休日の過ごし方





 きっかけは、やはりというか草加だった。
 角松洋介が女体化してからというもの「みらい」に通いつめている男は角松がいつも同じ服を着ていることに気がついたのだ。角松が着ている服は、彼女になった彼のために菊池がわざわざ下艦して購入したものだ。彼は婦人向けの服では角松が着ないだろうことを考慮して、作業服に似たあたりさわりのないシャツとズボンを用意した。同じデザインをとりあえず3着。毎日洗濯をしても、3着あればなんとかなる。
 しかし草加に言わせれば妙齢の女性が着るにはいかにもつまらない服である。あくまでもそれは草加の意見で角松の意見ではないことを強調しておく。似合う似合わないの問題ではなく、菊池は気が利かないという。
 草加は菊池を見る目にいつもよりさらに侮蔑を増して(もともと彼は菊池を見下していたが)、自信満々に自分が買ってきた服を角松に差し出した。

「絶対に似合います」

 断言した草加だが草加にしてみてもそうセンスが良いわけではない。それは角松の白いスーツを見ればわかることだった。あの時はサイズの問題もあってああなったのだが、今回は一体どんな服を買ってきたのだろう。角松は嫌な予感とわずかな希望を込めて受け取った紙袋を開いた。

「…………」

 そして固まった。
 周囲の目に促がされて角松が取り出した服に、全員の目が点になる。

「………猫娘?」

 誰かがポツリと呟いた。そう、それは懐かしの妖怪アニメに出てくる幼女が着ている服そっくりだった。白いブラウスに赤い吊りスカート。由緒正しい昭和の女児童スタイルである。

「よくサイズがあったな」

 笑いを堪える表情で言った尾栗に、草加はなぜか胸を張って答えた。

「特注品です」

 第2種軍装もまばゆい海軍少佐にこんなものを注文されてしまった仕立て屋こそ不幸だっただろう。

「…でも、これじゃあ短すぎだろう」

 スカートを身体に当てて、角松が言った。全員が注目する。むろん、驚きでだ。
 体が女になったとはいえ心が男のままの角松であれば、絶対に激怒すると思っていたのだ。しかし角松は意外にも真剣な顔でスカートをチェックしている。

「そのスカートならその丈でしょう」
「でもこれじゃ、パンチラどころかパンモロじゃねえか。なんつーか…色気がない」

 見えてしまうようなスカートでは、めくる気もおきない。どうやら角松にとってはこだわりがあるようで、問題はそこではないような気がしている草加と角松を覗いた全員が思い切り脱力した。
 角松はおまえは何もわかっていないと言いたげな目で草加を一瞥した。

「ムッツリ返上か?」
「そういう理由じゃありません!」

 たたき返すように否定した草加を角松は鼻で笑った。

「どうだか」

 角松は笑みを消すと、隣の梅津をちらりと見た。艦長はいつもと同じように穏やかに草加を見ている。

「…………」

 角松は草加の買ってきた服を腕にかけると、何も言わずに士官室を出て行った。ぱたんとドアの閉まる音が大きく聞こえるほどの静寂が狭い部屋に満ちる。
 着てくれるのかと期待したのは、草加だけだった。士官室に集合した「みらい」一同は、角松が出て行った途端に梅津の雰囲気が変わったことをすばやく察知していた。何もだてにこの艦長の下についているわけではない。
 梅津がゆっくりと、口を開いた。

「さて、草加少佐」
「はい」
「君は一体角松二佐を何だと思っているのかね?」
「え?」

 ハッとして見た梅津はいつにない表情をしていた。

「君は一体角松二佐を何だと思っているのかね」

 梅津は繰り返して言った。しかし口調は違っている。質問というより、叱責に近い響きがあった。
 静かに穏やかなまま、梅津は激怒していた。
 「みらい」乗員全員、もちろん梅津にとっても角松は大事な副長である。女であろうが男であろうが角松洋介であればそれは太陽が東から昇るのと同じように当然のことだった。梅津は角松が女になってしまったことに、海のように深い心を痛めていたが、これといった害がない(どころか乗員たちは明るさを取り戻しさえした)ことに、まあよかろうと大目にみていたのである。
 しかし、草加となれば話は別だ。確かに呼び出したのはこちらだが、彼がこうもあからさまに角松に求愛してくるなどとは誰も想像していなかったのである。呆れるどころか不愉快であった。角松がうまいことあしらっていたから許していたものの、さすがに今回は頭に来た。
 梅津の目から見て、角松はあきらかに傷ついた。草加をからかったものの断りもなくさっさと退席したのがいい証拠だ。角松にしても複雑な感情を草加に対して抱いていることは梅津にもわかっていた。なのにその当の草加が自分が女になったというだけで態度を豹変させたのである。傷つくなというほうが無理だろう。

「…………」

 草加は言葉を失った。彼にはそこまで見抜くことができなかった。言われてみれば確かにそうかもしればいが、どちらかというと角松に傷つけられているのはこちらのような気がする。冗談だろうがムッツリ呼ばわりされたのだ。

「日本海軍は何を考えて君のようなUMAを野放しにしているのか。…山本長官に問い質したい気分だよ」

 さりげなく地球外生命体呼ばわりされた草加だが、UMAという言葉そのものを彼は知らなかった。とてもどんな意味だと訊けるような雰囲気ではない。
 梅津の怒りに押され、士官室に重苦しい空気が漂う。菊池が言った。

「では、洋介…副長は、着替えに行ったのではないのでしょうか?」
「着替えないよ。賭けてもいい。今頃はどこかで憂さ晴らしでもしているんじゃないかな」

 梅津の答えに菊池が勝ち誇ったように草加を見た。さんざん馬鹿にしてくれたが、それみたことか。草加は忌々しげに頬を歪ませた。

「…それで、草加少佐はどうおとしまえをつけてくれるのかな?」

 静かな迫力に追い立てられ、草加は角松の使用している部屋へと向かった。残された士官たちは梅津の怒りがこちらに飛び火しないようにと恐縮している。いつも穏やかな艦長にも逆鱗があったのだと思い知っていた。角松の変身にはしゃいでいた自分達が恥ずかしい。男たちが心から反省する中、草加が戻ってきた。なぜか青褪めている。
 ゆっくりと彼は梅津に近づき、口を開きかけた。だが言葉が見つからず、ちいさなメモをただ差し出した。
 梅津が受け取ったそれを、全員が取り囲んだ。

 ―――探さないで下さい。   角松

「…………」
「…………」

 あまりにもわかりやすい書き置きに、静まり返った部屋がさらに冷えた。

「…草加少佐」
「は、はい」
「24時間以内に角松二佐を見つけ出して連れ戻したまえ。できなかった場合、君の一連の行動を「みらい」に対する挑発行為とみなし、今後一切日本海軍への協力を拒否する」

 草加は背筋を正した。「みらい」艦長はやるといったらやる男だ。

「了解しました」

 それ以外、どうしろというのだ。




 角松はいつもの外出着であるスーツ姿で歩いていた。ぶかぶかの袖をまくりあげているため時折奇異の目で見られたが、そんなものにはかまっていられない。ずんずんと歩く。目的地などはなかった。ただ草加からも「みらい」からも遠ざかりたい一心だ。梅津に何の断りもなく飛び出してきてしまったことが唯一の気がかりだが、艦長なら理解してくれるだろうという信頼があった。

(…草加のやつ……)

 梅津の指摘以上に、角松洋介は傷ついていた。
 ことあるごとに俺は男だと主張しているというのに、性懲りもなく女扱いをしてくる草加には学習能力というものが欠如していると思う。着るわけないだろあんな服。草加拓海はどこかおかしい。電波系というより宇宙人だ。期せずして艦長と副長の意見が一致していたが、角松はそれを知らなかった。
 特に行き先はないが角松には不安もなかった。適当に憂さ晴らしをしたら帰るつもりでいる。その頃には草加も反省しているだろう。よもや角松が家出してしまったことに堪忍袋の緒が切れた梅津がとんでもないことになっているとは夢にも思わない角松は、けっこうのんきだった。
 繁華街まで行くと、さすがに人でいっぱいだった。
 このご時勢に遊ぶといっても限られている。どこかの店にでも入って酒でも飲むかと食堂を探した角松は、見覚えのある顔にハッとして足を止めた。
 如月克己がコンクリート造りの建物に入っていくところだった。
 咄嗟に声をかけようとして慌てて口を噤む。今の自分は女だ。自分の目から見て別人といいたくなるほど変わってしまっている。親友や艦長、そして草加は一目で角松洋介だと見抜いたが、如月はどうだろう。悪戯心と少しの期待。声をかけてみるべきかそれともさりげなく前を通り過ぎてみせようか。迷う角松をよそに建物から出てきた如月はさっさと歩いていってしまう。迷いながら角松がおいかける。
 どうしようか。ナンパでもしてみたらどんな反応をするだろう。どうも無表情のリアクションしか思いつかないが、この際だ、驚かせてみたい。
 如月が細い路地を曲がった。
 追いかけた角松は背後に現れた気配に緊張した。ついさっきまで前を歩いていたはずの如月がいない。
 振り返ろうとした時、背後から伸びてきた腕に首を絞められていた。
 暴れて振りほどこうとすると、締め付けが強くなる。低い声が言った。

「動くな。なぜ後をつけていた?答えろ」

 冷酷で怖ろしい、如月の――特務中尉の声。いきなりのことに答えられずにいると、グッと咽喉仏を圧迫された。呼吸が妨げられ、女であろうと容赦しないことを教えられる。

「き、如月…中尉、だよな?」
「…………」

 如月は無言だ。訊かれたことにだけ答えろということだろう。

「角松洋介を知ってるだろ?教えてもらって探してたんだ!」
「証拠は?」
「スーツの内ポケットに、写真が入ってる」

 冷ややかな迫力が増し、角松はそう言い募っていた。ちょっとしたパニック状態だ。自分が誰だかわかっていない如月に信用してもらうには自分の名前をだすしかない。如月はまったく無遠慮にもう片方の手をスーツの中に突っ込んできた。豊かな乳房になどおかまいなしで内ポケットを探り、写真を抜き取った。
 妻と子供の写真は、常に持ち歩いていたのだ。フルカラーのそれを見れば、角松と関わりがあるという証拠になるだろう。角松の考えどおり、如月は拘束を解いた。

「…それで、何の用でしょう」

 口調がやや丁寧になったのは、角松の関係者だからだろう。改めて向き直ると、如月の眉がわずかに寄せられた。
 だが、角松なのかという問いはとうとう来なかった。今までの男たちとは正反対の反応を示した如月に、角松は自分でも驚くほどショックを受けていた。予想はしていたものの、見抜いてくれるという期待があったのだと思い知る。

「………。まあ、角松のことだからどうせまた面倒にまきこまれたんだろう。あなたも災難だったな」
「…………」

 その評価は一体どこから来るものなのだ。問い詰めたい衝動を抑えた角松に肩をすくめ、如月は着いて来いと言った。

「事情を説明できないのならしなくていい。だが私が何をすればいいのか教えてくれ」
「護衛…と、憂さ晴らしにつきあってくれ」
「具体的には?」
「しつこい男につきまとわれてうんざりしていたところなんだ。どこかスカッとするところに行きたい」

 まったく具体的ではない説明に如月は深く追求することをやめた。角松を連れて、まずはデパートへと向かう。

「そのナリでは悪目立ちしすぎる。着替えてくれ」
「え?だが…」

 確かに今の格好では男物のスーツを着た不審者だ。しかし婦人服売り場に連れてこられたところで角松とてどんな服を選べばいいのかわからなかった。積極的に着たいものでもないのだ。

「それは角松二佐のスーツだろう。別に捨てるわけではないから心配するな」

 そんな理由でまごついているのではないのだが。どこかズレている如月に、角松は困惑したまま言った。

「どんな服を選べばいいのかわからない」
「…………」

 正直な角松に如月はいかにも面倒という顔をした。それから角松をともなって売り場を見て回る。時折身体に服をあててサイズを確かめた。
 如月が選んだのは、いたってシンプルな白のブラウスと紺色のスカートだった。膝が隠れる長さのスカート丈に少しだけほっとする。靴下と靴まで揃えられ、見た目はどこかの上品なお嬢様だ。ただ短すぎる髪と言葉遣いがその外見を裏切っている。

「足元がすうすうして落ち着かない」
「それ以上長いと裾を踏んづけて転ぶぞ」

 角松の文句を軽くあしらって、今まで着ていたスーツや靴を紙袋に入れてもらった如月が街中へと繰り出した。
 生まれて初めてスカートを穿くはめになった角松は下半身のおぼつかなさに奇妙な気分になる。いつもの歩幅で歩くとスカートがふわりと広がり、下着が見えてしまうような錯覚にとらわれた。ありえないとわかってはいるがその感覚はなくならない。世の女性たちはこんな姿で外にでるのだ。角松は感心してしまった。
 如月は角松が見知ったいつもの無表情で隣を歩いている。何を考えているのか相変わらずよくわからない。というか、何があっても頓着しない男だ。しかしその変わらない態度が角松には救いだった。草加のようになられてしまうよりずっといい。

「どこへ行くんだ?」

 スカートから気を紛らわせようと尋ねた角松に、如月はきわめてそっけなく答えた。

「スカッとしたいと言っただろう」

 連れられた喫茶店で注文したのは、

「…サイダー?」

 しゅわしゅわと弾ける炭酸水。如月はそ知らぬふりを決め込んでいるがこれはひょっとして彼なりのユーモアだろうか。笑うべきだろうか、角松は悩んだ。
 サイダーを飲むのはいつ以来だろう。子供の頃、それから子供を連れて以来だったかもしれない。どちらにせよサイダーの記憶はどれも楽しいものばかりだった。
 一口、飲んでみる。

「…あ、美味い」

 この時代のものはどんな味か、失礼なことを心配していたのだが記憶どおりの味だった。素直な感想をつぶやくと、如月の表情がわずかに緩んだ。

「少し遠いが、自転車で行くと気晴らしになるところがある」

 どうする?自転車でというのはどういうことだろう。行ってみればわかる。角松はうなずいた。如月が次に何をしてくるのか楽しみになってきていた。

「行く」

 知り合いに自転車を借りてくると言って、如月は新聞社に入っていくと配達用のものだろう立派な前カゴと後部に荷台のついている、角松からすればやけにゴツイ自転車を持ってきた。

「ほら、乗れ」
「自転車ぐらい乗れるぜ」
「スカートがめくれるぞ」
「…………」

 絶句した角松が仕方なく荷台に座ろうとした、その時だった。「あっ!」という聞き覚えのある非情に不吉な叫びが後ろから聞こえてきた。
 つい振り返ってみると案の定、そこには草加がいた。信じられないとその表情がいっている。

「な!あなたなんでそんな格好してるんですか!?」

 そこかよ。角松はたちまち殺気立つ如月を急かした。名前を叫ばれなかっただけましだが、こんなところで(というよりこんな格好で)如月に正体を知られたくない。

「行くぞ!」
「しつこい男というのは草加少佐のことか?」
「いいから早く!掴まるとうるさい」

 うるさいではすまないだろう。なにせ草加だ。どんな目にあわされるか――おそらく未遂ではすまないことくらい予想できる。
 走り出した角松に、如月も後を追った。ほぼ同時に草加も走ってくる。如月を見て、ようやく二人が一緒に行動していたと気づいたらしい。嫉妬に顔を歪ませた。

「乗れ」

 すぐさま横に並んだ自転車から腕が伸びてきた。腰を抱えられ、体が宙に浮く。あげそうになった悲鳴を飲み込んで、角松はなんとか如月にしがみついた。身体をひねり、荷台に横向きに座ると自転車が揺れた。
 みるみる遠ざかっていく草加に愉快な気分になる。べーっと舌を出し、大きく手を振ってやった。悔しそうな草加にますます気分が良くなった。
 自転車の二人乗りは初めてではないが、後ろに座るのは初めてだ。女とはいえ大人一人を乗せているというのに如月のスピードは衰えず、息が乱れてもいない。通り過ぎる人々が目を丸くしてこちらを見ていた。夫婦であっても男女がおおっぴらに仲良くしていられない時代であったと何かで読んだことがある。如月はどう思っているのだろう?しがみついた手に伝わる腹筋が固かった。

「疲れないか?」
「平気だ。そろそろだぞ、しっかり掴まっていろよ」

 しだいに民家もまばらになり、田畑と雑木林の風景が増えた。そういえばどこへ向かっているのだろう?何が待ち受けているのか。角松は身を乗り出して前方を確認した。
 目を見開く。
 地平線で道が消え、その向こうへと続いている。
 坂だ。気づいた角松がまさかと思うより早く、如月がスピードをあげてきた。しがみつく。ふわりとスカートが太腿までめくれあがったそんなことを気にしている場合ではない。
 ふっ、と。体から重さが消えた。

「う…っ、わあああああああ―――!!!」

 叫ぶことしかできなかった。





 気がつくと角松は草の上に寝転がっていた。
 いや、記憶はある。下り坂を猛スピードで滑り降りたのだ。その影響で茫然自失となった角松は、如月に支えられて地面に降り、そのまま横にされた。100メートル近くあった坂道をブレーキを一度もかけずに下りたため、ここから坂はずいぶんと遠くなった。途中で何回か自転車が浮いたような気もする。よくまあ無事でいられたものだ。如月の運転技術は自転車であっても確からしい。
 如月はというと角松の隣にのんびりと座っている。のんびりとして見えるがこの男のことだ、草加やその配下が追跡してこないか警戒しているのだろう。

「…気が済んだか」

 静かに如月が尋ねてきた。言葉の響きに楽しげな色が混じっている。角松はため息と共に答えた。

「済んだ。…おまえ、やりすぎだ」
「角松二佐…の、知り合いなら、これくらいは必要だろう」
「…あんた角松のこと、どう思ってるんだ」

 一体こいつは俺のこと何だと思っているのだ。自分のことを面と向かってどう思うと訊くのは難しいが、今の自分は見た目だけは別人だ。角松の問いに、如月は穏やかな目をして見つめてきた。

「さあな」

 手に触れたシロツメクサの白い花を切り、角松の胸に飾る。それをとって角松は上半身を起こした。まだ脱力している体が億劫だ。かさついた感触のちいさな花を如月の髪に挿す。気の毒なほど似合っていなかった。
 それから二人は坂道ではなく遠回りをして街に戻り、自転車を返却した。如月が借りている宿で夕飯にする。居酒屋に入ろうとしたら、角松を見た店員に怪訝な目をされてしまったのだ。食べ終わる頃にはすっかり夜も更けていた。
 もう角松は「みらい」に帰らなくてはならない。もともとこんなに遊ぶつもりはなかったのだ。

「もう、帰らないと」
「どこへだ?「みらい」まで行けばいいのか?」
「ああ」

 そういえば、草加はどうなったのだろう。「みらい」にいるのだろう傍迷惑な男を思い出し、角松はうんざりとなった。自分の正体を知らないとはいえ、男だろうが女だろうが関係ないといわんばかりの態度で接してくれた如月と比べると、帰りたくなくなってしまう。
 ちなみに草加だが、角松と如月を見失ってからも街中を探していたのだが、こればかりはいかに傲慢な彼でも部下に説明できるはずがなく、独りでの捜索にくたびれ果てて結局「みらい」で待つことにした。当然のことながら「みらい」にいた艦長に捕まり、説教大会に突入されている。梅津にしても怒りが収まれば帰ってこない角松への心配が募り、説教でもしなければ気が済まないのだ。
 角松は家出する際に着ていた男物のスーツに着替えた。スカートは如月に返却する。やると言われたがそんなものを持って帰ったらあらぬ疑いをかけられてしまう。そっけなく要らんと突っ返した。
 女性がこんな夜中にひとりで外出するのは危険だと、如月はわざわざ第2種軍装姿で角松を「みらい」まで送った。軍服を着ていれば警官や特高に因縁ふっかけられることもないだろうとの配慮である。
 結局如月は、自分が角松洋介であることに最後まで気づくことはなかった。角松は落胆と安堵を同時に味わった。最後だし、もうばらしてもいいような気になる。どうしようか迷っている間に「みらい」はすぐそこだった。
 草加や部下たちに名前を呼ばれるのは避けたいと、角松は「みらい」から見えないところで立ち止まった。

「ここまででいい。…今日は、ありがとう」
「ああ」

 あのさ、と言い掛けてやめる。ひとつくらい、こんな思い出があったっていいだろう。息を吸って笑った。

「…これを返しておく」

 如月が差し出したのは写真だった。角松の関係者である証明に渡して、そのままだったのだ。

「角松二佐に伝えておいてくれ。何があったのかは知らないが、」

 受け取った角松はきっと自分への苦情だろうと苦笑して如月を見た。如月は言った。

「次に会う時は、いつもの角松洋介で頼む」
「――えっ?」

 その言葉は心臓に突き刺さり、鋭い痛みを角松に与えた。衝撃に目を見開いた角松を如月はまったくの無表情で見つめている。飄々として、何を考えているのかわからない男。けれどさりげない気遣いのできる、やさしい男。こちらが何も言わなければいつまでも黙って待つ。そういう男だと、知っていたのに。
 言えなかった。言わなかった。気づいて欲しいと思っていながら、自分からはとうとう言いださなかった。痛みは後悔となり、角松を苛む。
 振り返らずに去っていく如月が見えなくなるまで、角松は立ち尽くしていた。それから一歩一歩を踏みしめて自分のあるべきところへと帰っていった。
 楽しかった休日は、終わったのだ。