潜在的幼児性暴力癖
草加は角松と共に食事をとり、外へと出かけて行き、帰ってくれば話をする。
角松は耳をすませて話を聞いていた。
内容は世間話にすぎなかったが、ひとは話をしているうちに本音をまじえてしまうことがある。なにをどう捉えるべきか分析し、どう判断するか。身動きがとれない今、情報は多いほど良い。
そしてなにより、角松自身退屈がまぎれるという意味で喜んだ。角松が接触を許されている人間は草加と医者の二人だけ。もしひとりきりで閉じ込められていたら、発狂していたかもしれない。自己が自己たらしめるのは、自己に対する他者の反応だけだからだ。何の反応もない世界では、自分が生きているのか死んでいるのかの実感もつかめないだろう。人生には刺激が必要だ。草加に感謝する気にはなれないが、ありがたいのは確かだった。
今日も、草加はどこかへ出かけて行き、夜に帰ってきた。
寝台の背もたれに寄りかかり、足を投げ出した格好で座っている角松は、正直困惑している。草加の態度がまったくあどけないものであるからだった。かれは機嫌が良いというのを通り越して、はしゃいでいるように見えた。楽しそうなのは角松の足を折った日から変わらないが、どこか安心しているようにさえ思える。
この男はいったいなんなのか。
角松の困惑は、この態度が身に覚えのあるものだったから、なおさらだった。かつて子供の頃の角松洋介が、長期にわたる演習からようやく帰ってきた父親に同じように甘えた。そして父親の立場になってからは息子から自分がしたのと同じように甘えられていた。息子。甘い痛みをともなった――おかしな表現だが――未来の記憶。つまりこいつは、草加は、俺の息子になりたいと思っているのだろうか?まさか。角松は自嘲する。少なくとも俺は親父に性欲をおぼえたことはないぞ。もちろん草加は角松の子供でもなければ、子供扱いする歳でもないが。
「草加」
たわいもない話にひと区切りついたところで、角松は草加を呼んだ。はい、とまったく素直に草加は返事をした。角松の困惑は深くなる。本当にそうなのだろうか。
「……来い」
息子に言うようにおいで、とは言えなかった。ある意味実験だったし、草加を相手に甘い顔はできないことは身をもって知っている。知りすぎて厭になるほどだ。
草加は一瞬、呆けた顔をした。思いがけない要求にどうすべきかとっさに迷う。しかし体は命令に忠実に動いた。角松の、ではない。傍らに行くことを許された歓喜が突き動かした心が命ずるままに。
「なんですか」
慎重に、草加は角松の隣に腰掛けた。声はかすれてさえいた。角松が草加を肯定する発言をしたのはこれがはじめてだった。
自分で招いておきながら、角松はためらった。怒ったように睨みつけ、やがておずおずと草加の頬に手が伸びた。
かれは息子にそうしてやるように、草加を撫でた。頬を撫で、額を撫で、耳を撫で、頭を撫でた。草加は目を見開き、それからうっとりとした笑みを浮かべ、目蓋を閉じた。まるで従順な猫が飼い主の愛撫に甘え、喉を鳴らすように。かどまつさん。心地良さそうに草加は呼び、大きな手のひらに頬を摺り寄せた。
ああ、角松さん。草加はそうっと薄目を開けた。角松は手の動きとはかけはなれた表情をしていた。しかめっつらで、くちびるを引き結び、どうすべきか悩んでいる。だからこそ。あなただからこそ、わたしはあなたを求めるのだ。あなたはわたしを理解しようとしている。できることなら許し、愛してやりたいとさえ思っているだろう。しかしわたしが望んでいるのは努力して得られた結果としての愛ではない。愛さなくてはならないと思い込むのは危険だ。無理をすれば破綻する。わたしは、そう、たとえば無条件降伏のような愛が欲しいのだ。どこまでも無償で、無条件の愛。どこまでも許容し、決して揺るぐことのない、絶対的なもの。
あるいは角松が女性であったなら、草加の願いは叶えられたかもしれなかった。それは女性が本能的に持つ、母性に近いものであったからだ。母親が子供に与える類の愛情。
草加はかつて母からそれを受け取っていた。まったく無意識に、当然として受け止めていた。母もまた当然のこととして息子に与えた。腹を痛めて産んだ子供に与える愛情に迷いは存在しない。
しかし角松は違う。未来から来たうんぬんを草加は気にしていない。ただ、かれはどこまでも男だった。草加に組み敷かれ、喘がされていても、男であることに変わりはなかった。そして、軍人であった。軍人として、所属艦の副長としてあろうとしていた。かれの心はただ艦と乗員のみに向けられていた。当然だった。草加にもその程度のことはわかっている。わかっているからこそ、角松を手放さないのだ。どこのだれにもわたさない。その意味で草加は「みらい」を嫌いぬいていた。憎んでさえいるかもしれない。ただ、その性能と乗員の有能さは認めていた。その点では草加も軍人であった。そして、角松の家族に対しては、純粋に嫉妬していた。もはや再会の可能性などゼロにも等しいにも関わらず、角松が家族を捨てていないからだった。草加のもっとも望む種類の愛情を与えられる、角松自身がなによりそれを許している、唯一の人間。
草加ははじめての時とはうって変わって、実に丁寧に角松をあつかった。それこそ姫君の玉体を愛撫するように、行為そのものの乱暴さはさておき、臆病ですらあった。最上級の気遣いでもって、かれを抱いた。
「あ…っ、や………っ」
吐き出される声は意味をもたない。
角松はせつなげに眉を寄せ、潤みきった瞳を天井に向けていた。かすれた高い声をだしてしまったことを恥じて、歯をくいしばる。が、草加がちょっと腰を揺らしただけで、歓喜の声がもれた。
草加はそんな角松の痴態を、目を細めて満足そうにながめていた。自分の手で開花した体をさらに追い詰めていく。かれを受け入れた箇所はすでに吐き出された精に濡れ、やわらかく男を包み込んだ。ひくりと蠢き、蹂躙しているものを逆に追い詰め、解放されたいと訴える。
部屋には、耳にしたものが羞恥にいたたまれなくなるような、もしくはあからさまに嫌悪の表情をうかべてしまうような、いずれにせよ好奇心をくすぐられずにはいられない、淫らな音がリズムを刻んでいる。獣そのものの呼気で熱の籠もった部屋。
角松の表情は嫌悪と悦楽の間をいったりきたりしている。いまだにかれは草加との行為に慣れない。草加が意図を持って指を伸ばせば折られた足を除く体中で拒否をしめした。言葉でも訴えた。いやだ。やめろ。よせ。拒絶の言葉はやがて罵倒に変わる。変態。畜生。悪魔。草加は気にもとめない。そして最終的に拒絶は懇願のそれに変わり、意味をなさなくなる。やめてくれ。許して。誰か。助けて。あ、あ、あ。
もちろん角松の拒絶も嫌悪も本物だ。草加は二回目にかれを抱こうとした時に思い知らされた。男に犯されるのは苦痛以外のなにものでもないと。
二回目は、満州から移動して、角松の熱が下がりかけた頃だった。
角松は暴れた。もてる全ての力で暴れた。はじめての時にかれが草加から与えられたものは快楽とそれを上回る嫌悪と屈辱と、絶望だった。二度とごめんだ。草加は冷酷に見える笑みで角松をねじ伏せ、獣そのものの体勢でかれを貫こうとした。
異変は、その時に起こった。
角松は青褪め、背を丸めて手で口を押さえた。そして、寝台の上に嘔吐したのだった。さすがにこれには草加もやめざるを得なかった。そんなに嫌ですか。ため息交じりのどこか哀しげなセリフに、角松は嘔吐感で涙ぐんだ眼を向け、うなずいた。
原因は角松の熱がまた高くなっていたこと。極度の緊張と嫌悪がそれに拍車をかけていた。草加の行為は強姦以外のなにものでもなく、角松の精神はまったく健全であった。精神が肉体に訴えた。そういうことだった。
「ひ、あっ、あ――……」
角松の背が弓なりに反った。草加がさらに奥まで侵入してきたからだった。肉の境目はかれにとって邪魔なものだった。ひとつになりたい。
あれ以来、草加は後ろから攻めるのをやめた。顔の見えない相手に犯されるのは恐怖しか与えないと気づいたのだった。抱くことじたいをやめることはできなかった。角松はやさしさを拒みきれない。それがわかっていたから草加はかれをことさら大切にあつかう。ゆっくりと、草加に馴染ませた。かれの体は思惑通りにすすんだ。状況に慣れ、快楽に屈した。体はとても素直だった。
まるで体の代価のように、しかし心はかたくななままだった。足は開けても心は開けない。口に出して罵られた。角松は草加と同じ寝台で眠ることはない。どれほど疲れさせても、草加が出て行くまでは意地でも眠らなかった。気絶させてしまえば別だが、それをすれば翌朝角松は草加と、自分自身を責め、さらに心をかたくなにした。
「くさ、か…っ。もう……」
たえきれない。角松が敷布を握り締めたり引っ張ったりしているおかげで寝台はすごいことになっている。
「だめですよ。角松さん」
たまらず、下肢に伸びた手を草加に遮られた。角松の体ががくがくと震え、限界を表している。とうとう角松の瞳から涙があふれた。何度も寸前で快楽を塞き止められて、たかが外れてしまったらしい。
「…角松さん」
草加は涙を舐めとった。なにもかもがいとおしくてしかたがない。恋は盲目といってしまえばそれまでだが、泣き崩れるかれは可愛かった。目も眩むような快楽を味わいながら、なぜ自分の想いは通じないのだろうかと哀しくなるほどだった。愛していますと囁けば、かれはありありと嫌悪をその瞳に浮かべてしまう。
それとも、かれは迷い始めてくれたのだろうか。困惑しながらも頬を撫でてくれたことに、期待してしまってもいいのだろうか。嬉しかった。角松からの接触は草加を歓喜させ、同時に両刃の刃となって傷つけた。角松の瞳の奥にあったのは草加ではなく、かれの愛すべき息子であったからだ。それがわからないほど草加は鈍くなく、また恋する男というのは悲劇的なほど相手の心に敏感だった。なぜ、自分ではだめなのだろう。草加の創りだす「ジパング」はまぎれもなく角松のための理想だった。犠牲は最小限に、戦果は最大限に。誇りを失わず、服従もしない。戦争の終わり方として、これ以上のものは望めないだろうと草加は信じている。もちろん自分の生み出すものの災禍ともたらす恐怖はわかっている。しかし必要なものだ。
草加は自分と角松の間にある決定的な違いに気づかなかった。理解をしているつもりになっているだけだった。事実として身についているものと、知識として頭にはいっているものの違い。角松洋介が生まれたとき、日本はすでに敗戦国だったのだ。かれはそのように教育を受け、戦争だけは二度としないという意識を国の総意として育てられた。放射能に汚染された島国。その事実が生まれたときからあり、かれは目にし、耳にする。核が日本や世界や人間や未来にもたらした影響を。核の脅威のもとでの平和。角松洋介だけではなく、21世紀の人間なら誰もが憎悪をいだくもの。ゼロかすべてか。その究極の選択。
草加は狂おしく角松を抱きしめた。角松の手は敷布を握りしめたまま、かれの背に回されることはなかった。それが角松の答えだった。
狂気にも等しい時間がすぎると、草加はいつものように角松の体を清めた。金盥にぬるま湯を張り、手ぬぐいで丁寧に汗と体液にまみれた角松をぬぐっていく。角松はきまずい思いを味わいながらも、ぐったりと重い体を動かすこともできずにされるがままになるしかなかった。
妻とならばかわせただろう軽口や睦言は、草加を相手にできるはずもない。なによりも草加の表情はそんな気楽な雰囲気を拒んでいた。
草加は角松を見つめ、眼が合えば嬉しげに微笑した。しかし自らつけた蹂躙の痕をぬぐう時にはその秀麗な眉をひそませた。何かに耐えているように。
まさか、罪悪感か?まさか。足を折った時でさえ喜々としていたやつにそんな甘さはないだろう。では、何だ。角松はいつもなら決まって目を背けている行為を行う草加を確かめるべく、自身の羞恥心と戦った。指が再び奥へと伸び、受け入れた後で弛緩した蕾に触れた。そっと広げられ、ぞわりと腰から震えが走る。嫌悪と、認めたくないが快感。やがて体の奥からあたたかい液体が溢れてきた。角松は歯をくいしばる。せめてと草加を睨みつけ、目を背けたい衝動を耐えた。布が押し当てられる。
草加の瞳に表れたのは歓喜と――そして恐怖だった。この男はおびえているのだ。見られていたことに気づいた草加は一瞬頬を歪ませ、さっと目をそらした。しかし角松は間違わなかった。もう草加を見つめる気になれず、顔を背けた。
いったいこの男は、何におびえているのだろう。俺に嫌われることか?それならもうとっくに嫌っている。草加もわかっているだろう。恐怖。なんだろう。神をも恐れぬことをしでかそうとする男が恐れ、おびえてしまうこと。角松洋介という存在の喪失か?思い上がった考えに内心自嘲してしまう。いずれにしても今の自分はここから動けず、動けなければ逃げ出すこともできない。そして、悲嘆と我が身の不幸に絶望して自ら死を選ぶ性格ではないことも、わかっているはずだ。では、何だ?わかりかけているようで確たる像を結べないことに苛立ってくる。知っているはずなのだ。草加の行動がそれを現していたはず。愛しています。そばにいてください。安堵したような甘えた言動。子供が親にすりよるような。父親に性欲をいだくことはない。父とはいずれ乗り越えなければならない存在の象徴だから。――では、母親は?
母親というのは息子にとって、永遠に憧れ続ける理想の恋人だという。
まさか。角松の感情は否定した。いくらなんでも、それは。
「草加………」
呆然と、呼んでいた。はい、と素直な返事がかえってきた。
嬉しそうな、それでいておびえを含んだ顔がそこにあった。
まさか。ああ、なんてことだ。感情は強く否定したが角松は納得した。母親が永遠に憧れにしかなれないのは、絶対に手に入れてはならない唯一つの存在であるからなのだ。その胎から生まれた子が、その胎と交わるなどと。草加は今、その気分を味わっているに違いなかった。獣であろうと本能的に避ける行為をしている自分に対する強烈な嫌悪。倫理、道徳、すべての善なるものに責めたてられている。そしてそれらを上回る狂気的な愛。身を引き裂くほどのそれはひたすら純粋で真摯なもので、だからこそ草加は角松を手荒く扱い、これ以上ないほど大切に抱くのだ。
「草加、」
「はい、角松さん」
草加は角松に寝衣を着せ、かれをうかがい見た。なにかを期待した瞳。子供は常に親に期待している。愛されることを。そして愛されるために親が自分に何を望んでいるのかを知ろうとする。今の草加のように。
どうすればいいのだろう。ことが純粋なだけに無碍にはできない。なにより角松にとって草加は一度助けた命だった。どうしても憎みきるということができない。
ぽんぽんと寝台を叩いた。ここへ来い、という意味だった。まるで躾けた犬猫にするような仕草。草加はゆっくりと近づき、示されたところへ座った。
期待と不安の入り混じった草加の表情。かわいそうに。流されてしまうことに危険を感じている自分が必死で叫んでいる。草加を受け入れてはならない。草加だけは――絶対に!
心の声を聞きながら、角松は草加の頬をそっと撫でた。口元がひくりと痙攣した。微笑みそうになったのを堪えたからだった。警告が響きわたる。草加だけは、絶対に駄目だと。
草加の瞳が緩んだ。角松さん、と囁いてかれの腹に頭を乗せた。駄目だ駄目だと思いながら、角松の手は草加の頭を撫で続けていた。
「おまえは、俺に、なにをしてほしいんだ。――草加?」
それを聞いてどうするのか自分でもわからないまま、角松は訊いていた。答えはわかっていたが、確かめずにはいられなかった。
角松さん。角松さん。草加は何度も名前を呼んだ。泣いているような声だった。
「…愛してください。わたしだけを」
草加はかれに懇願し、縋りついた。今度こそ、角松は微笑した。こみあげてきた感情が、必死で否定する声を圧倒した。
背中に手が回る。駄目だ。いけない。一時の感情に流されたら残るのはとんでもない悔恨だけだ。わかっていた。わかっていたが、どうしようもなかった。
角松洋介はまぎれもないいとおしさを込めて、かれが生み出した子供を抱きしめた。