海辺のちいさな町にある如月の家は、賃貸マンション暮らしだった角松でなくとも目を見張るほどの『お屋敷』だった。
新幹線とローカル線を乗り継ぐこと半日。疲れただろうと一休みしているところへ、来客があった。
「やっと、帰ってきたか」
「先生。留守中ありがとうございました」
「かまわんよ。冷蔵庫の中身はありがたくいただいた。…と、その子が?」
「そうだ。角松さん、こちらは矢吹さんだ。この町で唯一の医者だ」
「はじめまして」
「よろしく」
促がされて挨拶をしたものの、矢吹からはあまり歓迎されていないようだった。彼はすぐに如月に向き直り、楽しそうに会話をはじめた。慣れているのか如月はいかにも適当に受け流し、矢吹はそう長居することなく帰っていった。会話の合間にも如月は角松を気づかう様子を見せ、そんな如月に矢吹はすこしだけ不満そうな顔をしていた。なんとなくだが、角松はこいつとは仲良くしないほうがよさそうだと思う。というか、仲良くしたくない。
「家を案内するが、疲れているなら夕飯を先にしようか?」
「だいじょうぶ」
広い家なのに使用人をおいていない如月家はそれでも綺麗だった。角松の部屋は南向きで日当たり良好の和室。窓から見える海に角松は歓声をあげた。
「あれが海!?」
「そうだ。…海ははじめてなのか?」
「うん」
「なら、明日行ってみよう。あの辺一帯はうちの土地だ」
そう言って如月は窓の外を指した。窓から見える景色一帯が如月のものだと知り、角松はその凄さはわからなかったものの素直に驚いた。
「如月って、かねもち?おおくらしょーだったのか?」
「大蔵省?」
子供の発想はどこからくるのだろう。不動産屋よりもすごいといいたいのか、単に金持ち=大蔵省となったのか。どちらにせよイメージとしてはあまり綺麗ではない。如月は真剣に考えかけたが中止した。どうせ角松に説明をしてもらっても、自分には5歳児の思考などわかるはずがないのだ。
それから如月の部屋、トイレ、台所、風呂場、居間、客間、仏間と案内される。広々とした部屋に角松は歓声をあげっぱなしで駆け回った。まだ角松家の仏壇がないためがらんとしている仏間には、『お屋敷』にふさわしくやたら大きく豪華な如月家の仏壇が異色を放っていた。
「角松さんの仏壇は、うちの真向かいに置いてやろう。…今頃じいさんたちが酒盛りでもしているかもしれんな」
「いっしょじゃだめなのか?」
こんなに大きなものがあるのだからまとめてしまえばいいのではと角松は言ったが、如月はそれはよくないと首を振った。
「うちと角松家がひとつになればそれでいいだろうが、まだだからな。こういうのはきちんとしておいたほうがいい」
「ふうん。そういうもの?」
「そういうものだ」
角松にはよくわからないことだったが、如月が神妙に言うのでひとまずうなずいておく。如月の仏壇に飾ってある如月の祖父の写真をじぃっと見つめ、はじめましてかどまつようすけです、と挨拶をした。
ひととおり見回ると暇になった。広い庭に角松は遊びに行きたかったが、まず荷物を片付けようと如月が言った。最低限の身の回り品は持ってきたのだ。
夕飯は出前の蕎麦を食べた。風呂をすませ、寝る時間になる頃には移動の疲れと知らない場所での緊張で、角松はすでにうとうとしはじめていた。
「一人で寝られるか?」
「へーき…」
強がりを言ったが広い和室に横になっていると、不安が急激に膨らんできた。まるで悪い夢の中にでもいるように心臓が早鐘を打つ。眠らなきゃ、と角松は布団に潜り込んだが、かえって目が冴えてきてしまった。疲れているし眠いのに、恐くて眠れそうにない。かといって今更如月のところに行って一緒に寝て欲しいと頼むのはためらわれた。迷惑をかけて嫌われたらどうしよう。もう、ここより他に行ける所はないのだ。もうあのマンションには帰れない。
「………っ」
じわ、と涙が滲んできた。ツキンと鼻の奥が熱くなる。慌てて堪え、体を丸めた角松に、如月のやさしい声が降ってきた。
「…角松さん、本当に――」
大丈夫ではない子供の姿を見つけ、如月はそっと歩み寄った。角松を抱き起こし、頬に繰り返しキスをする。背中をぽんぽんと叩いているうちに、角松の緊張がとけてきた。見つめてきた幼い顔の目元が赤くなっている。
「一緒に寝るか」
今度は角松も素直にうなずいた。
朝、如月はまず浜辺を散歩するのが日課になっている。浜に流れ着いたいろんなものを拾い集めてくるのだ。この砂浜も彼のものであるため、如月にとっては家の中を掃除しているのと同じことだ。ゴミは当然捨てるが、ごくまれに珍しいものがあるという。
「部屋にガラス細工のランプがあっただろう、あれはこういうカケラを集めて作ったんだ」
確かに如月の家のあちこちにガラス細工のランプが置いてあった。
「如月がつくったのか?」
そうだとうなずいて如月は淡い緑色のガラス片を拾った。海の中で波や砂にもまれるうちに細かな傷がつくが、角もとれるためすべらかになっている。朝日にかざすと緑色が透けて光った。角松もひとつ見つけて拾う。こんなものが形あるものになるのが不思議だった。
「如月って、すごいんだな」
素直な賞賛に、如月も嬉しかったらしい、ほんのわずかに頬を染めた。はじめて見る如月の感情表現(といってもすぐに引っ込んでしまったが)に、角松はなぜかドキリとする。
「ありがとう」
興味があるならと作業場にしている部屋に案内され、角松は唖然と立ち尽くした。
他の部屋はどこも綺麗に掃除されていたのに、ここはガラクタの山だ。大きな作業机にはガラスの欠片や貝殻が積まれ、作りかけの何かが置かれている。
「これ、なんだ?」
「蛙だ」
作りかけの何かは、どうやら蛙になるらしい。棚には初期の作品だろう、丸や四角の、比較的簡単な形の物がたくさん置かれていた。
如月がカーテンを引いて部屋を暗くし、ランプを点けた。
「わ……っ」
万華鏡のように色彩の光が交錯する。角松はその光を両手ですくってみた。自分の手のひらや顔、爪先さえも染まっている。
「うみのなかにいるみたいだ」
角松の感想に如月は嬉しくなる。表情こそ変わらないが、如月が喜んでいることは角松にもわかった。なぜなら彼はこう言ってくれたのだ。
「角松さんに、何か作ってやろう。リクエストはあるか?」
自分のために作ってくれる。角松は顔を輝かせた。自分のための光の海。
「くじら、おっきなくじらがいい!」
「わかった。楽しみにしていろ」
角松は喜んでそうした。だが代わりに作業場への出入りが禁止されてしまったのにはがっかりした。完成するまでは秘密だと、悪巧みをするように言われてしまうと不満よりも期待のほうが大きくなる。しぶしぶだが角松は言いつけを守ることにした。
「さあ、朝食にしよう」
如月に引き取られてはじめての朝。くじらが完成するまで3年もかかるとは思わなかった日のことだった。
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