おめでとう





 おめでとう、と。
 なんのためらいもなく、口から出た。





「洋介もとうとう結婚かぁ」

 バン!と勢い良く背中を叩いて、尾栗が豪快に笑った。
 痛いと逃げ腰になりながらも、角松も笑っている。そんな二人に、菊池も声を出して笑った。
 嬉しかった。親友が人生最大の幸福を掴んだのだ。何度だって乾杯する。

「洋介、あんまり飲みすぎるなよ。康平もだ」

 花婿が二日酔いなんて真似はさせられない。披露宴には角松の親戚や、上官も出席するのだ。尾栗は友人代表でスピーチをする。真面目にやってもどこか的外れな言動になってしまう尾栗だ。なにをしでかすのか、菊池は今から心配だ。半分楽しみでもあるが、自衛隊幹部の前でふざけた事をしてくれるなよと思う。

「忙しいのに出席してくれてありがとな」
「お互い様だろ」
「そうそう」

 ほどよく食べたところで酒になる。日本酒で乾杯。

「圭子さんにもようやくお目にかかれるな。お前、もったいぶりやがって」
「もったいぶるもなにも、そんな時間なかったろうが。でも残念でした。明日には世界一綺麗な女の人は俺の嫁さんだ」
「思いっきり惚気るなあ。もう酔ったのか?」
「んー…。そうかも」

 菊池が注いでやると、角松は杯の半分くらいを飲んだ。いつもと変わらないように見えても、さすがに緊張して舞い上がっているのだろう。どうせ明日も二次会だ三次会だと飲むのだ。切り上げ時だった。

「次はお前だな。雅行の予定はどうなんだ?」
「俺か?あちこちから薦められているが、どうにもピンとこなくてな。明日、花嫁の友人席を眺めてみるか」
「お前それ、俺の時にも言ってたぞ」

 気楽で幸福な話をして、角松は明日に備えて一足早くタクシーで帰っていった。
 見送った菊池は予約したホテルに直行したものの寝る気にはならず、最上階にあるバーへ向かった。尾栗も当然のようについてきた。
 ピアノが奏でるジャズが店内に染み込んでいるせいか、二人は先程とはうって変わって、しんみりとした空気になった。「Smoke get in your eyes」――煙が目にしみる。有名なナンバーだ。

「洋介、大丈夫かな」
「平気だろ。アイツ、本番に強いタイプだし」
「ん………」

 幸福そうな親友の顔を思い出して、菊池は微笑んだ。こちらがついつられてしまうような、緩んだ笑顔だった。

「………。お前は、大丈夫か?」
「?」

 そっと尋ねてきた尾栗に、なんのことかという目を向ける。尾栗はどこか困ったような、微妙な笑みを口元にたたえて、菊池を見ていた。

「洋介が結婚して、平気か」
「なに言ってるんだ」

 あたりまえだろ、と続けようとしたのを制して、尾栗が言う。

「今さらどうにもならないけど、もう認めてもいいんじゃないか?雅行」

 自分の気持ちをさ。

「終わらせないと、次へ行けないじゃないか」
「康平…?」
「お前がそれでいいんならって思ってた。でも、それじゃあお前はいつになったら幸せになるんだ?俺は洋介と同じくらいお前のことも大好きだ。親友だと思ってるよ。洋介だってそうだろう、でも俺は、お前が洋介に言えないことも聞いてやれる」

 三人というのは簡単なくせに複雑だ。
 二人が話している間、一人が残される。一人に言えることも、もう一人には言えないということが起こりうる。それで救われることもあるし、寂しく思うこともある。三人がほどよいバランスを保たなくては崩れてしまう。そのバランスを保つのに、尾栗は絶妙だった。

「…………」

 菊池は黙って、苦い酒を飲んだ。



 ―――洋介が結婚する。



 ピアノは終盤に差し掛かっている。煙が目にしみる。まるで禁煙キャンペーンのような邦題だが、れっきとした恋の歌だ。終わることなど想像すらしなかった恋の終わりを嗤う歌。
 菊池に結婚を反対する理由はなにもなかった。彼が愛する者と結ばれて幸せになるのだから、自分だって嬉しいはずだ。しかしその嬉しさが、尾栗の時とは違っていたのは確かだった。

「………っ?」
「…雅行」

 ぽろっと目から零れ落ちたものに菊池は驚いた。慌てて眼鏡を外して瞼を擦るが、それは止まるどころか次々に溢れてくる。

「な…んで―――…」
「雅行」

 不意に頭から上着をかけられた。
 周囲の目を気にしてくれたのだろうが、このほうがよっぽど変じゃないかと思う。煙草臭い。
 心のどこかで今の自分を嘲笑している自分がいた。今までずっと自分の感情に気づかないフリをして、目を逸らし続けていたつけが回ってきたのだと。

「洋介―――」

 ずっとずっと想ってきた。心の奥に秘めて、隠しすぎて、自分でも気づかないところで。

「洋介、洋介……」

 愛してる。けれど明日になったら愛する人は別の相手と永遠の愛を誓うのだ。
 封じてきた想いは堰を切り、もう止められない。泣いているのは失恋のためではなく、これからの自分を思ってのことだ。これからずっと、他の誰かを愛している愛する人を見ていなくてはならない。
 認めて、終わらせて、次へ。
 終わることなどあるのだろうか。この行き場のない想いに終止符を打ち、次へと行く時が。



 ―――無理だ。



「好きなだけ泣いちまえ。周りのやつらは泣き上戸がいるって思ってくれるさ」

 上着の上から頭を叩いて、尾栗が言った。
 彼らしい慰め方に少し笑うことに成功した。
 おそらく尾栗はずっと以前から気づいていたのだろう。豪快で大雑把なように見えて、実は丁寧な気遣いのできる男だ。いつまでたっても自分の想いを認めようとしない自分と、そんなとこを想像すらしない角松に、内心やきもきしていたに違いない。
 すまない、と心の中で謝罪する。
 認めても終わらせられない想いはある。現に今、もうこの想いを封じ込めようとしている自分がいることを、菊池は知った。今度は意識して封印するのだ、もっと奥へ。決して出てこないように。もがき苦しんで痛みが走らないように、やわらかくてやさしいもので埋め尽くそう。たとえば涙のような。





 おめでとう。
 明日もきっと笑顔で祝福するだろう。おめでとう、どうか幸せに。
 祝福の花束は埋葬された想いの墓標になればいい。



 結婚おめでとう。