けしからぬ話





 ゆっくりと、草加が近づいた。角松は歯を喰いしばる。奪われたインカムの向こう、「みらい」では緊張して角松からの声を待っているだろう。それがわかるからこそ、なおさら声をあげるわけにはいかなかった。
 草加が再度言った。

『声を』




 実に久しぶりに聞く草加拓海の声は、勝利の喜びを含んでいた。麻生をはじめとする「みらい」乗員、艦橋にいる者たちは草加の言葉が事実であることをほとんど疑っていなかったが、それでも彼らは自分たちの艦長の声を待った。
 時折バチャンと水の跳ねる音。想像するしかないがおそらく角松が草加に抵抗しているのだろう。
 そしてついに、

『あっ』

 という声が、まぎれもない角松の声が、それでも潜められた声が「みらい」に響いた。

「!!」

 息を飲んで張り詰めた男たちの耳に、次の声が届く。

『やめろ、草加…!』

 それからまた水音。しばらく沈黙が続いた。
 どうなってるんだ、と誰かが呟いた。シッと隣の男にたしなめられる。

『……ッ、………ン、…っんぅ…っ』
「………え?」
「ちょ……これって…?」

 男たちの目が丸くなる。彼らは互いに顔を見合わせ、自分の想像が周囲と同じであることを確信した。さらにそれを肯定するように、ちゅっ、という今までのものとは別種の水音が響いてきた。

「…チュパ音…?」

 疑問系の呟きは誰からも否定されなかった。
 チュパ音とはいわゆるアダルト系のアニメなどに用いられるところの音、つまり「あのとき」の音のことである。

「か、角松二佐!?」

 麻生のひっくりかえった叫びが、インカムを通して草加の耳を劈いた。




 彼が驚いて肩を揺らしたのを見逃さず、角松が腕を突っ張った。くちづけからようやく解放される。草加の頭についているインカムの存在に、怒鳴ることもできずにくちびるを引き結び、横を向いた。身動きのとれない角松にできる、唯一の抵抗。
 草加は内心で舌打ちした。邪魔をされた、という思いが強い。角松に、ではなかった。今ここにいない男たちに、草加は苛立った。彼を助けに来ることもできないくせに。
 ふいに、足元になにかが絡みついた。
 それを拾い上げた草加が口元をつりあげて笑ったのを見た角松が思わず身構えた。草加の手にあるものは、彼の足と原爆をくくりつけていたロープだった。

「やめ……ッ、ん!」

 手首を背に回され、濡れたロープで縛り付けられる。暴れようとしてもくだけた足に激痛が走り、力をいれることができなかった。
 草加の大きな手が角松の顎を掴む。開かれた歯の間から、ぬるりと草加の舌が侵入した。顎を掴まれているため噛み付くこともできず、何ひとつ抵抗できない今の状態に、角松の焦りと怒りが頂点に達する。
 するり、と草加のもう片方の手が、角松の足の間を撫で回した。




『…ッ!―――っ!』

 角松が息を飲んだ気配に、「みらい」は一斉に緊張した。今度は何だ?という恐怖とわずかな期待が空気を濃いものに変化させていく。
 ちゅ、くちゅ、ちゅぱっ。なんともいかがわしい下心をくすぐる音と、鼻にかかった吐息が時折インカムを通して聞こえてくる。だが、それだけだ。
 見ることができないというのがこれほど焦燥を煽るものだとは知らなかった。男たちは角松が草加に一体何をされているのか妄想を働かせた。皆一様に顔を赤らめ、息を荒くし始めている。はっきりいってただごとではない。
 たまりかねたか、麻生が叫んだ。もちろん彼も例外ではなく、あらぬ妄想に体の一部が危険な兆候をみせている。

「角松二佐、大丈夫ですか!?」

 言うに事欠いて大丈夫かはないだろう。焦りのまま叫んだ麻生の、まだ冷静な頭の一部が突っ込みをいれる。大丈夫ではないからこそ、この事態なのだ。
 案の定、呆れたような笑い交じりの草加の声が返ってきた。

『部下が心配しているぞ、角松二佐。…何か言ったらどうだ』
『や…!あっ、聞くな、聞かないで、くれ……っ。ぅあッ』

 角松の切迫した声に、自分たちの妄想があながちまちがいではないとわかると、男たちは別の意味で盛り上がった。麻生の背後にいた桐野が彼らの声をひと言にまとめて言った。

「草加!貴様角松二佐に何をしている!?」

 そう、説明だ。見ることができないのだからせめて状況を教えてくれ。何をしてどんな反応を返したのか、できるだけ具体的に頼む。

『何をしている…か。教えてやったらどうだ』
『ふぁ…っ。や、め…ろっ、この…ヘンタイ…!』

 悪態が舌足らずなものに変わっていく。先ほどとは違う、どこか甘えた幼い口調だった。

『あ、ん……っ。ゃっ、らめぇ……!』

 どよ、と「みらい」がざわめいた。

「ちょ……っ」
「うわー……」
「らめぇって言ったぞ!?」

 興奮に色めき立つ男たちの期待に、草加は背かなかった。

『そんなに足を大きく広げて指を2本も咥えておいて、だめ、はないだろう。…こんなに酷く痛めつけられてこれほど感じている、どちらが変態だ?』

 揶揄を含んだ言葉が続ける。

『本当は、痛くされるのが好きなんだろう?…角松二佐』
『あああぁっ』




 うってかわって苦痛の絶叫。草加が角松の右足を軽く蹴飛ばしたためだ。
 一応草加の言葉を説明しておくと、角松が開脚しているのは足が潰されているのに加え草加の体が割り込んでいるためであり、指を咥えさせられているのは口である。口を閉じることができないため唾液が口から溢れ、舌を指に挟まれてまともに話すことができなかった。角松の言葉が舌足らずなのは本当に舌が足らない、動かすことができないためである。
 だが体に与えられている苦痛と快感が合わさった刺激に、これ以上ないほど感じていることはごまかせなかった。

「ゃ…、ら!らめ……っ」

 喋ろうとした舌を抑え付けられる。今のセリフを「みらい」を聞いてしまっただろうか。そう思うだけで角松は焦りと羞恥を募らせ、そのぶん痛みを忘れた。強烈な快感に頭が染まる。
 ぐちゅり、と2本の指が口内に溜まった唾液をかき混ぜた。口の端から溢れたそれを草加がべろりと舐め取る。




『こんなに濡れて。…いやらしい人だ』

 やらしいのはどっちだ!「みらい」全員の思いは当然のことながら草加に届くことはなく、いまや固唾を呑んで「そのとき」を待つ男たちの耳には忙しない角松の呼吸音と嬌声、そして興奮を隠そうともしない草加の声が聞こえるだけだった。

「お、男でも濡れるもんなのか…?」
「ばか、そんなわけねーだろっ」
「だって指2本って…」
「く、口だろ……?」

 ひそひそと男たちは自分の妄想を確認しあい、補完する。角松の服は脱がされているのかいないのか、抵抗のそぶりがないのはなぜなのか、草加の指や舌は角松のどこを這いまわっているのか、角松のそれはどのような形状であり、どこまで追い詰められているのか。
 ごくり。誰かの咽喉を鳴らす音が、はっきりと草加の耳に聞こえていた。




「――…くす…」
「は…、はぁ…っん、ぁ……っあッ」
「…他人の手は、久しぶりか」
「あ、あァッ」
「そのわりに、我慢強いな?それでこそ…と言いたいが」
「や、め…っ、アッ」

 草加が指の力を強めると、角松の体が跳ね上がった。抑え切れない自分の声に煽られるのか、彼は涙目になっていた。痛みだけではなく、その続きを誘う色香のある表情だ。
 舌を弄んでいた指を引き抜き、草加がインカムを角松の耳に戻した。

「ほら、「みらい」が待っているぞ。…あなたが、いくのを」
「ひ……っ!」

 そこに両手が添えられ、爪先が絶妙な複雑さで這い回る。角松は反射的に仰け反り、足の痛みに全身の力が抜けて草加にもたれかかった。耳に直截吹き込まれる部下の荒々しい呼吸。追い詰められる。草加と――「みらい」に。

『ィや!く…、あああっ!!』

 絶叫だった。しばらく荒い呼吸が続き、遅れて角松が息を飲む気配が伝わった。彼がやっと正気を取り戻したらしい。
 副長…、と誰かが呟いた。艦橋はもはや暗澹たる様相を呈しており、誰もが打ちひしがれていた。よりにもよって角松洋介が、草加によって陵辱されたのだ。そしておそらく誰にも、特に部下になど知られたくなかったであろう秘事を、聞いてしまった罪悪感に押し潰されそうになる。
 どんなに高い戦闘能力を有していても、助けることができなければ無意味だ。だが彼らは助けるどころか草加に同調した。それぞれの頭の中で草加と同じように角松を辱めた。たったひとつの心残りはモニターができなかったせいで角松のアノ顔をみることができなかったことである。

「か、ど、まつ…二佐……」

 呆然と麻生が呼んだが、角松からの応答はなかった。
 ぼちゃん、と水の中に落とされる音がしてインカムからの通信が途絶える。おそらく投げ捨てられたのだろう。唯一の通信手段すら彼らは失った。

「…角松二佐…」

 もう一度、独白のように彼の名を呼ぶ。麻生の知る角松の喜怒哀楽の表情が走馬灯のように脳裏を駆け抜け、妄想の中のアノ表情で終わる。現実には草加だけが見ることのできた表情だ。
 麻生はひとり、仁王立ちしていた。ひとりしかいないのは他のメンバーがことごとく前屈みであったり内股であったり立てなくなっていたりトイレにダッシュしたためである。これは無理もないだろう。麻生にしてみてもすっくと立ち上がっているのは本人の根性と怒りのためであって、彼の体の一部もまたすっくと立ち上がっていたりする。とても角松にはお見せできない有り様だ。ただそれが余計に麻生の怒りがただ事ではないことを示している。




「あ……あ…」

 ようやく頭の冷えてきた角松が、震えだした。

「角松二佐…?」
「逃げろ」
「は?」
「早く逃げろっ。いやその前に足を引っこ抜いていけ。とにかく逃げろすぐ逃げろ逃げたら米艦隊でもいいから保護してもらえ今すぐに!」

 突然のことに草加は当然ついていけない。角松が苛立って声を荒げた。

「……?」
「いいから早くしろ!…麻生が本気で怒ったら俺でも手がつけられん。マジ逃げとけ」
「あの男が…?」
「……いつだったか俺にセクハラかましてきた米軍のヤローがいたんだが、麻生が再起不能にしたことがあるんだよっ!」
「………不能…」

 草加もさすがに冷や汗がでてきた。この流れで再起不能というからにはそちらの意味で不能にされたのだろう。男が一度不能に陥ってしまうと立ち直るのには相当の時間と根気と精力が必要になる。ヘタをすればそのまま一生役立たずということも珍しくないのだ。
 しかしどうも、あの麻生の顔と激怒というのがいまひとつ結びつかない。




 その頃「みらい」では、

「こんなことなら、両手両足縛り付けて営倉でやっときゃよかった……!」

 血を吐くような実に正直な告白を麻生が瞬殺していた。いつのまにか手に持っていた金属バットを情け容赦なく発言者に振り下ろし、ばったりと倒れたところで頭を踏みつけたのだった。ぶぎゃっ、という潰れた蛙のような悲鳴をあげ、桐野は本当に血を吐いた。うつ伏せだったのは彼にとって幸いだったろう。仰向けに倒れていたら、潰されたのは頭ではなかったはずだ。




 角松が肩を震わせて、言った。それだけ自分を大切に想ってくれているとはわかるものの、同じ男としてはやはり同情を禁じえないのだ。想像だけにしておきたいところだった。

「あいつは顔はお地蔵さんでも、心は般若だ」