妻と初めて会ったのは婚礼の晩だった。
戦争が始まり、士官として任務についていた草加は、自分の結婚式で家に帰ったのだ。
花嫁は美しかった。
草加の総本家、しかもその跡取りとなるべき長男に嫁ぐという不安と緊張。そして夫たる男に対する期待と憧れ。そんなものが表情に表れていた。
草加本人はというと、あまりにも急速に進められた結婚に見え隠れする親や親戚の意図を感じ取ってしまい、否やを言うこともできなかった。
美しい花嫁。だがそれ以上でも以下でもない。このひとが草加家の嫁になるのだ。
そうぼんやり思った。
「そういえば…お前、家族は?」
資料室のドアにもたれかかり、食事中にも本を手放さない草加に呆れ口調で角松が訊いた。
食事は角松自らがわざわざ運んできたものだ。丸一日何も食べず本を漁っている草加に、怪我を治すことも考えろと怒鳴りつけたのだ。これを食べなければ力ずくで医務室に連れて行くとまで言われ、仕方なしに草加は食事をとっている。
本に集中していた草加はフイに耳に飛び込んできた角松の声に我に返った。てっきり食事を渡した後は部屋から出て行ったものと思い込んでいたのだ。
「両親と…姉がいます。……あ、」
ゆっくりと近づいてきた角松が、本を閉じてしまった。
「角松さん」
「食事中くらいは止せ。消化に悪いだろうが。独りで食べるのが厭なら食堂へ行くか?」
子供に言い聞かせるような口調だった。草加は恨みがましく閉じられた本を見つめたが、反論せずに箸を動かした。こうなることを見越して角松はここに留まっていたのだろう。素直な草加に角松は苦笑した。
「結婚はしていないのか」
机に積まれていた、すでに読み終わった本を元の棚に戻し、角松が再度訊いた。
咀嚼していた口が、動揺を呑んだ。
「………ああ。まだ、だ」
一瞬の間は、口の中のものを嚥下していたためだと思ってくれるだろう。角松は背を向けているので、表情は見られていない。
「…なぜ、そんなことを訊く?」
なぜ、こうも動揺しているのだろう……?草加は自分の心の動きに戸惑った。
「すまないなと思ったんだ。覚悟してもらうとは言ったが、このままでは死亡扱いだ。せめて家族には無事を知らせたいだろうし……会いたいだろう?」
角松自身がそう思っているのだろう。辛そうに眼を眇めた。
「そんなことはない。二度と会えない覚悟はとうについている。…あなたと違って」
つい皮肉を加えてしまった。なぜかはわからない。直に後悔が襲ってきて、草加はくちびるを噛んだ。
そんな表情をしないでほしかった。
今、角松は隣にいる。けれどいつ、夢か幻のようにいなくなってしまうのかわからない存在だ。彼はこの艦では艦長と共に現実を見つめ、落ち着いているが、帰れるものなら帰りたいと思っているに違いない。そして、帰れる現象が起きたら、帰ってしまうだろう。草加を置いて。
あたりまえだ。いきなり戦場にタイムスリップなどという非常識な事態を、一体誰が想定するだろう。
彼には待っている家族がいる。草加にも、無事を祈り続けてくれているだろう家族…妻が、いた。しかし、不思議なことに郷愁は全く湧いてこない。ただこの男が他の誰かを想い、胸を痛ませていることが―――ひどく腹立たしく、許せなかった。
今なら、あの苛立ちと動揺がどこから発生しているのかわかる。
「生まれ故郷ってのは…一つだろ」
決して短いとはいえない期間、時代の案内人として2人で行動しているうちに、否応なく気づかされた。
角松本人にはわからないだろう。疑惑と信頼に揺れる心が、やがて信頼へと傾いていく、その無垢で真直ぐな心を預けられていく感覚が―――どれほど草加を高揚させたのか。
妻と初めて迎えた夜よりも、彼と共にいるほうがはるかに興奮する。
重い痛みが胸の底に溜まっていく。あの日、神にかけて一生を共にと誓った妻は、どうしているだろうか。
願わくば、夫が死んだものと信じて、新たな人生を歩んでいて欲しい。それがどんなに傲慢で、草加にとってただ都合の良い考えでしかなくても。
「故郷…か」
帰さない。
強い決意を込めた瞳の奥にある何かを読み取ったのか、角松は目を逸らした。
帰さない―――帰りたくないと、自らの意志で角松が思うように。そのプランはすでに草加のなかにある。手段は問わない。たとえどんなに酷い嘘も、裏切りでも。
「帰りたいと思ったことがないとは言わないが、どこで何をしていても、幸せでいてくれればそれでいい」
本心だが、嘘でもある。家族はすでにこれからの行動の足枷にしかならないだろう。
さようなら。あの別れの朝にも言うことのなかった言葉を心の内に告げて、草加は目を閉じる。
闇のなかに浮かぶ風景がある。故郷でありながら、別の国だ。
そこは、