くじらのワルツ
合宿の夜


 如月は自分とは違う時間を生きているのではないかと、角松洋介は思うことがある。
 中学校の制服を着た角松に、如月は「大きくなったな」と感慨深そうに言ったが、その顔と5歳の子供に手を差し伸べてくれた顔、同じ歳月を過ごしてきたのに彼はちっとも変わっていなかった。友達の父親の腹がたるんできたとかてっぺんが薄くなってきたという話を聞くにつれ、如月がまったく老いてこないのが角松には不思議だった。

「俺は如月さんが結婚しないことのほうが不思議だぜ」

 昼休み、そう言ったのは親友の尾栗だった。

「その前に浮いた噂のひとつもないことのほうが不自然じゃないか?」

 そう新たな疑問を出したのは、これも親友の菊池だった。
 二人の親友の素朴な疑問に、角松は意表をつかれた。

「結婚?如月が?」

 言われるまで考えもしなかったという顔の角松に、尾栗がにやにや笑った。

「パパが結婚なんて、絶対イヤ?」
「誰がパパだよ。でも、言われてみれば…アレ?」

 しかし思い返せば町内の顔役と呼ばれるお偉いさんが、何度か如月に縁談を持ちかけてきたことがあった。角松も幼かったし安定した居心地の良さにすっかり馴染んでいたので、それを壊すかもしれない第三者の侵入を拒んだ記憶がある。おかあさんもおとうさんもちゃんといるもん。おはかのなかにちゃんといる。おれ、きさらぎがいればいい。如月もまたそんな角松のことを一番に考えていたものだから、自分より私よりこの子を優先できるような女性でなければ結婚しませんと言い切っていた。

「そろそろ親ばなれしたほうがいいんじゃないか?」

 呆れたような菊池の言葉に角松は自分で思ったよりもショックをうけた。そうなのだろうか。如月と離れなくてはいけないのだろうかと思う。最近、といっても中学生になった頃から如月は角松にキスをしてこなくなった。外出することも増えてきている。

「如月のほうから離れていってるような気がする」

 俺が放っといても相手がみつかればさっさと結婚するだろう。あえて矢吹のことは無視し、強がって言った自分のセリフは、やはり自分で思っていたより重く心に圧し掛かった。

「それより週末大丈夫か聞いといてくれよ」

 週明けから学期末テストがはじまる。3人は合宿という名目で、週末如月の家にお泊まり会をする予定なのだ。



「合宿?」

 夕飯時に角松がきりだすと、如月は少し考えるそぶりをみせた。

「…だめか?」
「いや、何人来るんだ?」
「尾栗と菊池だよ。知ってるだろ」

 小学校からの親友で、しょっちゅう遊びに来ているが、泊まるのは今回がはじめてだった。二人ともわざわざ泊まりにこなくてもすむほど家が近いのだ。

「ああ、秋の味覚コンビか」
「秋の味覚って…」

 二人が聞いたら怒るだろうことをさらりと言って、如月は快諾してくれた。食べられないものがあったら教えてくれと言う。先ほど考え込んだのは、食べ盛りの男の子がはたしてどれだけ食べるのか、計算していたのだろう。
 如月は好きなことにはどれだけ時間や手間がかかっても平気だが、それ以外となると無頓着だった。料理は数多い家事のなかでも1、2を争う地位を占めている。曰く、美味いものを食うのが嫌いな人間はいない、だ。ちなみに嫌いなことをするときはさっさと終わらせたいという理由で本気を出すので、どれが好きでどれが嫌いかは本人に聞いてみなければわからない。
 週末、秋の味覚コンビを迎えた如月は、食わせ甲斐のあるやつが来たと(そうは見えないが)上機嫌だった。この日のために一番広い客間を掃除し、布団を干した。もちろん晩飯の支度もばっちりだ。

「こんばんは、お邪魔します」
「お邪魔しまーす」

 菊池と尾栗は手土産の他にお泊りセットと遊び道具を持参していた。テスト勉強するんじゃなかったのかなどと野暮なことは如月も言わない。子供の頃から顔を合わせて遊んでいる相手とはいえ夜通し過ごすとなればわくわくするものだ。

「いらっしゃい」
「よく来たな」

 如月の普段着は和服だ。今はその上に白い割烹着を着ていた。尾栗と菊池ははじめて見る思いがけない姿の如月に面食らった。妙に似合っている。

「どうぞ。上がってくれ」

 促がされるまま家に入ると、いい匂いが台所から漂ってきた。どうやら如月は夕飯作りに勤しんでいたらしい。

「き、如月さんっていつもああなのか?」
「なにが?」

 狼狽もあらわな菊池に角松は首をかしげた。

「着物は見慣れてるけど、割烹着って…」
「エプロンだと袖が汚れるんだって」
「…いい奥さんだな、洋介」

 パパじゃなくて、嫁さんだったのか。尾栗がからかったのに、角松はついムキになってしまった。

「な、なに言ってんだよっ。ほら、早く勉強しようぜ」

 たてまえとはいえテストが間近なのは嘘ではない。3人は如月が呼ぶまで客間で勉強をはじめた。

「…よし」

 ずらり食卓に並んだ料理を確認し、如月は満足気にうなずいた。

「三人とも、食事ができたぞ」

 本日のメニューは栗ご飯に菊のおひたし。丸ごとのフライドチキン、ミネストローネと、蒸し野菜のサラダだった。ドレッシングまで手作りである。デザートにはかぼちゃのプリン。好きなだけ食えとばかりにバケツサイズだった。
 やけに張り切っていたのは角松も知っていたが、鶏が丸ごと出てきたのには驚いた。栗ご飯と菊のおひたしはわざとだろう。チラリと秋の味覚コンビを見れば、複雑そうに笑っている。尾栗も菊池も、如月のこういう諧謔趣味に慣れていない。

「い、いただきます」
「…いただきます」
「はい。召し上がれ」
「いただきますっ」

 如月の期待どおり、子供たちの食欲は素晴らしかった。角松もよく食べるが如月はどちらかというと少食だ。二人ぶんの食事などたかが知れたもので、思い切り腕を振るう機会に如月は全力で挑んでいた。

「美味かった〜。如月さん、料理上手ですね」

 尾栗が腹をさすりながらその腕前を褒めた。如月はほうじ茶を淹れてやりながら「ありがとう」と言った。なんとなく、角松も鼻が高い。

「少し食休みしてから勉強しなさい。風呂は用意しておくから、区切りのいいところでな」
「うん。ありがとう」

 せっかくの合宿を邪魔するつもりのない如月は、後片付けを終えるとさっさと仕事部屋に引き上げてしまった。

「如月さんて、完璧だな」

 つくづくと感心したように菊池が言う。

「家事全般こなすし、料理は上手いし、物分りもいい。ちょっとできすぎなくらいだ」
「だからかえって女にもてないのかな」
「…………」

 女の話題を出されると角松は気まずくなる。昔、矢吹と如月がキスしているのを彼が忘れたことはない。相変わらず休診日になると医者は如月に会いに来ているようだった。ただ中学生になり帰宅が遅くなった角松と顔を合わせることが少なくなっただけだ。矢吹が来ていた時の如月はほんのわずかいつもとは違う雰囲気をまとっているようで、角松はどぎまぎしてしまう。
 男同士だから噂にならないのかとも思うが、この時代に同性愛者など特に珍しいことでもないだろう。狭い町内では火のないところであっても煙がでてくることはよくあるのに、あの二人について怪しむ人はどこにもいない。

「…如月、結婚する気ないんじゃないかな。ひとりでも生きていけそうだし」
「たしかに。あの人どこでもやってけそう」

 ひとしきり笑って、3人は勉強を開始した。小学校では一学年一クラスでずっと一緒にいられたが、中学校は他の学区の子もいるので一学年三クラスになってしまった。おかげで三人とも、クラスがばらばらだ。それは同じ学区の子供たちでクラスを作ってしまうのは何かとよくないという大人の配慮なのだが子供たちはそんな事情など知らなかった。成績順で決められるというまことしやかな噂を信じている。二年生こそは同じクラスになろうと3人は誓い合っていた。ちなみに三人の中で一番頭が良いのは菊池だが、要領のいい角松はミスをしないため成績では菊池を上回っている。こういうところは如月のしつけの賜物だろう。尾栗はというと、好きな科目なら一番になれるのだが嫌いな科目はてんでダメだった。極端すぎてかえって平均値が低い。
 10時をすぎると、さすがに疲れてきた。

「もーだめだー。風呂に入って遊ぼうぜー」

 だらりとテーブルにつっぷした尾栗が真っ先に音をあげた。角松と菊池も賛成する。もともと勉強≦遊びの合宿だ。
 3人順番に風呂に入ると、テレビのある部屋でごろごろしはじめた。週末特有の一週間のまとめニュースがテレビに流れている。如月はまだ部屋に籠もっていた。

「…如月さん、早く寝てくれないかな」
「なんでだ?」

 尾栗が妙にこそこそと鞄から取り出したのは、アダルトDVDだった。

「な…っ」
「ちょっ、康平!さすがにマズイだろそれ!」

 絶句した菊池と慌てた角松を、尾栗はにんまりと笑って制した。18歳未満禁止のDVDを彼がどこから持ってきたかというと父親の秘密コレクションからだ。母親にもナイショの隠し棚からこっそり拝借してきたのだと自慢げに言ってのける。

「いやー、やっぱ合宿のお楽しみといえばコレでしょ」

 それでそわそわしていたのか。角松と菊池は脱力した。もちろん二人とも興味はある。大人がどういうことをしているのか知りたいし、それがエッチなことなら尚更だ。
 如月が仕事部屋に籠もっている時は当分でてこない。一緒に暮らしているものの言い分に安心した尾栗がDVDをデッキにセットした。3人揃ってテレビの前に正座する。

「…何をしている」

 固唾をのんで見守っていた3人は、突如として背後から現れた如月に文字通り飛び上がった。あっと止める間もなくいかにもオープニングが始まり、猥褻きわまりないタイトルが画面にバーンと映し出された。

「…………」

 如月は黙ってそれを見ていたが、恐縮している3人に何事もなかったように訊いてきた。

「夜食を作るが、食うか?」

 スルー!?大人の対応をされると余計に恥ずかしくなる。角松にいたっては青褪めていた。テレビの中では起承転結を無視したドラマが進行し、やたら胸の大きな女優があんあん言っている。

「……食べます…」

 ようやくのことで回答すると、如月は台所に行きしばらくして戻ってきた。手にはさっきの鶏ガラでだしをとったスープと、栗ご飯のおにぎり。
 叱られなかったことに調子にのった尾栗が、余計なことを言った。

「如月さんは、こーゆーの見ないんですか?」

 あほな質問に、如月は笑うこともせずにさらりと答えた。

「見ない。言っておくが、見るとやるとでは大違いだ。楽しむだけならともかく、参考にはしないことだ」

 とんでもないアドバイスに、お子様3人の想像力がパンクしたのは、いうまでもなかった。

からかわれる秋の味覚コンビ。大人のお勉強ですよ。