お望みの結末





 草加拓海は自分のデスク回りだけに灯りのついた、暗いオフィスにいた。今日までにいつのまにかうず高く積まれた書類を整理し、次の仕事にとりかかるためだった。それが彼にとってまったく納得のいかないこと、不本意であることは、いささか乱暴な手つきで窺える。バサバサと大雑把に積んだ書類が崩れ、羽のように散らばった。今までの彼の苦労を嘲笑っているかのごとく。

「………っ」

 一人であるのをいいことに草加は舌打ちし、それらを拾い集めた。彼がほぼ一人で考え収集した資料たちは、今やゴミとなり本人の手によって捨てられようとしていた。草加は今度は丁寧にそれらを束ね、そっと表紙を撫でた。慈しむ指先に先ほどの苛立ちは見られない。怒りがひと段落して、冷静さとともに落胆と悲しみが草加を襲ってきたのだった。粘りに粘った末に言われた言葉が脳裏に蘇る。君が優秀なのは認めるが、これは一般的じゃないね。どことなく草加を嘲笑する目つきで相手は彼に言ったのだった。

「…ふう」

 一般的。それが一体なんだというのだ。そう反発する心はあるものの、それを言われてしまってはもうどうしようもないとあきらめる自分もいた。世間というのはそういったものたちで流行が決まるのだ。
 ボツになってしまった企画を自分の手で始末する。そんなみじめな姿を見られるのが厭でこんな深夜にまで居残っていたのだが、草加はかえってみじめな気分に陥った。暗い室内にたった一人。明日になり、草加の机が片付けられているのを見た同僚たちはどう思うだろうか。おそらくは今の草加の姿を思い浮かべ、控えめに同情してくれるだろう。見られていようがいまいが同じことだ。この企画に自信を持っていたのは全員が知っている。そしてそれがダメになったことも。
 明日から気分を切り替えて、なんてとてもできそうになかった。
 帰ろう。しばらく落ち込んでいたっていいだろう。今まで全力でやってきたしこれからもそのつもりでいる。スイッチを切り替えるには時間が必要なこともある。クールダウンをしなくては潰れてしまう。
 草加はオフィスの電気を消し、警備員へ帰宅を告げてビルを出た。終電まではまだ時間があるが、オフィス街に人通りはなく、外灯と信号機だけが不気味に夜を照らしていた。夜空は遠くの繁華街のネオンを受けて薄暗い。車の音も遠く聞こえてくるだけだ。
 疲労で遅い草加の足音だけが妙にはっきりと響いていた。
 律義にボタンを押し信号が青に変わるのを待って横断歩道を渡る。つい、本日何度目か数えるのも億劫になったため息が再び草加の口から漏れた。

「…はぁ……」
「あんまりため息ついてると、幸せが逃げるぞ」
「……っ!?」

 突然かけられた声に驚愕して振り返る。確かに誰もいなかったはずだ。
 草加の驚きように驚いたのか、その人物は眼を丸くしている。

「あ、俺の声聞こえた?」

 あれだけハッキリ言っておいて何を。草加がうなずくと男は嬉しそうに破顔した。

「そうか、…聞こえるんだ」
「聞こえます」
「ああ、悪かったな。今まで俺の声聞いてくれるやついなくて」

 それはそうだろう。こんな時間にガードレールに寄りかかって缶ビールを飲んでいる男など、無視するに限る。草加だってなるべくなら御免被りたい。浮浪者には見えないが、どう見ても不審者だ。

「…………」

 草加が眉をひそめたのをどう受け止めたのか、男はにっこりと笑う。意外なほどそれは人懐っこい笑顔であった。

「何があったのか知らないが、ため息ばかりじゃしょうがねぇぞ?」
「…それは、そうですが……」

 余計なお世話だ。同世代の男、しかも酔っ払いに偉そうに説教されたくないぞ。適当にあしらって帰ろうと思う草加だが、なぜだか男に対して素気無くできなかった。彼の笑顔にはそれだけの魅力があった。
 誰でもいいから愚痴を聞いてもらいたい。草加はそんな気分だったがプライドが邪魔をしていた。そうでなければこんな時間まで一人で残業などせずに誰かを誘って残念会とでも称して飲みに行っていただろう。同僚の多くはそのようにして慰めを得ていた。草加も新人の頃は何度かやってもらったことがある。ウサ晴らしをして忘れてしまうに限るのだ。だが今度ばかりはそれくらいで慰められるとは思えなかった。あきらめきれないのだ。

「…どうしてもあきらめなければならないのに、あきらめられない場合、どうしたらいいのかわからないんです」

 ため息の一つも吐きたくなるというものだ。草加がやはりため息まじりに呟くと、男はすっと笑みを消した。人生の先輩でもない男にこんな話をしたところで何になる。草加は投げやりになっていた。

「あきらめなければいい」

 男はアッサリと言った。人の話を聞いているのかと言いたくなる答えだった。

「あきらめなければ、次に進めません」
「そうか?そんなことはやってみなくちゃわかんねえだろ。あきらめきれないのならそれを頭の片隅にでも置いて、次のことを進めればいいんだ。それを活かすことを常に考える。チャンスってのはどこかで巡ってくるもんだ。今はダメでも、この先いつか」
「そう上手くいくでしょうか」
「それはおまえ次第だろ。あきらめるってのは、いつでも誰にだってできるんだぜ?」

 自分があきらめてしまった後で、他の誰かがそれを成功させたらどうする?あの時あきらめていなければと後悔するに決まっている。だったら自分なりになんとかするしかないだろう。男の言葉には妙な説得力があった。草加はあえて反発した。

「…こんな所でこんな時間に飲んだくれているような人に、偉そうに説教されたくありませんね」
「失礼な。俺は人を待ってるんだ」

 男は肩をすくめ、遠くを見た。草加がつられてそちらを見た。繁華街とは反対側の暗闇。どこまでも続く闇がひろがっていた。まるで対照的な人工的な光と闇がそこにはあった。

「…もう、半年にもなる」
「半年!?」
「そうだ。ずっと待ってる。いつか必ずあらわれるのを」

 あきらめられたならどんなにいいだろう。男はそう言いたげだった。ただひたすら待つということがどれほど退屈で焦燥を煽るものか、その表情にあらわれていた。彼はおそろしいほど真剣で、それゆえに耐えることができるのだ。草加はつい引き込まれた。彼のもつ、不思議で軽妙な雰囲気に。
 男は呆然と見つめる草加をどう受け取ったのか、ふっと微笑した。緊張していた空気が霧散する。

「おまえが何について悩んでるのかは知らないが、それがおまえにとって大切なことならあきらめる必要なんてないぜ」

 草加は自分がわずかにふるえているのを感じた。彼は言ってくれた、あきらめることはないのだと。確信を持って言い切った。
 誰かにそう言ってもらいたかったのだ。言われてみてようやく気がついた。誰かにそう言って、自分を肯定してもらいたかったのだと。

「そうします」

 草加は感動と感謝に満ちた瞳でうなずいた。一歩、男に近づき、あらためてまっすぐに彼を見た。

「…また、会えますか」

 男にも草加が立ち直ったことが伝わったのだろう。またあの人懐っこい笑顔を浮かべた。

「ああ、たぶんな。夜になら」
「夜だけですか」
「昼間は疲れるんだよ。その日の具合もあるし」

 夜にだけとはいえ半年間ここにずっといたのであれば、疲労も当然だろう。肉体と精神の疲労が溜まれば身体に支障をきたしてもおかしくないことであった。草加は不承不承承知したが、心中は残念でしかたがなかった。



 角松洋介と名乗る男との逢瀬はこうして始まった。真夏の夜の、生ぬるい出会いであった。




 角松洋介という男は、実にもったいない人物だ。
 頭の回転は速く、勘も働き、知識も豊富で、話術が巧み。なぜこれほどの人物が人通りも途絶えた深夜になって浮浪者よろしく飲んだくれてただ人を待っているだけなのか、草加には理解できなかった。もっとも角松としては好きで飲んだくれているのではなく、飲むものがこれしかないという草加にはよくわからない言い分なのだがそれはともかく。

「どうしてもダメですか?」
「ダメだ。俺はここから動けないって何度も言ってるだろう」

 どうか一緒に仕事をしてくださいと草加が何度頼んでも、角松の答えはつれないものだった。待ち人来たらず。角松の意志は固かった。
 あれから何度も通ううちに角松の頭脳を見抜いた草加はいろいろな相談を彼にもちかけていた。個人的なものだけではなくついには仕事の問題にまでそれは及び、草加が彼の助言で得た利益は計り知れないほどである。つい先日など億の仕事を成功させたと祝賀会までされてしまった。角松のことは誰にも言っていないが、その分後ろめたく、草加は実は彼のおかげですと発表することにより角松を自分の傍に置こうとしていた。今までの感謝はもちろんだが、それ以上の好意を草加は角松に抱いていた。昼も夜も、ずっと傍にいて欲しい。

「それよりこれ…おまえ一人でやったのか?」
「はい」

 これ、というのは草加が読んでくれといって渡したファイルである。2人が出会ったきっかけになった、例のボツになった企画だ。

「一般的じゃないって断られたって、本当か?」
「…はい」

 相手先の企業は、草加とは組んだことがないが会社と繋がりのある大手だった。業界では有名な、手広く分野を広げているところで、それだけにダメだしされた時はショックだった。

「これ、明日一番で今から言うところに持っていけ」
「は…、えっ?」

 はい、とうなずきそうになった草加は吃驚して角松を見た。角松は渋い表情でファイルを睨みつけている。

「これ、たぶんパクッてくるぞ。もっと簡単にして」
「どういうことですか?」
「つまり『これ』をそのままやったら確かに一般的じゃない。玄人向けだ。だが、素人にもわかりやすくしたものならどうだ?一般に受け入れられたら、次に『これ』を出せばいい。そういうことだ」
「あ………!」

 草加の企画は完璧を目指しすぎてかえって難しくしている。難しすぎれば大衆に受け入れられるのも当然難しくなる。確実に売れるとわかっているてもそれには時間がかかるだろう。その間に他社から似たようなものを出されてしまうかもしれない。ならばどうすればいいか?簡単だ、段階をふんでいけば良いのである。
 やられた。草加は唸った。痛恨のミスだ。すでにあの会社はその準備に取り掛かっていることだろう。

「ここならこの企画を受け入れるだろう」
「…みらい製作所、ですか」

 聞いたことのない会社だ。不安が伝わったのか角松が苦笑した。

「俺が以前勤めていたとこだ」
「…え……」
「奇遇だよな。こんなことになる前、これと同じことを俺も考えていたんだ」
「……半年も前に…?」
「ああ。…それと、言わせてもらえばまだ爪が甘いな」

 覚悟していけよ。当時のことを思い出したのが肩を揺らして笑い出した。どこか淋しさの見え隠れする笑顔だった。
 ズキンと胸の奥が痛んだ。角松ほどの男を半年も待たせている相手とは一体どこの誰なのだろうか。そしてその相手と出会ったしまったら…もしかしたら角松は、草加の前からいなくなってしまうのではないだろうか。見知らぬ誰かと手をとり去っていくその光景を想像し、草加はぞっとした。角松と会えなくなる?冗談ではない。彼は誰にも渡さない、そう強く思った。誰だか知らないその人物に、草加ははっきりと嫉妬した。
 翌朝、アポイントもなしに訪ねた「みらい」は意外するすぎる反応を草加にみせた。
 角松からの紹介だと言った途端、部長クラスが勢ぞろいし、あげく社長まで出てきたのである。草加の企画書を読んだ彼らは一様に信じられないといった顔をして、あれこれ草加に尋ねてきた。ただ、なぜか角松については一言も言わず、これをどうやって思いついたのだとか、この資料はどこから手に入れたのだとか、企画に関することばかりだった。手ごわいと前もって言われていた草加は心構えができていたので冷静に答えることができた。
 一通り質疑応答を終え、口を開いたのは社長の梅津だった。彼が姿勢を正した途端、ぴんと空気が緊張したのを草加は感じ取った。他のメンバーが固唾を飲んで待つ。

「君が、角松と会ったというのは本当かい?」
「…?はい」
「……っ、どこで!?」

 質問の意味がわからず戸惑いながらもうなずいた草加に焦ったように訊いてきたのは営業部長の尾栗だ。その隣の技術部長だという菊池も、なぜか睨みつける勢いで草加を見ている。

「どこでって…」

 草加がいつもの逢瀬の場所を答えると、彼らは息を飲み、涙ぐんだ。草加の困惑は深まるばかりだ。

「それ、間違いなくこいつか?」

 そう言って尾栗が草加に見せたのは、目の前の2人と角松が写っている写真だった。桜の下で笑っている。半年前の日付だった。

「はい、そうです」
「………っ」
「康平っ!」

 ガタッと立ち上がった尾栗を、菊池が押し留めた。突然のことに置いてけぼりをくらって呆然としている草加を見て、苛立たしげに告げる。

「それが本当なら…我々にも会わせて欲しい」

 菊池が歯を喰いしばった。洋介、と尾栗が涙声で呟き、目元を手で覆った。
 言うというよりはひと言ひと言を振り絞るように、彼は言った。

「角松洋介は、確かにその場所で…半年前に交通事故に遭ったんだ」

 写真を撮影した直後の出来事だったという。ぐるりと草加の世界がまわり――目の前からいっさいの光が消えた。







 外灯にワイヤーで括りつけられたそっけない白い看板が風が吹くたびにカタンと音を立てて揺れた。ひき逃げ事故の看板だった。目撃情報を集めています。半年前の日付。深夜の事故。

「花見をしようって来てたんだ」

 ここのオフィス街にほど近い公園には名物の桜の大木があり、それにあわせて幾種類もの桜が植えられていた。桜の季節には大勢の花見客で賑わう。今はこうして静かな通りからも騒がしい音が聞こえていたのを草加は思い出した。

「今くらいの時間なら、やかましい連中も帰るだろうからって、わざと時間を遅くしたんだ」

 だがそれゆえの弊害もあった。やたらあちこちにゴミが散らばっていたのである。
 これでは桜も気の毒だ。そう言ってアルコールなどのビンや缶を拾い集める。すでにゴミ箱は満杯で、その周囲に並べられている有様だった。花見っていってもこれじゃあな。ひととおり綺麗にした後、気を取り直して名物の桜の前で記念撮影。夜に浮かび上がる薄紅桜はどことなく怨みがましそうだった。尾栗と菊池は事故当日の花見の様子をぽつぽつと語っている。眼は暗い道路を何かを探すように見回していた。角松洋介の姿はどこにも見えなかった。

「…そう、それで俺はゴミ袋買ってくるって言って、コンビニに向かったんだ」
「角松さん…」

 角松はいつものように、草加が通り過ぎた後になって現れた。手にはいつもの缶ビール。指先が濡れていることに草加は気がついた。それは先ほど尾栗たちが看板の前に供えたものだった。

「洋介!?」
「洋介、いるのか!?」

 草加は眼を見開いて2人を凝視した。2人は草加に詰め寄ったが、草加の指差す方向に眼を向けてもその視線は彷徨うばかりだ。これほどはっきり見えている角松の姿が、2人にはまるで見えていないのだった。演技とも思えず、角松を振り返る。彼は哀しそうな表情で親友を見つめていた。
 草加は疑問に思わなかったことを今さらのように考えた。彼はいったいいつからここにいたのだ?彼はいつも、いつのまにかあらわれている。出現という言葉そのままに草加の背後に、気配すらなく佇んでいるのだ。草加が来るとどこからか角松が声をかけ、振り向くとそこにいる。言い換えれば、振り返らなければ角松はそこにはいないということになる。

「どこに、いるんだっ…?洋介……」

 いっそ悲痛なほどの呼びかけ。角松は困ったように菊池を見て、尾栗を見て、それから草加を見た。

「…嘘でしょう……?」

 信じられなかった。草加には角松の姿は他とまったく変わらずに見えている。草加は彼に触れることができたし、草加の差し出したファイルを読むこともできたのだ。

「幽霊なん、ですか……?」
「俺が、怖いか?」

 草加は首を振った。あたりまえだがずっと生身の人間だと思っていたのだ、怖いはずがなかった。ただ不思議なだけだ。

「なぜ、私にだけ見えるのでしょう」
「さあな。相性がいいんじゃないか?」

 呆然としている草加にアッサリと答えて、角松は泣いている親友2人の肩にそっと手を置いた――のだろう、実際には少し浮いた位置にその手はあった。おそらく見えていない2人には、触ることさえできないのだ。

「あなたが、待っている相手というのは…」

 答えを聞くまでもなかった。ひき逃げなのだ。未だ犯人は捕まっていない。目撃したのは、おそらく角松洋介ただ一人。

「…俺を轢いて、逃げた奴」

 はっきりと覚えている。そう言いきった角松の雰囲気ががらりと変わった。

「…ここの信号が青になるのにそうは待たなかった。渡りはじめた時、あっちのほうからものすごいエンジン音が近づいて」

 押しボタン式の歩行者用信号。深夜ならばすぐさま赤から青へと変わっただろう。角松が指し示す方角には暗い闇があった。エンジン音は遠かった。

「跳ね飛ばされた。急ブレーキの音はそれから聞こえた。何が起こったのかよくわからないまま地面に叩きつけられて、倒れてたら青褪めた男が近づいてくるのが見えた。そいつは俺を見て、悲鳴をあげて、逃げたんだ」

 身体からゆっくりと血が流れていくのがわかる。心臓の確かな音が怖ろしかった。いつこれが途絶えてしまうのか、おそらく時間はかからないだろうと悟った。事故の音が聞こえたのか、突然携帯電話が鳴り響いた。着信音は親友からのものを示していた。跳ね飛ばされた時にポケットから落ちたのだろうそれは目の前にある。死にたくない。必死で手を伸ばそうとした。朦朧とする意識のなか、このままでは終われないと執念深く思っていた。あの男の顔を俺は忘れない。手は携帯電話に届くだろうか…

「届かなかったんだと、思う…」

 そうでなければ俺がここにいる理由はない。角松はぽつりと言った。

「通報しましょう」

 ナンバーを覚えていなくても、車種と犯人の顔がわかっていれば簡単に捕まるだろう。さすがは幽霊というべきか、角松の輪郭がぼんやりと揺らめいていた。炎のように。草加のなかにある原始的な本能と呼ぶべき感覚が恐怖に震えた。

「俺はそいつに捕まってほしいわけじゃない」

 角松は憤懣やるかたないといったように吐き捨てた。

「俺がこの手で捕まえてぶん殴ってやりたいだけだ」

 まさしく復讐だ。やりたいこともやるべきものも、たくさんあった。それがあの一瞬で、なにもかも奪われたのだ。

「洋介、帰ってきてくれよ!」

 角松の声も姿もわからない尾栗が虚空に叫んだ。文字通り怒りに燃えていた角松が沈静化する。

「本当は、ここにいたらいけないんだろうな」

 哀しそうに言って、角松は眼を閉じた。
 次の瞬間、パンっと何かが弾ける音が空気を割り、外灯が消えた。驚いている間もなく点灯する。幾度も点滅を繰り返した。突然の心霊現象に凍りつく3人の前でチカチカと間隔をあけて光は繰り返す。角松からのメッセージ。

「な、角松さん?」

 振り返っても角松はいなかった。

「な…く・な…?泣くな、か」
「泣かせてんのはそっちだろう…!」

 バカヤロウと菊池は呟いて、手の甲で涙を拭った。草加がわからないという顔をしているのを見た尾栗が言った。

「モールス信号だ」

 懐かしそうに眼を細める。彼の脳裏には大学時代、遊び感覚で覚えた暗号が蘇っていた。あの頃にはまだ携帯電話など普及しておらず、ポケットベルが主流だった。3人だけがわかる合図を考えよう。悪餓鬼が秘密基地を作るように密やかでわくわくした、あの思い出。





 次の夜、いつものように草加が行くと、角松はわずかに驚いた顔をした。

「草加…もう来ないかと思ってた」
「こんばんは、角松さん」

 今夜の角松はうっすらと透けていた。草加は心臓が跳ねるのを感じた。角松洋介が、いつかは消えてしまう存在なのだという、それは証明だった。

「ああいうことすると、疲れるんだよ」

 透けていることを本人も自覚しているのだろう、そういっておどけてみせた。

「怖かったろ、悪かったな」

 確かに。昨夜の角松が怖ろしくなかったといえば嘘になる。草加にとって生まれてはじめての心霊現象だったのだ。だが。

「あなたに会えなくなるほうが、よほど怖いです」
「………」

 角松がわずかに頬を染めた。透けていても赤くなったりするのだなと妙に感心してしまう。まるで本当に…生きているようだ。
 草加は手を伸ばした。指先は透ける頬をすり抜けた。

「触れない、ということが、こんなにも哀しいものだと、初めて知りました」
「オバケなんてそんなもんだろ」

 角松はわざとらしく明るく言ったが、草加にはとても笑うことはできなかった。

「…こんなにも、私は、誰かを憎んだことがありません」

 角松を轢いたその男は、彼をこのような姿にしたうえに、今また草加の前から彼を奪おうとしているのだ。そいつを捕まえて殴るという目的を果たせば、角松のことだ、潔く消えてゆくのだろう。

「…草加」
「あなたの元へ通い続けていたら、取り殺してくれますか」
「…牡丹灯篭かよ」

 愛しい男を道連れにと願った女のように。だが草加は新三郎ではないし、角松もお露ではない。だいたい角松には誰かを道連れにしようという気はなかった。

「だいたいあれは…ただ通ってたってわけじゃねえんだろ?」
「触れるのであれば、抱くこともできるはずです」

 怪談というより艶話に近い物語。通うということはつまり、そこに男女の営みがあったということなのだ。草加と角松にはあてはまらない。草加は食い下がった。

「…あなたが好きです」

 触れることのできない角松に、草加はキスをした。
 角松は目を丸くし、再び頬を染めた。瞳が潤んだのは草加の気のせいではないはずだった。2人は眼を閉じ、体温すら感じることのできないキスを交わした。
 もし第3者がこれを見ていたら、さぞかし滑稽に映っただろう。草加は誰もいない空間に向かい、眼を閉じ、キスをしているのだから。

「…草加――」

 角松が口を開いた。その時だった。

「!!」

 遠くの空から響いたエンジン音に、ハッと角松が顔をあげた。

「…あいつだ!!」

 叫ぶやいなや、透けていた身体がたちまち輪郭を取り戻す。昨夜と同じように燐光が揺らめいた。

「角松さん!?」

 突然のことに止めようとした草加の身体が硬直した。身動き一つとれなくなった。エンジン音が近づく。
 外灯が一斉に消え、信号機が赤に変わった。
 そこへ、いかにもといった青いスポーツカーが突っ込んでくる。マツダRX-8。赤信号に、わずかに減速したように見えた。が、それはかえってスピードをあげてきた。運転席の男の焦り顔が、草加の前を一瞬で通り過ぎていった。
 角松がやっているのだ。草加は直感した。

「………っ!」

 歩行者用信号が突如として点く。もちろん青だ。車は猛スピードで横断歩道へと走っていく。角松洋介がそこに立っていた。

「角松さん!!」

 叫んだ瞬間、角松と眼が合った。草加を見て、彼は愛しげに眼を細めた。
 ドコッとフロントに衝撃。ガラスがへこみ、蜘蛛の巣状のヒビが入る。
 急ブレーキをかけた車が横滑りし、タイヤが焦げた臭いと煙をあげてガードレールに激突した。エアバックが飛び出して運転手を守った。
 草加はまだ動くことができないまま、やけに大きな心臓の音を聞いていた。目の前の光景は、おそらくはあの夜の再現なのだ。いや、それだけではない。
 運転席から男が悲鳴をあげて飛び出してきた。必死で手を振り、見えない何かを振り払おうとしている。ごめんなさいと泣きながら叫んだ。何度も何度も繰り返される謝罪。草加には見えない角松に向かって許しを請うていた。
 悲鳴が啜り泣きに変わる頃になって、ようやく金縛りがとけた。草加は緩慢な動作で携帯電話を取り出した。相手はもちろん警察だ。男が何を見たのか草加に見えなかったのは角松の気づかいなのだろう。自分の怖ろしい姿を、草加に見せたくなかったのだ。
 携帯電話を閉じて事故車両を見ると、剥がれた装甲から角松のものであろう血痕が染み出してきていた。まるでたった今、事故が起こったといわれても不自然ではないほどの不自然な鮮明さ。これで男はもう言い逃れできないだろう。

「草加…」

 足元にパタパタと血が落ちたのはきっと錯覚だ。
 角松はさっぱりとした表情をしていた。ずっと待っていた奴をぶん殴ってせいせいした。そんなところだろう。
 パトカーと救急車のサイレンが近づくなか、2人は見つめ合った。角松は透けていなかった。それがかえってもうこれでお別れなのだと草加に教えていた。蝋燭の最後の火がひときわ明るく輝くように、今まさに角松洋介は行くべきところへ行こうとしていた。

「角松さん」
「さよならだ、草加」
「あなたが好きだ、行かないで」
「そういうわけにもいかねぇだろ。目的は遂げたんだし」

 何事にもけじめってものがある。元気でな、と角松は言った。行かないでくれと草加は懇願した。

「…あなたと出会って、私は変わった。これからあなたとやりたいことややるべきこともたくさんあります。その責任もとらずに行ってしまうのですかっ?」

 言い募りながら首を振った。ちがう。ちがう。ちがう。すでに決まっていたことだ。ただほんの少し延長していただけにすぎないこと。まるで草加を待っていたかのような角松との出会い。草加のために存在していた幽霊。

「…いつかまた、会えますか」

 いつの日か、また。たとえばいつか草加が老いさらばえ、角松と同じところへと行く瞬間にでもいい。あるいは彼が猫にでもなってでもかまわない。どれほど歳が違っていても。角松とわからなくても、いつか。

「ああ。いつか、また。会おうな。草加、きっとその時は――」

 角松はにこやかに笑って約束した。まるで簡単なことのように。草加のくちびるにそっとキスをする。彼の姿はもはや見えず、微かな空気の揺らめきだけを草加は感じとることができた。

「…約束ですよ」

 誰もいない空間に向かって草加は呟き、眼を閉じた。
 涙は、出なかった。





 翌日「みらい」を訪れた草加は、梅津から丁寧に迎えられた。ニュースを見たらしい。犯人協力に感謝すると言われても、協力するつもりなどまったくなかった草加はいえ、と言葉を濁した。彼はニュースを見ていなかった。角松の消滅に草加は睡眠をとることもできずにいた。できることなら「みらい」に来たくなかったというのが彼の本音である。ここには角松の思い出を持つものがたくさんいる。自分の知らない角松洋介の話を聞きたいのか聞きたくないのか、草加には判断できなかった。過去のものとして彼の話をされるのが怖かった。
 ここに来たのはただ、角松との企画を進めるためだけだった。憔悴しきった草加がそう言うと、梅津は2人の間にあった何かを悟ったように憐れみの眼を彼に向けた。そして、小さな鍵と数枚のディスクを草加に渡した。

「角松も、君になら許すだろう。彼の作った、サンプルデータだ」

 怖ろしいものに触れるように草加はそれを受け取った。とうとうという感じであった。角松の作り上げたデータを見てしまえば、否応なしに現実を直視しなければならなくなる。草加はふるえる手でデータを開いた。

「…………」

 そこにあったものは、草加の考えたものとまったく同じでありながら遙かに完成度の高いものだった。大胆で精密で、美しささえ感じさせた。
 角松さん。草加は彼を呼んだ。手の上に涙がぽつぽつと降ってきた。角松さん、あなたはここにいたんですね。草加一人が見た真夏の夜の夢ではない確かな存在としての角松洋介が、彼の目の前にあった。

「…草加、大丈夫か?」
「はい……」

 尾栗の気遣わしげな声に我に返った草加はあわてて涙を拭った。この場には梅津の他に尾栗と菊池、そして角松洋介の部下が揃っていたのだった。

「尾栗さん、頼みがあるのですが」
「何だ?」
「…角松さんのお墓に案内してくれませんか?」

 角松洋介の墓参りにいくのはまるで角松の存在そのものを否定してしまうようで、草加に嫌悪感を抱かせていたのだった。だが、そうではない。これからも彼を愛することはできる。彼の生きた証を完成させ、発表することは決して終わりではないのだ。いつか再び、新しく出会うであろう角松のために、草加にできる数少ないことの一つ。

「……は?」
「え?」

 ところが、草加の感動をよそに尾栗は変な顔をした。見れば尾栗だけでなく、菊池も梅津も、皆揃ってなんともいえない表情で草加を見ていた。

「あの、何か変なことを言いましたか?」
「…洋介、死んでないぜ」
「え……、えぇぇ!?」

 草加は物凄い勢いで立ち上がった。どういうことかさっぱりわからなかった。だが角松が生きているというわりに、尾栗は悲痛な表情だ。

「…いや、死んでるのと変わりはない、というべきか」

 ニュースを見ていなかったツケだろう。きちんと報道されてたから、知らないとは思わなかったぜと言う尾栗は、知っていたほうがいいとは言い難い顔だ。
 半年前の交通事故。コンビニに向かったはずの角松が血まみれで倒れているのを発見したのは親友2人だった。親友の直感とでもいうべきか、事故の大音響にまさかと思いつつかけた携帯電話に彼がでなかったことがその不安を煽った。まさかまさかと言いながら角松の後を追ったのだ。2人はすぐさま応急手当をし、救急車を呼んだ。幸いなことに一命はとりとめ、数回の手術を経て角松の身体は完治している。

「意識不明のままなんだ」

 そう、身体は治っても、角松は目覚めなかった。全身打撲の衝撃が脳にも影響を及ぼしたというのが医者の見解だが、傷がないためにこれといった治療もできなかった。角松洋介は植物状態で眠り続けている。
 白を基調とした病室で草加がようやく会うことのできた角松洋介は、彼の知る幽霊と違い、痩せこけて青白い肉体だった。こちらのほうが幽霊だといわれたほうがよほど納得できるだろう。
 傍らのテーブルには今朝尾栗と菊池が持ってきた向日葵が飾られている。

「やはり、ダメなのか……」

 菊池が呟いた。犯人が逮捕されたと聞いた2人は朝一で病室に来ていたのだ。しかし角松には何の変化も見られず、覚醒の気配すらない。

「しぶといわりに幽霊になってたり、死んだと勘違いしてるんじゃねぇか?」

 尾栗が自分を慰めるように言った。ありえそうな話だ。草加は少し笑うことができた。

「昨夜…別れる前に約束したんです」
「約束?」

 草加はベッドに近づくと、ゆっくりと上下している胸に白い薔薇の花束を置いた。こけた頬に触れる。確かな肉の肌触りと体温が指先に伝わり、草加は泣きたくなった。生きているのだ。彼は。目の前で。
 草加を待っていてくれた。

「角松さん、約束です」

 重ねたくちびるはやわらかく、少しかさついていた。舌先で湿らせるとふっと薄く開かれた。呼吸をしている。

 ―――草加、きっとその時は、

 草加はなぜあのとき角松があんなことを言ったのか、不思議と納得していた。彼はこうなることがわかっていたのだろうか?わからない。わからないが、角松が目覚めることを草加は疑わなかった。
 その時は、キスしてくれ。おまえのことを思い出すように。これが草加が角松と交わした約束だった。
 はじめまして。おかえりなさい。会いたかった。想いが次々と溢れ、言葉にならない。草加が見ている前で角松の睫毛がふるえた。
 突然の草加の行為に呆然としていた親友だったが、変化を見逃さなかった。枕元にかけつける。固唾を呑んで見守る男3人の前で、角松は眼を開けた。差し込んでくる光に眩しそうに眉が寄る。黒い瞳が尾栗を映し、菊池を映し、草加を映し、理解の笑みを浮かべた。

「………」

 角松は何かを言おうとしたが、半年もの間飲まず食わずの点滴状態で掠れた咽喉に息が引っかかり、わずかに咳のようなものが吐き出されただけだった。草加は彼が何を言おうとしたのか正確に掴んでいた。草加を呼ぼうとしたのだ。頬を掴んで、今度はやや強引なキスをする。菊池がナースコールを押し、応答している。俄かに慌ただしくなっていく病室で、2人はキスをしていた。







 角松洋介は驚異的ともいえる回復力でリハビリを終え、社会復帰を果たした。「みらい」は喜んで彼の復職を許し、自分の会社に入れようとしていた草加の思惑はアッサリと破られることになった。
 草加は例の企画を角松との共同制作とすることにしていた。これからも仕事を組んでいくパートナーとしての位置を獲得するためだった。
 角松の部屋にはリハビリ中草加が毎日見舞いに来ていた証拠の花束が所狭しと飾られている。退院する時に病棟じゅうに配ったか、それを上回ったのに加え、退院祝いの花束がこれまたすさまじかったのだ。
 幽霊だった時のことを、角松ははっきり覚えているという。

「雅行や康平がちょくちょく来ていろいろ言ってくるんだけど、こっちの声は届かなくてさ」

 あれはせつなかったなあ。今となってはいい思い出とばかりに角松は言う。ちなみにあそこで角松が飲んでいたビールは彼らからの供え物だという。草加は元幽霊の話に呆れ気味だ。

「…だから、あの時おまえが振り返って、それはもうビックリした」

 もしもあの時振り返らず無視していたら、今の草加はないだろう。
 角松が目覚めてからというもの草加はやたらと彼に触りたがった。どことなく不安の滲む草加に角松は拒めずにいる。すり抜けて消えてしまったことがよほどショックだったらしい。病み上がりの角松を気づかって『触る』以外のことはしてこなかった。キスですら角松が目覚めた時以来求めずにいる。
 我慢も限界、とばかりに草加が詰め寄った。

「それで…返事を聞かせてくれませんか」

 話も終盤に入りいささかホラーじみてきた頃だ。あなたが好きだと草加は言った。それは確かに想いの告白であり、消え行く角松を繋ぎとめようとする執着でもあった。
 しかし今、確かに目の前に角松洋介が存在している。叶えられた奇跡。それ以上を望んでしまうのは当然の成り行きだろう。

「返事…?」

 話を遮られた角松だが、怒るでもなく草加を見つめた。彼は一瞬何のことかと悩んだが、薄く頬を染めている草加にああそういえばと別の意味で頭を悩まさせた。さてどう答えるべきか。
 焦れた草加がトドメをさした。どこか思いつめた、熱っぽい瞳が角松に訴えている。

「…あなたが好きです」

 おそらく、と角松は思う。おそらく、あの時点で――犯人を捕まえた時点で、自分は正真正銘死んでいたことだろう。角松を現世に留めていたのはただそれだけの執念だった。自分の手で捕まえ、無念を晴らす。ただそのためだけにあの場所にしがみついていた。すべてが終わったらあの世とやらに行くのだろうと漠然と思っていた。心残りがまったくないとはいえないが、それは角松洋介がいなくてもなんとかなる問題だった。やがて忘れられていくだろうことは、角松にもわかっていたのだ。
 だが草加拓海はそうではなかった。角松の姿どころか声を聞き、あまつさえ幽霊との認識すらせずに彼に好意を抱いてしまった。草加の、純情ともいえる思慕は角松を虜にした。草加だけが角松をあきらめなかった。
 出会った夜、角松が草加に言ったように。
 ならば返事はすでに決まっている。角松は一瞬、歓喜の表情を浮かべた。だがこれからも続く未来を想像してそれを厳粛なものに変えた。そう、続いていくのだ。
 そしてひどくやさしい声で草加に答えた。

「こういうことは、こういう結末になるに決まってるだろ?」

 そして2人は幸せに暮らしました。
 ―――めでたしめでたし。