永遠に続く手紙の最初の一文
ふっと思い立って、手紙を書いてみた。
我ながらガラじゃないなと内心で苦笑しつつ、悪筆をそれでもなるべく丁寧に、便箋に綴っていく。気を使って文字を書くなんて作業はレポートの時くらいで、まだ途中にもかかわらずすっかり手が疲れてしまった。尾栗はまったく自分らしくない言葉遣いで記された文章に照れくさくなる。
内容は、まごうことなくラブレター。相手は、こともあろうに親友だ。
バカだよなぁ、と思う。なぜ手紙を書こうなんて思いついたのだろうか、理由は忘れてしまった。第一角松に渡すつもりはないのだ。
出会って、恋に落ちた。告白はしていない。そんなことをしなくても通じあう気持ちが互いにあった。親友として。
それが物足りなくなったのはいったいいつからなのだろう。
「康平、ちょっといいか?」
授業と自習時間が終わり、ようやく得た自由時間。ラブレターの相手から声をかけられた尾栗はドキリと弾んだ胸をごまかして振り返った。さりげなく、便箋を机の引き出しにしまいこむ。
「おう。どした?」
ちょっと、と言って差し出されたのは数学の教科書だったが、そこには『夕食後、西トイレ』と書かれた付箋が貼られていた。何事かと顔をあげた尾栗に角松洋介は真剣な眼をちらりと隣の親友に向けた。菊池には聞かれたくない話、ということだ。
尾栗がうなずくと角松は「サンキュ」と礼を言って何事もなかったように自分の机に戻っていった。
菊池はというと教科書とノートを広げたままでぼうっとしている。このところの彼はこんな感じで、心ここにあらずだった。おそらく話とは菊池のことだろう。
校舎の西トイレから外に続く細長い通路は頼りない外灯があるだけで薄暗く、不気味だ。尾栗は遠慮なくタバコに火をつけた。喫煙者のためにきちんと灰皿が設置されている。学校とはいえ観光客が来ることが前提になっているため、各所にあるのだった。
「話って、雅行のことだろ?」
ふうと紫煙を吐き出して尾栗が口火を切った。夜空には尾栗にもわかる冬の星座が瞬いている。
「ああ。このごろ変だよな」
「だよな。誰かに恋でもしてんじゃねえ?」
尾栗は気楽に笑った。心当たりもある。自分と同じ相手だろうと思っているが尾栗には嫉妬も焦りもなかった。親友なのだ。
「……恋?」
角松は意表をつかれた表情をした。
「だってさ、やけに真剣に悩んでるしため息ついてるし。心ここにあらずって感じ」
「恋、恋か……」
角松は呟いて腕を組んだ。色恋関係に鈍いとまではいかないが、まさか同性の親友に恋心を抱かれているとは思わないだろう。しかも2人いっぺんだ。予想外もいいとこだろう。
「だったらいいけど、誰か見当ついてるのか?」
気を取り直して角松が訊いた。少し心が軽くなったような微笑が浮かんでいる。
「だいたいそうじゃないかな?っていうコはいるけど、雅行が何も言わないのに俺からは言えないよ」
「本当にいるのか。…なら、応援してやろうぜ」
「やめとけって。人の恋路に首つっこんだってバカを見るだけだ」
尾栗が先輩風を吹かせた。角松は不満そうで友達甲斐のないやつと苦笑する。尾栗にしたってわざわざ自分の失恋を手助けするつもりはないのだ。
ふうとちいさくため息をついた角松はひどく憂鬱そうだった。それが尾栗には気になった。菊池の症状が恋ではないとするのなら彼は何だと思ったのだろうか。
「雅行…もしかしたら任官拒否するつもりなんじゃないかと思ったんだ」
「な……っに!?」
任官拒否。卒業間近になると必ずといっていいほど出てくる単語が、まさか親友にあてはまるとは、尾栗は考えてもみなかった。
「ちょ、ちょっと待てよ。何で任官拒否なんて出てくるんだよ!?」
角松は曖昧に笑い、また憂鬱そうに瞳を瞬かせて夜空を見上げた。さっきまで晴れていたはずの空にはいつの間にか薄い雲が伸びて星を隠している。地上ではそうではないが、上空には強い風が吹いているのだろう。
「やけに真剣に悩んでるし、ため息ついてるし。心ここにあらずって感じ」
尾栗と同じ理由だった。それに、と角松は続けた。
「遠くの空を見てるだろ」
そこははたしてどこの空なのか。角松はそう思ったのだと言う。
「洋介……」
「何も言われないってのは、キツイな」
空。夜空。いつか3人で見た。テレビの中の夜空は、地上から星が堕ちていった。遠くの空に向かって伸びていく緑色の流星。堕ちていく先には人々の命があった。
角松は笑った。尾栗の好きな、何もかもやわらかく包み込んでしまう笑顔だった。今はそれがひどく哀しく切なく見えた。
机の中のラブレターは初心者の日記のように断続的に続いた。最初から渡すつもりはなかったが、告白だけは、いつかしようと決めていた。
菊池の任官拒否は角松の正解だったが彼は前言撤回し、尾栗と角松の元に帰ってきた。江田島の第一術科学校でも、3人はいつも一緒だった。
「康平?」
放課後の教室にひとり残って、煙草を吸っている尾栗を目ざとく見つけた菊池が呆れ気味にやってきた。眉を顰めている。教室内での喫煙はもちろん禁止だ。尾栗は素直に火を消した。
「またこんなとこで煙草吸って…バレたら懲罰もんだぞ」
「まあまあ。バレなきゃいいじゃん」
まったく。菊池は知らないからなと言いつつ尾栗のいる窓際にやってきた。彼と同じように窓から外を眺める。
「何見てたんだ」
「洋介」
ホラ、と指差す方向には弓道部が練習に励んでいる。男たちのなかにあって平均より少し大きなだけの角松だったが、それでもひときわ輝く存在感でそこにいた。誰をも惹きつけずにはいられない。彼を遠巻きに、後輩たちが見ていた。遠くてわからないが、きっと憧れの眼差しで。
「洋介」
菊池が彼の名を呼んだ。くっきりとした声であった。視線を角松にすえたまま「なあ」と言う。
「俺が任官拒否をやめた理由が…おまえと洋介がくっつくのが嫌だったからだって言ったら、どうする?」
自嘲するその横顔がひどく男らしかったから、尾栗も角松を見つめたまま答えた。
「別に?どうもしない」
怒らないし、笑わない。そういう理由だってアリだろ。あれだけもめたにも関わらず淡々とした尾栗が意外だったのか菊池が振り向いた。
「恋なんて、そんなもんだろ」
親友2人がもうひとりの親友に恋をしてなにが悪いというのだ。想いは個人のものであり、誰にも責める権利はない。
「…誰にも、渡したくないんだ」
「ああ」
それはなんてどうしようもない感情だろう。きっと菊池も角松への恋心を綴っている。永遠に届くことのないラブレター。日ごとに募ってはきらきらと弾ける恋を。
菊池には別に尾栗を牽制しようという考えはないだろう。だが言わずにはいられなかった彼の気持ちがわからないほど尾栗は鈍感ではなかったし、それを無視できるほど冷酷にもなれなかった。
「せつないな」
いつかするだろうと決めている、角松への告白。決意は揺らがなかったがきっと自分にはできないのだろうとなんとなく尾栗は予感した。恋ならば失って終わることもできるが、友情に終わりはないからだ。裏切りの痛みは時が緩やかに溶かし、消える。
瞼の裏が熱くなり、あたたかな薄紅色に彩られた角松の姿が霞んだ。今日は手紙を書こう。とても言葉にできない愚かしくも愛おしい恋心を、誰のためでもなく自分のために書いてみよう。
『あなたが好きです。』