連れて逃げてよ





 やって来た如月を見て、角松は絶句した。
 彼は全身ずぶぬれで、無残にも折れてしまった傘を持っている。こうなることがあらかじめわかっていたのだろう、半袖のシャツにカーゴパンツを膝までまくりあげ、おまけに足にはゴム製の長靴を履いていた。
 外は暴風雨。時折雷まで鳴る始末。テレビは大雨強風の速報が映し出され、画面がちいさくなっている。

「…迷惑だったか」

 あがれとも言わずに佇んでしまっている角松に、如月はやや瞼を伏せた。ただそれだけの仕草で無表情が憂いを帯びて変化する。常に沈着冷静な男にも感情があるのだ。

「あ、いや…そのままあがるなよ。ちょっと待て!」

 我に返った角松が慌ててタオルを持ってきた。広げたタオルで如月を包み込もうとしてすいと避けられたのに不思議そうな顔をする。
 礼を言ってタオルを受け取り、如月は濡れた体と背負っていたリュックサックをふいた。

「食事は、すんだか?」
「いや、まだだ」
「そうか」

 良かった。呟くと如月は狭い寮の一室に幅を占めている夏はテーブル、冬はコタツと便利のきくそこにリュックサックから取り出したものを並べた。
 紙袋の上からスーパーのレジ袋でさらに雨からガードされていたのはパン。取っ手の取り外しが可能な鍋。それからタッパーをふたつ。グラスがないため水筒の中のワインはコーヒーカップに注がれた。

「如月…なに、これ?」
「晩飯だ」

 てきぱきと皿を並べ、鍋から豚の角煮を盛り付けた如月は一仕事終えたといわんばかりに(彼なりに精一杯の)笑顔を見せた。

「…わざわざ作って持ってきたのか?こんな日に」

 感動うんぬんよりも呆れてしまう。このパンのあたたかさをみると、おそらく焼きたてだろう。パンまで自家製。どこまでも何でもできる男だ。

「ああ。それと、これも」

 リュックサックの中から如月が最後に取り出したのは『七夕セット』だった。可愛らしい織姫と彦星の描かれたパッケージに、色とりどりの短冊が入っている。そしてプラスチックでできた、慎ましやかな笹。

「………」

 意外だ。意外すぎる。思い切り意表をつかれた角松はなんだかもう力なく笑うしかなかった。促がされるまま黒のペンで願い事を書く。『健康』、『安全』、『世界平和』。まるで正月に書くお習字のようにおおきいのかちいさいのかいまひとつな願い事だが、角松の願いはそんなものだった。彼は神様が願いを叶えてくれるのをただ待っているくらいなら自分で努力したほうがてっとり早いという実行力にあふれた現実主義者だ。自分と家族と周囲の人々が健康で平和であってくれさえすれば文句はないのである。
 一方の如月はというと、同封されていた折り紙でせっせと飾りを制作している。おかげでずいぶんと華やかになった。

「せっかく七夕でも、この大雨じゃ織姫と彦星は会えないな」

 窓際に笹を飾り、角松がぼやいた。天の川はこのぶんでは決壊しているだろう。外はあいかわらず大雨が降り続いている。ああ、とうなずいた如月は、「そういえば」と言葉を続けた。

「子供の頃、七夕の話を聞いた時。天帝はずいぶん理不尽だと思ったものだ。いくら働かなかったとはいえ、一年に一度、しかも雨天中止はあまりにも割に合わない」
「そうだな。いくらなんでももう許してやってもいいような気がする」

 たとえ許されていても人間に伝わってはこないだろうが。そして行事がなくなることも、おそらくないだろう。

「だが今になって考えると、男のほうも情けない」
「何が?」
「天帝の怒りに触れたからとはいえ、ただそれに従うだけで何の反抗もしていないだろう。そんなに好きならかけおちでもすれば良かったんだ」
「かけおち」

 そういう手段もありえたのだと角松は感心してしまった。如月にしてはロマンティックなことを言うと思い、次に赤面する。

 なんだかこれって、熱烈な愛の告白じゃないか?

 角松と如月は世間一般的には不倫関係にあたる。角松は地元に妻子が待っているのだ。社会的な立場もあった。バレたらただではすまないことは、目に見えている。

「連れて、逃げてくれるのか」

 如月は自分の言ったことに今気がついたという顔をした。

「どこか希望があるか?」
「どこでもいいさ。一緒なら」
「どこへ行こうがあんたを餓えさせない自信はある」

 如月がきっぱりと言い切った。この男のこういうところが角松はたまらなく好きだ。戯言にすぎないとわかっているのに真剣かつ具体的に如月は考えてくれる。

「コスタリカはどうだ」
「理由は?」
「軍隊がない」

 武装した地方警備隊ならあるが、コスタリカは日本と同じく表向き軍隊を保有しないと憲法に明文化されている。角松は苦笑してしまった。俺の職を奪う気か。先ほど短冊に書いた『世界平和』が実現すれば軍隊なんていらなくなる。それはなんと素晴らしい世界だろう。無職になるのはちょっと困るが、どこでだってなんとかやっていけるだろう。
 いつもの、何を考えているのかよくわからない無表情で如月が言った。

「悪いが自分の願いは自分で叶えてくれ。俺は自分のだけで手いっぱいだ」
「自分だけ、何を叶えたんだ」
「大雨の中、恋人に会いに。七夕だからな」
「会いに来ただけか?」

 にまにま笑って顔を覗きこむ。心持ち如月が身を引いた。

「それだけか?」

 我ながら意地悪な問いを続けると、如月はむっつりと黙り込んでしまった。だがその無表情のなかにうっすらと艶が生まれる。不満そうに、彼は答えた。

「………。それ以上の事は、ひとりでは無理だ」
「うん」

 してやったりと笑う角松を引き寄せて、如月がキスをした。指を絡める。角松の太い指と違い、如月の指はいかにも繊細で器用だった。

「しょうがないから協力してやる。だから、俺の願いも叶えろよ?」
「何が望みだ」

 何がだって?決まっている。もし、誰かの怒りに触れて、ふたりが引き裂かれそうになった時には手に手をとって。

「連れて、逃げてよ」

 歌うように、角松が願った。