彼はいつも一歩離れて此方を見ている
誰かに身を任せてしまうのは気が楽だ。
狭い店。酒精の匂いと男の匂い。熱っぽい息遣いに包まれて神経のどこかが弛むのを感じた。通いなれた店に久しぶりに行くと、草加も見知った男が笑顔で迎えてくれた。うながされるまま隣に座れば、ごく自然に腰に手が回ってきた。
「………っ」
とっさにわきあがった嫌悪感に体が硬くなったのを、彼も気づいたのだろう。どうしたと尋ねてきた。なんでもないと返し意識して力を抜く。久しぶりだったからとちいさく笑えば、安心したのか男臭い笑みを浮かべた。どことなく、あのひとと似た雰囲気の笑顔――ふっとよぎった笑貌に胸がきしんだ。コノオトコハアノヒトデハナイ。
本当に久しぶりだ、こういう場は。ここでしか本当の自分をさらけだせないと思っていた頃が懐かしい。何も隠さずにすむ。気楽でいられる。その思いを再認識した。男にしか欲望を抱けない自分に嫌悪することも、世間や親に対し後ろめたさを感じることもなかった。グレーゾーンの闇の中ではそんなことを気にする必要はないのだ。バカバカしい。悩んでいた日々を草加は罵った。角松洋介に気を取られて時間を無駄にしてしまった。あの日々の何と甘く幸福であったことか!胸の奥でただひたすらその名を叫び続けている自分を草加は黙殺した。
草加は頻繁に店に顔を出すようになった。一番嬉しそうに笑いかけてくる男の隣に座り、夜をすごした。尾を振り甘えてくる犬を相手にしているような気分だった。
草加は角松を忘れようと躍起になった。彼を忘れなければどうしても虚しさを消すことができないからだった。気楽な日々は、だがけして楽しいわけではなかった。部屋に帰っても誰といても、何もする気がおきない。無気力感は募っていくばかりで草加の中から意欲そのものが削られていった。以前なら――角松と会っていた頃なら次の日を待ちわびてそわそわといろんなことをしていたものだった。いつか彼を再びこの部屋に招いた時のためにと部屋を清潔に保ったり料理の研究をしたりと努力を欠かさなかった。何かをしていたい気分。彼はどうすれば喜んでくれるだろう、何をすれば笑ってくれるだろうと、そればかりを、ただ。
ゆっくりと、自分が腐っていく。腐臭を放ちつつあることは、草加にも自覚できた。今の草加を支えているのは強固な自尊心だけだった。終わりの見えない戦いから逃げ出した自分を殻で鎧固め、傷つかないようにした。
だが、それでは駄目なのだ。
確かに傷つくことはない。その代わり、誰も草加の心に触れてこない。
草加は携帯電話を取り出した。角松との連絡に使用されていたそれはあの夜を境に見るのも嫌になっていた。短縮ボタンを押してみる。回線が繋がるまでの数秒間の沈黙。
一回、二回。五回のコールで草加は電話を切った。
夜も遅い時間だ、もう眠っているのだろう。自嘲気味に思い、ポケットにしまう。どのみちこんな騒がしい店内では、まともに会話できないだろう。
存外に残念ではない自分がいて、草加は再度自嘲した。角松など関係ない、そう思ってみても彼にこのような場所で男を侍らせている自分を知られなくなかった。
どうかした?と隣の男が腰に手を回してきた。そろそろ…という合図だ。別にとそっけなく返事をして立ち上がる。
「…今日は帰る」
たちまち渋面を作った男に冷笑を浴びせて、草加は店を出た。もちろん、男がそうされることを好むと知ってのことだ。サディスティックな嗜好を持つ者のもとには、それにふさわしい者が集うものだ。
繁華街を抜けて駅へと向かう。薄暗い道。ひとつ大通りを外れてしまえば別世界のような静けさだというのに、ここはざわめきに満ちていた。深夜だというのに人通りが絶えない。どこへ行くのか、名も知れぬ人々の隙間を抜けて草加は独り歩いていた。
スーツの内ポケットで、携帯電話が鳴った。
人の流れを止めないように歩き続けながら草加は取り出した。慣れた動作で耳に当てる。
「…はい」
『――草加?』
角松洋介。
ディスプレイの文字を確かめるとほぼ同時に聞こえてきた彼の声に、草加は心臓を高鳴らせた。
「……っ!」
動きの鈍った草加の肩に、すれちがった人の肩がぶつかった。竦んでしまった手から携帯電話が滑り落ちる。さっきの電話――と角松の声がちいさくなった。
あっと思った次の瞬間、地面に叩きつけられたそれを、草加は踏み潰していた。
「あ!」
ベキともバキともつかない鈍い破壊音。慌てて拾い上げたが時すでに遅く、薄型の携帯電話は液晶画面が割れ、角松の声どころか何の音もしなくなっていた。完全に壊れている。
「………」
草加は呆然と立ち尽くした。角松は何と思っただろう。こんなあっけない幕切れ。いくらなんでもこれはないだろうと草加は何かに対し苦情を言いたくなった。ぐるぐると角松の声が頭の中を巡る。草加。草加。草加。呼んでくれた。私のことを、忘れずに。着信に気がついて、そして応えてくれたのに。
自業自得だ。
新しい携帯電話に買い換えようにも、この時間帯で開いている店舗があるはずがない。明日の昼休みにでも変更しよう。この携帯電話には仕事関係のことも入っている。データが生きているか心配だった。
くす、と今夜何度目かわからない自嘲。角松へと繋がる細い細い糸を、自分で断ち切ってしまった。
胸に重苦しい痛みが溜まっていく。
会いたい。
ただそれだけでいいと思う。けれども会えばその先を期待してしまうのもわかっている。どうして欲は際限なく深くなっていくのだろう。何も望まなければ、傷つくこともないというのに。
乗り込んだときにはある程度込み合っていた電車は、一駅ごとに人が減っていく。どの顔も疲労の影が濃い。他人には無関心な人々の群れ。本を読む者。転寝をする者。音楽を聴いている者。そして、携帯電話を操る者。手持ち無沙汰を持て余し、草加は手帳を取り出した。その日の出来事を簡単に書き記してある、ちょっとした日記だ。角松との日々はある日を境に途切れ、内容が荒んだものに変化していっている。わかりやすいものだと見ていて思う。薔薇色の日々とはよくいったものだ。今の自分とは別人のようだと草加は過去の自分を羨んだ。今の自分はそう、たとえるならこの地下鉄のようなもの。暗闇ではないし、ひとりではない。けれど孤独で、ただスピードをあげて同じところ、同じ距離を行き来しているだけ。新しいものは何ひとつなく、別の道にも進めない。
角松に会いたかった。そして、会いたくなかった。あの夜彼を見つけることさえしなければ、こんな苦しい思いを抱くことなく、虚しさに気づくことなく変わらぬ日々を送っていただろう。あの夜、なぜ、彼だけを見てしまったのだろう。
壊れてしまった携帯電話が、角松洋介という存在の軽重を問うていた。