くじらのワルツ

光のくじら

 角松を出入り禁止にしたため、如月が作業場に行くのは彼が学校に行っている時間や遊びに出ている時間、それと眠った後だけになってしまった。彼の本業はプログラマーで、自宅のパソコンで仕事ができるのでその点での苦労はないが、角松の遊びにつきあったり勉強をみたりと家事以外の時間が増えたため作業時間はそのぶん減っている。ガラス細工は単なる趣味に過ぎないが、雑誌にとりあげられるなどして注文が増え、金になるならと如月も受け付けている。くじらが日の目を見るには思っていたより時間がかかってしまった。
 この町で唯一の医者である矢吹も、如月のガラス細工を待っている客のひとりだ。まだかまだかと言いながら当然の顔をして家におしかけてくる。彼は相変わらず角松にいい顔をしない。ちいさな町で子供は貴重だと概ね住民たちに歓迎されていた角松も、矢吹が苦手だった。だいたい如月にべたべたとまとわりつくのが気に入らない。

「まったく、大人気ない」

 矢吹に対して如月は遠慮をしないし、矢吹もまた如月には遠慮がなかった。すまないねと口だけは言う。

「ザクロなんて注文するからだ。赤系色のガラスがめったに流れてこないのは知っているだろう」
「口実だよ。この家に来るね」
「なら自業自得だ。角松さんにあたるのはやめてくれ」

 角松との生活は、如月が想像していたものよりずっと楽しかった。子供がいるのがこんなに良いものだとは、正直なところ思っていなかったのだ。角松は如月の予想外を行く。いつのまにか、生まれた時からこの町に住んでいたかのように友達を作っていた。次に彼が何をしでかしてくれるのか、楽しみでしかたがなかった。

「…君がずっと独身でいるのは、私のためだと思っていたんだがね」

 うぬぼれるなと如月が反論しようと口を開きかけた時、「ただいま」と元気な声で角松が帰ってきた。



 ランドセルを下ろした角松は如月の出迎えがないことにがっかりした。居間に入ると如月が留守の時は必ずあるおやつと書き置きがなく、彼が在宅していることがわかる。それなのに出てこないのは、仕事をしているか作業場でガラス細工を作っているかのどちらかだ。

「如月?」

 仕事部屋をのぞいても彼の姿はなく、角松のがっかりは大きくなる。作業部屋には入れないのだ。角松は律義に言いつけを守っていた。如月は何事も角松を最優先してくれたが、これだけは別だった。待つことも大事だと言って、くじらの進捗状況を教えてもくれない。いくらなんでも遅すぎると角松は思う。

「…………」

 本当に作っているのだろうか。不満が膨れ上がり、過去何度も湧き上がってきた疑問が苛立ちを生む。ぐうと鳴る腹の虫に背中を押されるように、角松の足は作業部屋に向かっていた。外からでも声をかけて、おやつを作ってもらおう。
 作業部屋のドアの前に立つと、会話が聞こえてきた。矢吹だとわかると角松の機嫌は急降下する。邪魔してやろうとそっとドアを、指一本ほど開けた。さきほどよりもはっきりと、二人の会話が聞こえてきた。

「だいたい、どうして君があの子をひきとるはめになったんだ。親戚でもないくせに」
「好きな人と一緒に暮らしたいと思うのは自然だと思うが」

 好き。はっきりと宣言されて角松の胸はときめいた。ざまあみろ矢吹。そっと覗き込んで、角松は息を飲んだ。
 矢吹が如月の肩を抱いている。邪魔をすることも忘れて角松は凍りついた。近すぎる。どうして如月は彼を払いのけないのか。早く離れろと角松が念じているのとは逆に、二人の距離は近づいていく。

「彼は男だ」
「俺も男だ」
「歳が離れすぎている」
「愛に歳の差など関係ない。大人になってしまえばそれは些細なことだ」

 そもそも如月と矢吹だって歳が違いすぎているのだ、矢吹に言う資格はなかった。医者は苦々しく眉をしかめた。

「なぜ、そこまで」

 嫉妬に歪んだ矢吹を如月は不思議そうに見た。ガラスの欠片を選別する手を止める。

「誰かを好きになるのに理由がいるのか?ただ、好きなんだ」

 肩を掴んでいた矢吹の手に力が入り、痛みに如月は身を捩った。

(えっ?)

 矢吹の顔が如月と重なる。キスだ。それはわかった。最近はずっとされていないが、まだ小学校に上がる前にはしょちゅう頬や額に如月はキスをしてくれた。なんだか自分が子供っぽく思えるし、なにより照れくさいため、もうするなと拒んだのは角松のほうだ。
 隙間から覗き見える如月は目を閉じている。手から零れ落ちたガラスが床にあたり、軽やかな音をたてた。

(!!)

 その拍子に金縛りがとけた角松が、ドアに手をついてしまった。がたっと鳴ったドアに我に返った二人の目が集中する。角松が逃げ出すより早く、矢吹がドアを開いた。

「…角松さん」

 ほんのりと目元を赤くした如月が呼んだ。そのくちびるが艶やかに濡れているようで角松はうつむいてしまう。大人の色香を漂わせる如月をまともに見ることができなかった。ヘンな気分になりそうだ。

「ご、ごめんなさい」

 しょぼんとしながら謝罪する角松に、矢吹がため息をついた。その横に立って、如月が言った。

「それは、何に対する謝罪だ?」

 やや硬い如月の態度に、角松ははっとして顔をあげたが、またすぐにうつむいた。如月に怒られることはめったにないだけに、ショックだった。

「この部屋を…覗き見したこと」
「そうだな。来るなと言ってあったはずだ」
「く、くじらは見てないよっ」

 慌てて弁明するが、それでは二人が何をしていたのかを見ていたのだと告白するのと同じだ。言ってしまってから気づいた角松がいよいよ真っ赤になる。

「…せっかく、驚かせようと思っていたのに」

 仕方なさそうに言って、如月はドアを全開にした。二人がいた作業机のさらに奥にある、一番大きな作業台に角松のためのくじらが鎮座していた。

「――……」

 ぽかんと口を開けてくじらに魅入っている角松に、矢吹も仕方なさそうに肩をすくめた。角松が帰宅したことをわかっていながら、この部屋なら大丈夫だろうと油断していた矢吹も悪いのだ。

「行ってもいい?」
「どうぞ」

 とりあえず許可を得てから入室する。角松はまっすぐにくじらに向かい、手を伸ばした。が、すぐに引っ込めてしまう。触らないように慎重に、そっと手をかざした。

「…すごい、綺麗」

 くじらの名にふさわしく、一メートルはあろうかというガラスのくじらは、あとほんの五センチほどが未完成のままだった。

「この際だ。完成させてしまおう。手伝ってくれるな?」
「うんっ」

 あらかじめ作られた既製品のパズルなどとは違い、残り五センチを埋めるガラスを選別するのは苦労だった。角度を変え、他の欠片と組み合うかを考えながらあてはめていく。矢吹を警戒してか、角松はまるでみせつけるように如月にぴったりと寄り添った。そういえば、なぜ二人がキスをしていたのか聞いていない。悔しかった。
 チラリと矢吹を睨みつけると、ムッとした矢吹も睨み返してきた。

「ねえ、なんで先生が如月とキスしてたんだ?」
「子供は知らなくていい」

 いかにもそっけない矢吹のごまかしに、角松はカッとなった。

「だってズルイ!おれ、もう子供じゃないもん!子供じゃないから如月とキスするの、おれ我慢してたのにっ!」

 とたん、ぷっと如月が吹き出した。肩を震わせている如月に、角松は憤慨する。

「なんだ…妬いてくれたのか」
「だって……」

 小学生になり同じ年頃の友達ができると、よその家庭の話も耳に入ってくる。どうも他の子は、もうキスをしないしお風呂も卒業していると知ると、自分がとても子供っぽいことをしているような気分になったのだ。如月を嫌いになったのではない。今でもキスをして欲しいし、一緒に寝て欲しいと思っている。けれど一度芽生えた自尊心や自立心が、角松が子供のままでいることを許さなかった。

「…我慢することなかったのに。もう子供じゃないなんて、つまらんことを言わないでくれ」

 ちゅ、ちゅ、と顔中にキスの雨を降らせて嬉しそうな如月に、角松はくすぐったいやら嬉しいやら恥ずかしいやらで一杯一杯だ。なんだかうまいことはぐらかされたような気がしなくもないが、どうでも良くなってしまった。



 光を泳ぐ、ガラスのくじら。
 完成したそれを矢吹と如月の二人がかりで角松の部屋に運び入れ、日の当たる窓辺に置く。ガラスが夕陽を反射してまろやかな光が交錯しながら部屋を彩る。きらきらとした色彩を角松は両手を広げて浴びた。見慣れた部屋がまるで違って見えた。

「如月、ありがとう!」

 角松のはしゃぎように、如月もまんざらでもないようだ。ああ、とうなずき、そしてまた角松にキスをした。
 大人だからこそするキスもあると、角松が知るのはもっと後になってからだが、この夜、彼はまた一歩大人への階段を上った。

「………?」

 夜半、角松はぼんやりと目を覚ました。なにか重苦しい夢を見ていた気がする。夜になり点けていたはずのくじらのランプはいつのまには消えていた。如月が消してくれたのだろう。
 寝返りを打とうとして、角松はようやく眠りを妨げたものの正体を知った。股間が生温かく濡れている。

「…っ?」

 まさかおねしょかと飛び起きて、下着を覗き込む。案じていた事態ではないことはすぐにわかったが、別のものが、そこから『出て』いた。

「ど、どうして…」

 呆然と青褪める。もうしばらく子供のままでと言った如月の顔が脳裏をよぎった。ただ無邪気でいられた幼年期の終わり。心が追いつかないまま、体だけが確かな成長を遂げていた。

翌朝はお赤飯でした。