ちいさな海辺の町において、運動会は一大イベントだ。
ただでさえ子供が少ないため幼稚園から小中学校が合同になり、もりあげ要員として青年団から婦人会、はては老人会まで参加する。みんな日頃溜め込んだ鬱憤を晴らす時とばかりに張り切ってくるのだ。各競技の上位には賞品が用意されているのでむしろ大人のほうがやる気満々、本気モードだった。
運動会当日、町のほぼ全員が赤組と白組に別れ、真剣勝負が繰り広げられていた。角松と如月は親子として認められているので同じ赤組。角松の親友である尾栗と菊池は白組だった。いつも仲の良い三人組が別れてしまったのは厳正なる抽選の結果である。三人は仲良く勝負していた。
三人だけの成績なら角松がトップだが、運動会は団体で評価される。総合得点で赤組は僅差で負けていた。
「くっそー白組のやつ、しぶといぜ」
悔しそうにぼやいて角松が如月特製弁当の卵焼きをぱくり。ほんのりと甘いだしがきいた、角松好みの味付けだ。料理の好きな如月がはりきって作った三段弁当は彼の予想通りあちこちから伸びてきた箸によって着実に減っている。白組の親友二人はその様子を指を銜えて見ているだけだ。赤組の陣地に入ってはいけないというルールがあるわけではないが、敵と馴れ合うわけにはいかない。角松も如月も二人に声をかけなかった。ついでにこの町唯一の医者である矢吹は救護室という名のテントの下で仕出し弁当をつついている。子供たちの擦り傷切り傷はあたりまえ、大人たちによる地引網競争で腰を痛くしたお父さん多数、はりきりすぎて足をくじいた爺ちゃん婆ちゃんも歳には叶わないとばかりに救護室に居座っていた。いつもの医院とたいして変わりない。ゆっくり味わっている時間が医者にないのもいつものことである。
昼休みは時間をたっぷりとってある。怪我人によるメンバーチェンジや作戦の練り直しなど、昼食以外にもやることは多いのだ。
「角松さん、これ」
綺麗にカラになった弁当箱をしまうと、如月は別の包みを取り出した。
「なに?」
「おやつに作った。そこらへんであの二人と食べてくるといい」
え、と角松はいまだ恨めしげにこちらを見ている白組の親友を振り返った。
「いいのか?あいつら敵だぜ?」
「運動会の遺恨は来年に持ち越しだが、学校は月曜日からだろう。昔から食い物の恨みは怖ろしいというぞ。それに今は、昼休みだ」
「………うんっ」
実をいうと角松だって二人と一緒に弁当を食べたかった。二人とは家族ぐるみの付き合いだし、なにより如月の弁当を見せびらかしたかったのだ。赤組のクラスメイトたちに対してどうしても尾栗や菊池と同じようにというわけにはいかずにいるのもひとつの要因だ。如月と角松が本当の親子ではないということは町中のひとたちが知っているが、小学校が一緒だった連中はともかくとしてある種の偏見を感じずにはいられなかった。どうしても、距離ができてしまう。何も考えずに友達になれた子供の頃とは違うのだと中学生になって角松ははじめて知った思いだ。
その点幼馴染の二人にはまったく気兼ねせずにすむ。包みを持って駆けつけた角松に待ってましたと尾栗と菊池は笑顔になって白組のスペース内、尾栗と菊池のシートが敷いてある場所へ引っ張っていった。
包みの中身はタッパー一杯に入ったカスタードプティングだった。保冷剤が上下にはさんであって、きちんと冷されている。つくづく如月はまめな男だ。
おやつといっても市販の菓子しか持ってこなかった尾栗と菊池は歓声をあげた。三人分のプラスチックスプーンが付いている。本当に三人のために作ってくれたのだ。角松は嬉しさで胸がいっぱいになる。
「…うまいっ」
慣れたものでまったく遠慮せずに一口食べた尾栗が幸せを顔一杯に表現して感想を述べた。ちいさい頃からの三人を知っている大人たちが、くすくす笑っていた。
「ホントだ、美味い。如月さん、腕をあげたなぁ」
自分でも作りたそうな顔でプティングをながめ、菊池が言った。レシピを教えてもらったとしても無理だろうなと角松は思う。如月のこれは一種の趣味だ。だからこそ手間と暇を惜しまずに作れる。買ったほうが安上がりなのにわざわざ作るのはそれが好きだからであり、そうでなくては作らないだろう。
「…如月のやつ、いつのまに……」
如月の新作おやつを食べた角松は救護室を振り返った。角松がこちらにいるせいで暇を持て余したのか、如月が矢吹を手伝っている。角松はプティングの試作品を食べたことがなかった。おそらく当日のびっくりを狙ったのだろうが、その間に如月の手料理をありついたのが矢吹だと思うとなんとなく気に食わなかった。メタボ値が上がっていそうなのがいい気味だ。角松は溜飲を下げることにする。
「如月さんは今年も参加しないのか」
角松の視線を追いかけた菊池が言った。如月克己は町一番といっていいほどの資産家で、毎年豪華賞品を提供してくれる。しかし本人が運動会に出たのは中学校を卒業するまでだ。
「金をだしたんだからいいだろうって、露骨に言ってた」
角松としてはもちろん不満だ。如月の活躍を見たいと思っているし、彼がどれほどすごい男なのかおまえら思い知れとも思う。おまえらといっても特定の誰かがいるわけではないが。けれども如月は実にそっけなく角松の頼みを一蹴してしまう。
「実際如月さんってどうよ?足早いの?」
「如月は走るのは趣味じゃないって」
毎年角松が頼んでも即行で拒否される。足に故障があるわけでもなく、単に如月の好みの問題らしかった。
「まあ、確かに自分でだした賞品を自分でもらってもな」
今年の最高賞品は地デジ対応のフルハイビジョン大型テレビ。如月はとっくに自宅のテレビを最新のものに買い換えていたし、パソコンもテレビが見られるタイプのものだ。彼はあれでも新しいものが好きで、しかも凝り性なものだからどのメーカーが使えるのか比べている。ちなみに古いブラウン管のテレビはとっくにふたりして分解して遊び、壊してしまった。
「でもさ、俺たちが町内の運動会にでるのって、来年までだよな」
角松たちは中学二年生になっている。卒業して高校に進学するだろうが、この町に高校はない。進学のために町を離れた先輩方は、たいてい戻ってこなくなる。ちいさな町の運動会に出場する高校生は、ひとりもいないのが現状だった。
「…なあ、じゃあさ」
なんとなくしんみりとした雰囲気を払うように、菊池が企みを告げた。如月の足が早いとは菊池は思わないが、走ることを頑なに拒み続けるからには何か理由があるのだろう。いつもからかわれている仕返しに、ちょっとした嫌がらせをしたい。尾栗と角松は目を輝かせて同意した。三人は企みを実行に移すべく、行動を開始した。
「如月ー!大変ッ」
救護室の手伝いを終え、矢吹とのんびりお茶をしている如月の元へ角松が駆け込んできた。真剣な顔で息を切らせている角松にすわ急患かと矢吹が腰を浮かせる。
「どうした、誰か怪我でもしたのか」
「リレーのアンカーだった田中先生、腹痛で走れないって!」
田中先生は小学校の古株で、体力自慢の男性教師だ。毎年リレーのアンカーに選ばれている、赤組のエースである。子供と一緒になってはしゃぐので、授業での怪我が多いのが玉に瑕。
「腹痛?」
赤組の陣地に目をやると、なぜか赤組の主要メンバーが救護室を見ていた。矢吹と如月は次の角松のせりふを聞いて、田中先生の腹痛が赤組によるまさしく真っ赤な嘘であると見抜いた。
「だから如月、代わりにアンカーで走ってくれ!」
と、そこへ腹を押さえ肩を借りた田中先生が登場。芸が細かいが、すみません如月さん頼まれてくださいという声にはあきらかな笑いを含んでいる。演技は下手なようだ。
「代わりというのなら元気がありあまっている中学生に走ってもらうほうがいいでしょう」
如月はにべもなかった。そう言うと何かまくしたてようとしている角松をチラリと見て(その瞳は非常に冷たかった)、頑張れ、と心にもない励ましを送ってみせた。角松はこれはばれてると直感したが、後には引けない。やや頬を引き攣らせて如月の説得にかかった。
「いや、俺はもう5種目に登録してるから……」
参加者は最低でも1種目、最大で5種目に出場できるというのがルールである。如月のようにエントリーしていない者が飛び入りで参加することは、稀ではあるが認められていた。盛り上がってくれば自分も参加したいと思う、血の気の多い連中はどこにでもいるのだ。
「なあお願いっ。このままじゃ赤組負けちゃうんだ、リレーで挽回するしかないんだって!」
ぱん、と両手を合わせて拝んでみても如月の頑なな態度は変わらない。いや、如月が勝つと信じて疑わない角松に、ほんの少しではあるが困ったように小首を傾げた。もう一押し。長年の付き合いから如月が揺れていることを見抜いた角松は、切り札をだした。
「走ってくれたらなんでも言うこときくからっ!」
伝家の宝刀は如月にも有効だった。相手を信じているからこそ言えるせりふに、如月は目を細めて角松を見て、それからごくりと息を飲んだ赤組メンバーに目をやり、仕方がないといわんばかりに重い腰をあげた。
「エントリーの変更をしてこい」
「…うん!」
やったー、と駆け出していく角松に、如月はえっちらおっちらついていった。メンバー変更の意外すぎる人物に、本部にざわ…ざわ…と驚きが広がる。
リレーは運動会の花形競技。一発逆転も狙える最終種目でもあり当然人気が高かった。弁当もおやつも食べたし出場も終えて暇になった連中が応援に集まってくる。
「…如月くんが走るのは、久しぶりだ」
なぜかちゃっかりと赤組にやってきた矢吹がどこか笑いを堪えている顔をして言った。どういうことだ。自分の知らない如月の過去を知っている矢吹への嫉妬からむかっ腹たてた角松が噛み付くより早く、そうだなあと同意する声が赤組からあがった。皆、子供の頃からちいさな海辺の町に住んでいて、子供の頃から如月を知っているお年寄りたちだ。
「どういうこと?」
「彼が走るのを嫌いになった理由は、ちょっとした伝説なんだ」
いつも如月を呼び捨てにする矢吹が彼を「如月くん」と言ったのが気になった。公私を区別しているということだろうか。周囲の誰一人として矢吹が如月にヨコシマなことをしていると知らないのが角松には不思議であり、腹立たしかった。
「伝説?」
最終競技に赤も白もない。如月の応援にかけつけた親友の尾栗と菊池が何も知らずに矢吹にたずねた。矢吹はちらりと角松を見下ろして語り始めた。
「如月くんが中一の頃だったかな、駅伝のランナーに選ばれたことがあったんだ」
如月克己は子供の頃から頭が良く、ついでに運動神経も群を抜いていた。天は二物を与えずというが、たいていの人から羨ましがられる如月にも与えられていないものがあった。顔面による感情表現と、他人に対する気配りである。大人になった今でこそだいぶましになっているが、子供の頃はまだ経験が浅く、自分の正しさを曲げない頑固さがあった。適度に手を抜く、ということができなかったのである。
陸上部員よりも早く走る如月に、陸上部の顧問は熱心に如月を口説いていたが、その頃からずぼらでめんどくさがりの如月はあまり走りに興味がなかった。嫌いというほどではないが、どうしても好きにはなれない。その面白さがわからない競技。それが陸上だった。
県主催の駅伝大会のための地区予選に、と勧誘されたときも、如月は実にそっけなく拒否をした。如月に一顧だにされなかった陸上部顧問は、しかしあきらめなかった。たかが県大会のための地区予選だが、記録は残るのである。ここで良いタイムをだせば、年末年始にある全国大会に選出されるかもしれない。そうなれば陸上競技会からの注目も集まるし、雑誌や新聞からの取材もくるだろう。否応なしに如月を陸上界に取り込める絶好の機会であった。目の前にある素晴らしい才能を埋もれさせてたまるものか。拒否されればされるだけ、顧問は燃え上がった。彼は言った。
「区間新記録をだしたら、ハワイ旅行へ連れて行ってあげる、と約束したんだ」
「えっ?」
尾栗と菊池が反射的に角松を見た。なんだかどこかで聞いたことのある展開だ。
「その頃はまだ海外旅行なんて高嶺の花で、ハワイは憧れだった。如月くんも当然ながら行ったことがなかったから、とうとうその話に乗ったんだ」
やるとなったら徹底的にやるのが如月克己である。その日から練習に励み、そして当日彼は本当に区間新記録をたたき出した。なんにつけパッとしないちいさな海辺の町から期待の新星現る。学校関係者はもちろんのことながら、陸上関係者も驚いた。
一方で、慌てたのが陸上部の顧問だ。
「まさか本当に区間新をだすとは思わなかったからこその口約束だったんだ。そのための貯金なんかしていなかったし、如月を連れて行くとなればその保護者も当然必要になる。そうなれば、どうしてそこまでしなくてはならないのかと、自分の家族からの苦情がくるのも間違いなかった」
彼は如月に対し、あれはその場の勢いだからと約束を反故にした。たしかに約束は交わしたが正式な契約書があるわけではない。如月が出場することに驚いた彼の祖父や友人たちはその理由を知っていたが、それだけだ。この場合、約束を破っても仕方がないと納得してくれるだろう。ちなみに法的には顧問は交わした約束を守らなくてはならない。たとえ口約束であろうとも如月はそのために努力し、結果をだしたのである。しかし、あいにくと中学生の如月は法律に詳しくなかった。大人の都合を出されてしまうとそれを受け入れるしかなかったのである。
「それで、如月は?」
あの如月がそんな言いわけで納得するとは思えない。矢吹は重々しくうなずき、ため息を吐いた。
「もちろん。報復にでた」
もとはといえば出るつもりのなかった大会である。約束をなかったことにされた如月は完璧にやる気をなくした。高まる期待の中でエントリーされた県の駅伝大会や、陸上競技会への出場をあっさり拒否したのである。陸上部員でもない自分がどうして駅伝に出ることになったのか、理由もつけて。
「先生が約束をなかったことにしたのなら、もちろん僕の出場記録もなかったことになりますよね。如月はそう言って、期待も注目も放り出したんだ。そりゃあ大騒ぎになった」
陸上に力を入れていた高校からの内々ではあるが声もかかっていただけに、落胆は大きかった。金の卵、オリンピックも夢ではないとまで言われた才能。それを開花させるどころかヘソまげて蕾が開かない状態にしてしまった陸上部の顧問に、当然のことながら批難が集中した。
「その人はどうなったんですか?」
まったくもって如月らしいが、その場の勢いでウマイ事言って勧誘したのは角松も同じである。それに一枚かんでいる菊池はやや青褪めながら結末をうながした。如月が本気で怒ったところを見たことがないだけに、聞くのは正直怖ろしい。
「一家そろってある日いなくなった」
「………、夜逃げ?」
「そうだ。あの頃は如月の爺さんが健在だった。この町であの爺さんを怒らせたらやっていけなくなる。まぁ…今の如月も似たようなものだが」
「…………」
三人は押し黙った。周囲の年寄りたちが笑いながらあったあったと昔を懐かしんで笑っているが、それどころではない。顧問の先生はハワイ旅行だったが、角松はなんでも言うこときくと約束したのである。如月が無理難題を要求してくるとは考えにくいが、だが確実に、とんでもないことを言ってくるだろう。だてに長年一緒に暮らしているわけではない角松だ。如月克己は遊ぶとなったらとことん遊ぶ性格であることを知り尽くしていた。
「…………」
気の毒に、といわんばかりの矢吹の眼差しがやさしいと、角松は彼に対してはじめての感想を抱いた。
『それでは本日の最終種目、2000メートルリレーです』
アナウンス係りの女性教師の声がスピーカーから流れた。
グラウンドは4レーンで、赤白二組ずつが出場する。最初に走るのは5歳以下の子供たちだ。50メートルをてちてちと可愛らしく全力で走ってくる。赤組の、如月のチームの子供が転んだ。頑張れ、と周囲からの励ましをうけて泣き出しそうな顔をして再び走り出す。最下位でバトンを受け取ったのは小学生だった。細い手足を振り絞るようにして駆け出していく。しだいにに追いついていく背中に、わぁっと観客が歓声をあげた。ひとつだけ順位をあげて、中学生にバトンが渡る。しかし、足に自信があるものが参加しているだけあって、距離は縮まらなかった。むしろ広がっていく。コースにたった如月はぼんやりと赤白の競争を見ていた。隣にいる白組のアンカーが早く、と叫んで如月にアピールしているが、彼は思い切り無視している。
タッチの差で白組が早かった。悔しそうな顔をした中学生が切れ切れの息の中「すみません」と言ったが、バトンを受け取った如月にはもはや聞こえていなかった。
わぁっと赤組が歓声をあげた。
如月は先を行く白組のアンカーを瞬く間に追い抜くと、次の獲物に取り掛かっていった。同じ赤組だが今のところトップは白組なので妥協している場合ではない。驚いた顔をしている赤組アンカーが粘る隙さえみせなかった。わきあがっていた赤組と、負けじと声をはりあげていた白組の声がしだいに萎んでいき、やがて静かになっていった。
角松は応援のために吸い込んでいた息を吐き出すことさえ忘れた。真剣な眼差しで疾風のごとく走る如月から目を放せない。風になびく黒髪、呼吸のためにうすく開かれたくちびる、猛禽類のように獰猛な瞳。大きなストライドを描いて前後運動している足は俊敏な肉食獣のようだ。走る姿がこんなにもうつくしいなんて、知らなかった。矢吹の話は嘘ではなかったと頭の片隅で思う。期待の新星だのオリンピック候補だの、昔話の華飾だろうと半信半疑だったのだ。
トップの白組を追い抜くとまったくスピードを落とさないまま如月はゴールインした。そのまま10メートルほど駆け抜けてからやっと止まる。一瞬静まり返ったグラウンドは、次には赤組の逆転勝利で歓喜にわいた。
角松はそれどころではなかった。心臓がどきどきと早鐘を打っている。如月が好きすぎて、言葉につまってしまう。惚れ直すというかまた君に恋してる状態だ。いままでよりも、深く。
しかし角松の感激はここまでだった。周囲に促がされて如月を祝うために正面に押し出された角松は、無表情かつ鋭い目つきの如月にぎくりと固まった。目の前の男がろくでもないことを考えていると見抜いたのである。如月のやつ、俺で遊ぶ気だ。それもとことん。角松の心臓は別の意味で早鐘を刻み始めた。
「き、如月っ、何にするか決めた?」
この場で言わせてしまおうというのは子供ならではの浅はかさだった。大勢の前でなら如月も迂闊なことを言うまいと思うのはある意味正しい。しかしその後を追及されるだろうことや、公言してしまうことで結局逃げ道を塞ぐことになるとまでは考えが回らなかった。
「ああ。…なんでもいいんだな?」
「俺でできる範囲だぞ」
とりあえず念押しをしておく。中学二年生の男子にできることなど限られているのだ。どちらかというとできないことのほうが多いだろう。如月はわかっているとうなずいた。
「そうだな…、一緒に風呂に入ってもらおうか」
「…………はっ?」
「え?」
「…風呂?」
真っ先に笑い出したのは矢吹だった。思いがけない言葉にぽかんとする子供たちをよそに、大人たちの忍び笑いがそこかしこから漏れてくる。
「な、なんだよそれっ!?」
ようやく言葉の意味を飲み込んだ角松が真っ赤になって叫んだ。あまりにも焦ったせいで、妙に甲高い擦れ声になってしまったのは仕方のないことだろう。
「大きくなってからは風呂はおろか抱っこもさせてくれなくなったじゃないか。たまにはいいだろう」
如月はけろりとした顔でやけに父親めいたことを言った。それどころではない角松は絶句し、金魚のように口をぱくぱくさせるだけだ。中学生にもなって父親と風呂に入る子供は滅多にいない。角松も例外ではなく、むしろ体の関係をもってからは積極的に避けるようになった。
あれはその場の勢い、言葉のアヤだから本気ではなかったのだとはとても言えない。そんなことを言ったが最後、どんな目にあわされるか想像もつかない。
「よ、洋介…」
隣りの親友が笑いと憐れみを微妙にミックスした顔で角松を見た。気の毒に、と書いてある。
「なんでもというのは嘘だなんて言わないよな?」
「わ、わかってるよっ」
ちいさかった角松が嘘をついたとき、如月はおしおきとして尻叩きをした。彼はやさしい男だが、しかし甘くはない。
風呂はいいとして変なことをするなよと確認したいところだが、周囲はまちがいなくいぶかしむだろう。変なことって何と問われても答えられるものではなかった。いや、変なことをされるのはいい。むしろ期待しているのも確かだ。けれども何もこんなところで言うことないじゃないか。そりゃ聞いたのは俺だけど。親友の目がむずがゆい。月曜日に学校へ行くのが憂鬱になってきた。とどめを刺すように、如月が言った。
「どこまで大きくなったのか、楽しみだ」
今度こそ爆笑が町内グラウンドに広がった。中学二年の発展途上の体の大きさなんて、気になるところはひとつしかない。女の子であれば問答無用で変態だが、幸い男の子の角松では単に拗ねたパパの発言としか聞こえなかった。如月克己も人の子か、という安堵と、大人になってゆく子供を持った者たちの共感が笑いとともに広がっていった。
角松はぷるぷると拳を握りしめて、叫んだ。
「も…っ、もう二度と如月に走らせないからな!!」
こうしてまた海辺のちいさな町に、伝説が語り継がれてゆくのであった。
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