あれは不完全な人間





 このところ正直にいって、草加と会うのが憂鬱になりつつある。
 仕事の都合で互いの時間が合わないからと、会えないことは今までにもあったが、その後に会うと草加はそれはそれは嬉しそうな顔をした。そんな草加に、角松も悪い気はしなかった。
 それがこのところの草加は、あからさまな欲を滲ませた瞳で見つめてくる。草加と違い性的なことにはごくノーマルな嗜好の持ち主である角松には、その欲望が重たかった。

「こういうふうに会うの、もう止めにしないか」

 草加には唐突であることはわかっていたが、角松はあえて言った。案の定、草加はぽかんとしている。2人の間を駅を行き交う人々のざわめきが何食わぬ顔をして通り過ぎていった。

「え…?あの?」

 ようやく草加が発したのは、言葉にもならない問いかけだった。何を言われたのか、理解することを頭が拒んでいた。
 角松はゆっくりと、再度同じ言葉を紡いだ。先ほどとなんら変わらない口調で。

「こういうふうに会うの、もう止めにしないか」
「…なぜです?」
「お前さ、どういうつもりで俺と会ってるんだ?」
「…………」
「俺は、お前といい友人になれたらいいと思ってる。だから、ここに来ている」

 この言葉は草加に冷たく聞こえるだろうかと角松は思った。草加は全身を緊張させて、じっと耳を澄ましている。

「………。私は…」

 草加は戸惑った。なぜ今になって角松がこんなことを言い出したのか、彼の意図がどこにあるのかまったく掴めなかった。目の奥がじんと熱くなったのを感じ、拳を握る。
 いい友人と彼は言った。草加の望みがそんなものでないことなど承知の上で、友人と。
 それだって過ぎたことだと頭の片隅で言う自分を、それでは耐えられないと叫ぶ自分が圧倒する。

「…あなたが好きです」
「知ってる」

 草加の告白を角松はそっけなく返した。俺もお前が好きだよ。でもそれは友人としての範囲だ。草加のくちびるがわずかに震えた。ちいさな子供を追い詰めている気分になった角松は、表情と声をなるべくやわらかいものに意識して変えた。

「お前は俺をどうしたいんだ?」

 琥珀色の瞳が角松を映す。草加はまったく子供そのものなのだ。初恋に戸惑うばかりで身動きもとれない。子供の恋心と大人のプライドが複雑に絡み合い、中途半端に行き詰っている。こういうのをなんていうんだっけと角松はふと考えた。大人の麻疹だ。重症で絶対安静。そんな感じ。しょうがねえなあ。こくり、と草加の咽喉が動き、欲しいですと掠れた声が呟いた。

「なら、ハッキリさせたほうがいいだろ」

 角松の答えは最初から「NO」なのだ。草加のことをそういう目で見ることができない。だがそれで草加があきらめないから、角松は防衛の手段として彼とこうして会っている。

「草加、あきらめろ。それができないのなら、本気をだせ」
「…本気?」
「俺がなぜお前にこんなことを言うのか、わかるか?お前は俺が欲しいと思って、俺と会ってる。でも俺にその気は無い。この状態に、お前はいつまで耐えられる?いつかキレたお前が俺になにかするんじゃないか、怖いからだ」

 ビクッと草加は肩を震わせた。図星を指された思いだった。今こうして彼の前にいる時でさえ、触れたいと疼く体を宥めているのだ。

「ただなんとなくでなんとかなると思っているとしたら大間違いだ。友達ごっこはもう終わりだ。いいかげん、決着をつけよう」
「会わずにどうしろというんですか?」
「それは自分で考えることだ。言ったろ、本気だせって。俺が欲しいというのなら草加、本気で口説いてみせろ」
「…本気で……」

 この想いを疑われているのか。激昂しかけた草加はしかし、角松の冷静な眼差しに消沈した。本気で口説く。涙や笑い、ましてや大人の余裕などでごまかしたりなどせずに。紛い物なしの真摯な想いで、果たして角松と対峙したことがあっただろうか?
 ない。振り返ってみるまでもなかった。草加は角松の前で自分を見失わないように一歩引いた態度を常にとっていた。表情や態度を繕ってきた。つまりそこには余裕が存在していたということだ。ぬるま湯の居心地の良さに浸ってきた。そしてそれを角松はとっくに見抜き、草加に合わせた態度をとってきたのだ。
 これでは好きになってもらえなくてあたりまえだ。

「…猶予期間は、どれくらいあるのですか?」

 タイムリミットを求めた草加に、角松は呆れた。人の心を時間で区切ることなど不可能であることすらこの男は知らないのだ。

「お前があきらめるか、俺の気が変わるまでだ」

 草加の顔が戸惑いの中、輝いた。良いように受け止められたことに苦笑する。気が変わるとは、なにも草加の想いに応えるという意味だけでなく、角松が草加を友人としてすら拒むという可能性も込められているのだ。角松は立ち上がった。すがるような視線を向ける大きな子供に笑ってみせる。

「健闘を祈る」

 草加拓海を好きか嫌いかで考えるなら、間違いなく好きの部類に入るだろう。だが素直にそれを認めることが、角松には難しかった。草加がしでかしたレイプという暴力、それは許す許さないの問題ではすでにないのだ。手酷く傷つけられた心と体がふとしたことで草加を拒絶する。友人の過ちの一度や二度は許すものだと角松は自分に言い聞かせてみるが、ではそれならば、恋人の裏切りは?そもそも自分に暴力を揮った相手とこうして会うこと自体、角松はずいぶんと譲歩しているのだ。草加が好意を示し続けているからこそできる譲歩であった。
 そしてだからこそ、このどっちつかずの状態が角松には苦痛だった。いずれ決着をつけなければ、永遠にこのままだ。ならばただ惰性で会うようになってしまうその前に、互いが本気を出してぶつかったほうがいい。男同士が本気で対決した場合、そこに生まれるのは勝敗か友情だ。少なくとも、角松の知る限り。
 勝敗が決すればもう二度と会わずにすむだろう。友情へと昇華すれば一生もののつきあいになるだろう。恋が芽生えるかどうか、角松にはわからなかった。
 以前の角松ならば考えるまでもなく「ありえない」と即答していただろう。草加がただ傲慢なだけの男であったなら、その考えは変わらなかったはずだ。だが、草加拓海は角松が思っていたよりもずっと子供だった。
 彼がいつごろから自分が同性愛者であることを自覚したのか知らないが、一般的な「男の子」が「女の子」にときめくような時期を、おそらく草加はもたなかったのだろう。
 友人たちと笑いあいながらも特定の誰かを目で追いかけ、そんな自分に照れながら声をかけようか葛藤する。思春期以前の初恋だ。思春期に入れば肉体的な欲求も身の内に溜まり、好きな相手などなくても夜毎に求める衝動に襲われる。角松にはすでにこの時期につきあっている女の子がいた。お互いに込み上げてくる衝動と好奇心で体の関係にまでなったのはこの頃だった。どちらかといえば好奇心のほうが強かったように思える。そして、同級生たちが未だ踏み入れていない領域に自分がいることに優越感を覚えていた。彼女と目配せしあい、一歩先を行った自分たちに誇らしくなった。今思い出せば赤面ものだが、当時は子供だった。大人への憧れと惧れを同時に抱えていた、ただの子供。
 草加の経験不足は、この点で致命的だ。人間関係、それも恋愛という極めて複雑怪奇なものに対する経験が、圧倒的に足りていない。人と人がふれあういうことがどんなものか理解できていない。理解していないから相手を思いやるという初歩的なことすらできないのだ。ただセックスをしていれば恋人、というのでは、飽きた時点で終わりになってしまう。たとえ万人と関係を結んでも、それだけでは愛情という深みにまで到達することはできないのだ。愛にはならずに終わった過去を角松は思い出す。理由など、本人にさえ未だにわからないものがある。だが確かにあるのだ。なぜこの女と別れなければならないのだろうと泣いても、もう恋をしていないとはっきり自覚する瞬間が。ぷっつりと切れた境界線が見える瞬間が。思い出は美しく心の中へと蓄積され、経験や勘となって研ぎ澄まされ、感性という武器になる。
 その目で角松は草加を見ていた。泣くことすらなく恋の表面だけを撫でて過ごしてきたであろう男を。冷ややかな彼の手は、加減を知らない。角松が草加と同類であったなら、きっとその手は過去と同じようにただ通り過ぎただけで終わったのだろう。しかしそうではなかった。角松は草加を拒み、だから方法を知らない手は暴力に訴えるしかなかった。そして今、草加の手は予想もしていなかった事態に戸惑っている。彼の中では角松は屈するはずだったのだ。
 しかし、角松洋介という男は、しぶとかった。
 そんなに簡単に思い通りになってたまるかという矜持が彼にはある。泣いて好きだと言われたところでそうかと答えるだけだ。だからどうしたというのだ。だいたい草加は角松のことなどまったくといっていいほど知らないのだ。ただ会ってコーヒーを飲みながら世間話など、仕事相手とだってできる。まったく発展性がない点では、それ以下だった。
 本気になる度胸もない相手に本気で向き合えるほど、角松はできた人間ではなかった。




 草加は角松が見えなくなるのを待って席を立った。つまりこれは、ていよく振られたのだろうか。こうして会うのを止められて、どうやって本気を示せばいいのだろう。草加にはわからなかった。草加にとってこれが初恋であることを見抜いている角松が、彼の混乱を見抜けないはずがない。細く繋ぎとめていた糸を、手放されたらどうしたらいいのかすらわからないのに。赤い糸の先に求める姿が見えない。
 それがただの甘えに過ぎないことに、草加は気づかなかった。角松は、ただ甘えてくるだけの子供の面倒などまっぴらなのだ。そこまでやさしくする必要も、義務も彼にはないし、厄介なことに草加はある程度は大人で、だからこそ欲望というものもきっちり存在している。それこそ大人の欲望が。
 草加は夜道をとぼとぼと歩いていたが、ふと足を止めた。目の前に拡がる何の変哲もない普段のままの道を見据える。草加の前には誰一人としていない道を外灯が薄暗く照らしていた。
 鞄を脇に抱え、草加は走り出した。
 徐々にスピードを上げていく。準備運動もしていない、仕事帰りの体がたちまちバランスを崩し、転びそうになる。何度もそれを堪えて走り続けた。息があがり、足がもつれながらも懸命に走る。しかし、まるで運動向きではない革靴の先がコンクリートの地面で擦れてしまったのをきっかけに、スピードが落ちた。靴に傷が、と思っただけだったがすぐさま思考はこんなことをして何になるのだと苛立ちを募らせ、足を緩めた。緩めてしまった。本気にならなくても走ることはできるのに、なぜ本気を求めるのだ。
 なにも角松洋介でなくてもいい。
 草加は思った。角松でなくてはならない理由がどこにあるのだ。たかが恋に落ちたくらいでなぜ本気をださなければいけない?プライドを捨ててまで。そこまでしなければ手に入らないというのなら、こっちから願い下げだ。癇癪をおこした子供の気分そのままで草加はそう思った。他に男はいくらでもいる。角松洋介などいらない。
 草加は角松を求めることを止め、変わりに享楽的な夜に再び縋りついた。