扉を開ければそこに、いとしいひとが自分を待っている。
 それはなんという喜びだろうか。



 たとえそのひとの自分に向ける感情が、自分と同じものでなくても。






 自分の放った銃弾に角松が倒れるのを、草加は笑みすら浮かべて眺めていた。
皇帝を殺すときでさえ。
 違う、と叫ぶ声に歓喜を覚えた……彼が、見ている。自分だけを見ているのだ。

「角松さん」
「………っ」

 眉間に一発。人間の顔に開いた不自然な穴を角松は見つめ、活動を停止した体から惰性で流れ続ける血液に耐え切れないというように顔を歪ませ、眼を閉ざした。

「角松さん」

 彼の傍らに膝をつき、顔を覗き込むと、多量の出血と目の前で行われた殺人のショックで朦朧としはじめていた。それでも頬に触れたとたんにキッと睨みつけてくる。たいした精神力だ。

「草加さん」

一部始終を息を殺して見守っていた吉村が、焦り声で呼んでいる。この夜中に響き渡った銃声は、すぐさま関東軍に通報されるだろう。

「わかっています。…吉村さん、矢吹少佐に角松さんを…このひとを助けるように、伝えてください」
「は、はい」

 一瞬、怪訝な顔をしたものの、吉村はうなずいて走って行った。草加が振り返りもしなかったことが気がかりだが、これ以上ひとを殺さずにすむという安堵のほうが大きかった。
 慌ただしい足音が遠ざかる。草加はゆっくりと角松に顔を近づけた。もうすでに血の気のない角松の顔に。
 血の臭いがする。

「…っ……くさ…か……」
「まだ声が出せるんですか、さすが、ですね」

 そんな場合ではないが、似合わないなと思った。この男にはなによりも日向と海の匂いが似合っている。いつでも背に青い空を持っている。

「会いたかった、角松さん」

 頬を包み込み、くちびるに触れて囁く。抵抗はない。朦朧とした意識はあっても、感覚はないらしい。なにをされているのかもわからないのかもしれない。
 右肩の出血が止まる気配はなく、ゆっくりと生温かい真紅が広がっていく。ぬるりとしたそれを指先で拭い取り、角松のくちびるに差した。呼吸を荒げ、口は薄く開かれている。そこから覗く舌よりも鮮やかな赤。ぞくりとするほどの艶やかさは、誘われているようだ。
 このまま放置すれば、角松は死ぬだろう。けれど、草加に罪悪感はなかった。

「あなたが悪いんですよ?あのまま、私のところに来てくれていれば、こんなことにはならなかった」

 それなのに―――拉致誘導に失敗したのは残念だったが、簡単にひっかかるほど甘くないとわかって、ほんの少し、誇らしくなった。それでこそ角松だとさえ思ったのだ。

「なのに、あなたは、あんな男を信頼して―――ここまで来た……」

 溥儀を殺すのに反対だというのも、邪魔をすることも、草加はちっともかまわない。それだけ自分のことを理解しようと、考えてくれているということだ。海からあがっただけではなく、わざわざ遠い満州まで、自分を追って。それは、身震いするほどの幸福だ。
 許せないのは、如月というあの男。たった数日で角松の信頼を得た、あの男だった。顔色ひとつ変えずにひとを殺せる特務のくせに、なぜ信頼し、身をまかせることができるのだ。そのおかげでこの矢吹邸まで誘いだせたのだが、少しも嬉しくない。

「痛いでしょう?罰ですよ、角松さん」

 もう一度くちづけて、草加は最後に自分で刻んだ傷口にくちびるを寄せた。角松はぐったりと意識を失い、何の反応も返さなかった。

「その痛みも、この傷も……一生あなたの体に残る」

 傷を見るたび、傷に触れるたび、あなたは痛みを思い出し、そして傷をつけた男を思い出すだろう。この私を!
 草加は満足気な笑みを浮かべて立ち上がると、くちびるについた血を指で拭い、ぺろりと舐めとった。血の錆び付いた味がした。





「助かりますかね、あの男……」

 車中、大仕事を終えて重苦しい空気のなかで、吉村がぽつりと尋ねた。祈るように組まれた手が微かに震えている。恐れているのは殺人という大罪を犯したからではない。ただ静かに座っているだけの、隣の男だった。あんなことをしたとは思えないほど静かに、同時に、実に楽しげに瞳を輝かせている草加。

「さあ…こればかりは運でしょうね」

少しも心配などしていない口調だった。角松が助かることを、微塵も疑っていないのだ。

「後悔しませんか」
「するでしょうね」

 即答に眼を丸くした吉村に微笑みかけて、草加は眼を閉じた。これ以上はなにも聞くな、という意味だ。
 後悔する時は、きっと、あなたと会うときだ。そしてその時を、草加は焦がれるほどに待っている。
 あなたが何よりも強い想いで、憎しみで、私を見つめる一瞬を。