさま追いかけ始めた。彼の夕食だったのだろう、コンビニエンスストアのビニール袋からはおでんの汁が零れていた。
なぜ追いかけるのか、角松の頭からすでに疑問は消えていた。無事だったのだからいいじゃないか。そうは思うが現に草加は逃げていて、逃げられたら追わなくてはならないのだ。
草加は本気で全力疾走している。2人の距離はなかなか縮まらなかった。しだいに息があがってくる。
「…っあ!」
「!?」
突然、草加が足をもつれさせた。勢いは急に止まらない。ほぼそのままの速度を保ったまま草加は顔面から地面に突っ込んでいた。
「草加!」
あまり見ることのできない盛大な転びっぷりに、通り過ぎてしまった角松が慌ててUターンした。大きく上下する背中。草加は呼吸するだけで精一杯らしく起き上がらない。
そっと背中を撫で擦るとようやく上半身を起こした。
額と鼻の先が擦り剥けて血が滲んでいる。つい触ろうとして角松は手を引っ込めた。触ったところで傷が治るわけではない、ただ痛いだけだ。
「立てるか?」
草加は座り込んだまま、角松と視線を合わせようとしなかった。じわりと目に涙を浮かべている。
「……、っ、して…」
どうして、とちいさな声で草加が言った。くしゃりと顔が歪み、大粒の涙がぼろぼろと溢れる。咄嗟に地面についたのだろう手のひらは見事に皮が剥け、砂利や土まみれの血に濡れていた。その手で目元を拭おうとしたのを角松は止めた。ポケットにはあいにくと財布しか入っていない。手当てをしてやることもできなかった。
仕方なく、余計なことをしないように手を支えたまま、草加の気が済むまで泣かせてやることにした。涙には眼球だけでなく心に対しての浄化作用がある。泣きたい時に泣けるだけなくというのは、大人になると贅沢になるのだ。
「…どうして…ここに……?」
時折しゃくりあげながら、掠れた声で草加が訊いた。ため息混じりに答える。心のどこかで危惧していた、もしかしたら草加の罠かもしれないという疑念は霧散していた。
「あんな電話されたら、心配するのはあたりまえだろ」
「………」
手の腹で涙を拭ってやる。草加はうつむき、一瞬きつくくちびるを引き結んだ。
「…誰にでも、こんなことをするんですか」
「そうだと言ったら?」
草加は押し黙った。顔面の出血は止まり、乾き始めている。
「…どうしたら、いいのか。…わからない」
ぽろっと名残の涙が彼の頬をすべり、転んだ際についた土埃を溶かした。
「離れていれば、会わずにいれば、楽になれる、と思った…」
「そうだな、悪くない手だ」
自然消滅はわりとよくある手段だ。けれどけしてすっきりとした解決にはならない。別れにはけじめが必要なのだ。角松は『本気』を求め、草加はそれに脅えて逃げ出した。
「こんな、ものが…恋だというのなら」
知らないほうが良かった。まさしく恋を知らないものの言い分だ。角松はため息を吐き、腕時計に視線を走らせた。終電まであと少し。
こんな夜中に、それでも心配して駆けつけるなどということを、誰にでもすると本当に思うのだろうか。迷える子羊を救うのなんて、救世主とやらにまかせておけばいいのに?
怪我をしているのもかまわず、草加が角松の手首を握った。ぬるりとした血の感触。痛みに顔を顰めながら、それでも強く握りしめてくる。
「…会いたかった…っ!」
なぜ、自分の心なのに自分の思い通りにならないのだろう。草加が途切れ途切れに言い募る。角松は握られた手首を動かし、草加の指と自分のそれを絡めた。
「…そうだな、俺もだ」
草加が顔をあげた。ぱちりと瞬きをする。角松は笑ってみせた。
「なんだよ。意外か?あれだけ毎日会ってたのが、いきなりなくなったんだ。そりゃ会いたいと思う時くらいあるさ」
「友人として…?」
角松の笑顔を見た草加はやや捻くれた言い方をした。自分で別れを切り出しておいて。角松はアッサリそれもあると応じ、だけど、と続けた。切り出させたのは草加だ。いつまでも煮え切らない態度で。
「ただの友だちだったら、こんな時間に探しに来たりなんかしないぞ」
草加がゆっくりと立ち上がった。まだところどころが痛むのか、動作がぎこちなかった。
「…角松さん?」
「どうする?草加」
ここからは見えない地下鉄から、電車が走る音が響いてくる。
角松はちらりとそれに耳を傾けた。きちんと時を刻んでいた時計を見なくても今何時何分なのかわかっていた。
楽しそうに笑いながら。
「終電、出ちまった」
角松が、本気をみせた。