くじらのワルツ
話せば長いことながら

 如月克己と角松洋介の出会いは、角松の両親の葬儀の場であった。
 たった5歳の一人息子を残しての事故死はさぞや無念だっただろうと、多くの人が参列していた。2人の人柄もあって、泣きじゃくる子供をたくさんの人々が慰めていたが、ひと段落ついてさてこの子をどうしようという段になると、沈黙が訪れた。
 遺産といえば2人の死亡保険金くらいだが、問題はやはり本人だ。親戚だろうが友人だろうが、生きた人間を引き取るとなると現実の責任が重過ぎる。それぞれに生活基盤ができあがっており、壊したくないと誰もが思った。悲劇の子供といってもこうなればお荷物と同義に成り果てる。角松は周囲の沈黙の意味を感じ取り、不安げに大人たちを見回した。

「…角松さん」

 やわらかな男の声に、角松の名字を持つ者たちが一斉に発言者を見た。
 整った顔だが透明な無表情の青年。親戚連中や故人の友人たちにも彼を見知った者はおらず、遠い親戚だという本人の説明があっただけだった。
 如月克己は複雑な複数の視線などおかまいなしで5歳児に歩み寄ると、腰を屈めて目線をあわせた。

「ウチに来ないか。あなたはじいさんに良く似ている」
「おじいちゃん?」
「ああ。ウチは海の近くの一軒家だ。俺は一人暮らしだし、不自由はないと思う」
「…うん。いく」

 お父さんにそっくりね、と言われることはあったが、祖父に似ていると言われたことはなかった。なぜこの時素直にうなずいてしまったのか、後々角松は不思議に思うのだが、もののはずみというか、直感であった。如月は無表情だが恐さはなく、やわらかく話しかけてくる声はどんな大人とも違っていた。ひと言で言うなら、安心したのだ。
 ちょっと、と周囲の大人、とりわけ女性陣から意義があがった。そんなに簡単に引き取ると言っても、ペットじゃないんだから。如月では若すぎると抗議する。親戚といっても初対面で、ほとんど無関係だった。詳しい事情など知らない角松はやっと現れた頼るべき人を失うのかと再び不安に襲われ、如月の手を掴んだ。ちいさな手を握り返し、如月が口を開いた。

「それなら、しばらくはこの家で角松さんと暮らします。様子を見て良いようでしたら私が引き取ります」

 ゆっくりとした口調には、有無を言わさない強さがあった。大人たちは顔を見合わせ、しぶしぶ同意した。それならあんたが引き取れと言われても困るのである。
 如月は角松に向き直ると、

「ウチはここから遠い、田舎町だ。友達やお世話になった人に、きちんとお別れの挨拶をしないとな」

 それに引越しの荷物をまとめなくてはならない。如月についていくということは、この家を出て行くということである。そのことに気づかされた角松は驚き、涙目になってしまう。両親との死別を味わった直後にまた生まれ育った家とも別れなくてはならないという現実は、5歳の子供にとって重過ぎる悲しみだった。
 ひっく、と肩をふるわせてしゃくりあげた角松の背中を撫でてやりながら、如月が言った。

「たくさん泣いていい。泣いて、心に刻んでおくんだ」





 泣きつかれて眠った翌朝はすごかった。
 心配だからと親戚のおばさん連中が強引に泊り込んだし、近所のおばさんたちもやってきてわいわいがやがやと朝食を作っていたのだ。如月はというと女に文句を言う愚を理解しているのか大人しくこき使われていた。
 それでも角松の気配に真っ先に気づいたのは如月だった。

「角松さん、おはようございます」
「おはよう、ございます」

 詰め掛けた女性陣も次々と挨拶をしてくる。目を白黒させている角松にさあさあ顔を洗って着替えてと口々に促がした。圧倒された角松は促がされるままになるしかなかった。
 おばさんたちが競って作りあったせいで、むやみに豪華な朝食を摂る。家の用事を済ませたらまた来るからと一方的に約束をして、ひとまず嵐は去っていった。

「はあ…」

 つい漏れてしまったため息に、如月がぽんと頭を撫でた。見上げた彼の顔にはやはりこれといった表情はないが、やはり不思議と安心した。
 形見分けという話は難しすぎて角松にはよくわからなかった。再びやって来た親戚たちは、ひと段落したばかりの角松に向かい、「思い出に」と話を持ちかけてきたのだ。保護者を名乗り出ている如月はあえて無視されている。勝手にタンスを開けて取り出した各々のお気に入りたちを前に、角松は困惑するしかなかった。それは両親のものであり、死んだからといってほいほいあげられるものでもない。まるで決定事項のように迫ってくる親戚たちの顔に浮かぶ厭らしい顔が恐かった。
 5歳の子供に物の価値がわかるはずもない。戸惑うばかりの角松は如月に縋りついた。

「ご両親が大切にしていたものはどれだかわかるか?」
「わかんない」

 力なく首を振る角松に「フム」とうなずき、如月は不満も露わな親戚連中に提案した。

「本人がこうですので、ひとまずリストアップしてみてはどうでしょう。それから皆様で話し合って決めてください」

 あんたはどうするんだと、妻に急かされた男が言った。

「私は一番大切なものをもらいますので」

 如月はそう答えると、角松の頭を撫でた。一番大切という言葉に角松の顔が照れくさそうに輝く。そう言われてしまうとまるで自分達が強欲であるような気分に捕らわれ、親戚たちは気まずげに俯いた。
 結局のところ、アルバムや日記といった極めて個人的なものを除き、角松の手元に残ったのは生活用品やガラクタばかりだった。もともとそう裕福ではなかったし、母親は貴金属の類にあまり興味がなく高価なものなどなかったのだ。嫁入り道具だった着物や冠婚葬祭用の真珠一式など、金目のものは目ざとい親戚たちが持って行ってしまった。
 タンスはおろか押入れの中身まで出され、家の中は雑然としている。色々ともめながら帰ってしまった親戚たちに、角松は呆然としていた。

「良かった。これは残ったな」

 引越しのついでだとダンボールに整理していた如月が見つけたのは、袋に入れただけの古い指輪だった。

「これは昔、ウチのひいじいさんが、角松さんのひいばあさんに渡したものだ」
「ひいばあちゃん?」

 箱にも入っていない、くすんだ黒真珠。ダイヤでも取り巻いていれば違っただろうが、ただ真珠がぽつんとあるだけの古臭いデザインの指輪などどうせ偽物だろうと誰も見向きもしなかったのだ。

「内側に名前が彫ってあるだろう。昔うちのひいじいさんが家宝の黒真珠の帯止めを、指輪に仕立て直したものなんだ」

 如月家と角松家は遠縁ということになっているが、実は違う。血の繋がりなど一切なかった。
 しかし血とはまた別の、強固な絆で結びついていたのだ。

「ひいじいさんの若い頃だから、江戸時代のことだ。如月家の跡取りだったひいじいさんと、角松家のひとり娘だったあなたのひいばあさんが恋をして、結婚の約束を交わしたんだ。だが、それは叶わなかった。如月家は金持ちだったが商人にすぎなかったし、角松家は零落したとはいえ武家だったから」
「それのどこがダメなんだ?」
「江戸時代は士農工商といって、商人の身分が一番低かった。だが現実には、金を持っているものが一番強いというのが常識だ。武家はそれが気に食わなかったし、商人にしてみればただ刀を差しているだけで威張り散らしている武家を毛嫌いする傾向にあった。江戸末期ともなればなおさらだ。まぁ、家の面子というやつだな」

 本人たちがどんなに愛し合っていても、当時の結婚は家同士の問題という時代である。二人ともそれはよくわかっていた。わかっていたから泣く泣く諦めるしかなかったのだ。
 そして2人は約束した。自分たちは駄目でもきっといつか。江戸時代の終焉が近づいてきていることは誰の目にもあきらかだった。自由な時代に生まれるであろう子供たちを、自分たちに代わって結婚させよう。今にして思えば時代錯誤もいいとこだし、本人たちの意思を生まれる前から無視しているあたり親となんら変わりはないのだが、そうでもしなければあきらめはつかなかった。きっといつか、ふたつの家がひとつになった時、この指輪を返してください。

「それから明治になり、両家には男子しか生まれず、約束は果たされなかった」

 それが祖父である。如月の祖父も角松の祖父も、親のロマンスを聞かされて育った。当然のことながらもしかしたら結婚していたかもしれない相手に対し興味を持つ。特に角松の祖父は指輪が家宝であると知っているだけにせめてこれだけでも返却したほうがいいだろうと、ある日如月家を尋ねたのだった。人生には何が起こるかわからないもので、初対面で二人は意気投合。どうせなら互いの子供たちを娶わせようとこれまた約束を交わしたのだ。

「ところが角松のじいさんは戦争にとられて結婚が遅れてな、ウチのほうは一番に女が生まれたんだが角松が結婚して子供を作っている間にさっさと結婚してしまったんだ」

 これが如月の母である。ようやくのことで角松家に男子が誕生すると、如月のじいさんもがんばってはみたがそう簡単に生まれてくるものでもない。結局この代でも結ばれなかった。

「で、いよいよ俺たちの出番になったというわけだ」

 出番といっても如月はとっくに成人しているし、角松にいたっては5歳である。おまけに男同士では今回もお流れだ。それなら如月の母がもう一人生めば話がまとまりそうに思えるが、あいにくと彼女にその気はない。物心ついてからその事を言われ続けていた彼女は、田舎を飛び出して行ってしまったのだ。反対に如月は祖父に懐き、頻繁に遊びに行っていたちいさな海辺の町にとうとう居ついてしまった。人生何が起こるかわからないものである。
 気の長い話に角松はついていけなかったが、指輪が本当は如月のものということは理解できた。

「えっと…じゃあこれをおれがかえせばいいんだよね」

 はい、と差し出した角松の手を、如月は指輪ごと包みこんだ。

「…これを返されたら、俺たちのつながりは本当になくなってしまう。せっかくここまできたんだ。これはあなたが大切に持っていて、いつか俺たちの子供か孫に託せばいい」

 いつかのその日。百年も続いてきた悲願だ。ここで断ち切ってしまってはご先祖様に申し訳ない。

「そうそう、この指輪だが、正真正銘のアンティークだから実はこれが一番高価だ。あの連中は見る目がないな」

 年季の入った指輪だが、江戸時代で丸い大真珠は大変珍しく貴重であった。家宝になるほどのものなのだ。アンティークとしての価値など如月にも角松にも興味はないが、如月が言ったとおり一番大切なものが角松のものになったのだった。




はじまり。