いらない





 油断をした、と言ってしまえばそうかもしれないが、それでも角松はどこかで信じてもいた。草加が自分に対して乱暴するはずがないと。
 拉致に引っかかったふりをして草加との対面を果たしたまでは良かったのだ。まさかいきなり後ろから頭をぶん殴られて気絶させられるとは思わなかった。アノヤロウ、と口の中でぼやく。ニセ如月中尉め。今度会ったらやり返してやる。
 腕が痛い。ぎち、と手首に食い込んだロープが軋むが、外れてくれる気配はない。手首で結ばれたロープの先はベッドの柱に括りつけられていて、床にほったらかしにされているよりはマシかもしれないが、これでは身動きがとれない。
 薄暗い室内を精一杯目を凝らして観察する。広々とした寝室だ。窓辺の小さなテーブルと椅子以外に見るべきものはなかった。窓は閉められており、カーテンが敷かれている。
 頭を元に戻して角松は嘆息する。とにかく誰か来てくれないかぎりはどうしようもないのだ。自分の体も、草加のことも。

「おや、気がつきましたか」
「草加……っ」

 足音すら立てずにやってきた草加はチャイナ姿で、にこやかな笑顔を角松に向けて彼の傍らに腰掛けた。ベッドが沈む。

「頭はどうです?力まかせに殴られたでしょう、血はでませんでしたけど、気分はどうですか?」
「てめぇ…、それをやらせたヤツに心配されたくねぇなっ」
「まあ、もっともですね」

 噛み付く勢いの角松を意に介することなく草加は身を乗り上げて角松の頭を撫でた。そっと擦ってくる指よりも息のかかる距離にある草加の顔に、鳥肌がたつ。その、表情が。

「く、さか……?」

 うっとりと実に楽しげに見つめてくる。とても敵を見る瞳ではない。角松は思わず逃げようと動かない体を擦り上げようとした。

「どうしました、角松さん」

 草加はそれを許さず、頬を包み込んだ。意図が読めずにただ睨みつけるしかない角松と、額を付き合わせた。

「く…」

 近い。
 どこまでも真直ぐに見つめてくる瞳に焦り顔の自分が映っている。

「さ…」

 吐息がくちびるに触れる。
 角松は咄嗟に呼吸を止め、瞼を閉じてしまった。
 「か」は言うことができなかった。
 草加にくちびるを塞がれたからだ、とわかったのは、それがさらに押し付けられてからだった。やわらかく、あたたかい。こちらに来てからは始めての。

「……………っ」

 体が強張った。
 首を振ろうとしたが草加が頬を押さえていて叶わない。もがこうにも、草加が圧し掛かっているせいでもがけない。手首が痛い。
 頬にあった手が首をくすぐって胸へと下りてくる。手のひらを押し付けるように揉まれて、カッと頭に血が上った。
 現在唯一の攻撃手段である口で、噛み付いてやろうとした時だった。まるで角松の考えが伝わったように、草加が離れた。

「……っ、テ、メ…何考えてやがる!」
「あなたのことですよ」

 何をあたりまえのことをとでも言いたげに、さらりと答えた。

「どうしたら、あなたが私のそばを離れず、私の邪魔をせず、私と共に生きてくれるのか―――」
「そんな…ことは、絶対にありえん」
「あなたの意志などどうでもいいんです」
「な……!」

 草加は身を起こし、角松の片足に乗った。もう片方の足首を力まかせに押さえつける。

「私は、ただ、私の知らないところであなたが行動し、「みらい」の乗員以外の人間と接触して誰かを信頼し笑顔を向ける、ただそのことが許せないだけです」
「俺がどこで誰と行動しようが俺の勝手だろう」
「そうですね。でも―――「みらい」の方々は仕方がありませんが、これから先、誰かにあなたを奪われたくない」

 意味がわからない。
 角松にはなぜ草加がそこまで自分に執着するのかわからなかった。

「だから、あなたの意志など無視して……これは私の勝手」
「草加?―――………っ!!」

 草加の手に込められた力が増していく。指の痕がつくほどの、いや、違う。まさか、と頭は必死で草加のやろうとしていることを否定しようとする。痛みが酷くなる。足首の骨が軋んでいる気がする………。

「ヤメ」

 鈍い激痛。何かがぶつかったような音が体内で響いた。息が止まり、視界が滲んだ。
 声も出ない。
 痛い。
 呼吸もままならない。
 思考がすっとんで、ただ痛みに支配される。
 わかったのは、草加に足を折られたのだということ。

「………角松さん」
「………っ!!」

 再び草加の指が頬を這う。先程あたたかく感じた指は、しかし今は冷たかった。どっと噴出してくる脂汗のおかげで体は震え、熱いのか寒いのかわからないのに。草加の指は、酷く。

「わかりましたか、あなたの意志も都合も考えない。こうしてしまえばあなたは私から逃げることができなくなる」

 何だ?草加は何を言っている?聞こえている言葉が理解できない。

「ご心配なく、手当てはしますから。でも………」

 でも、の続きは言わずに草加は痛みに耐えることしかできない角松のくちびるに、もう一度くちびるを重ねた。頑なさも攻撃性ももはやないくちびるは、震えて、浅い呼吸を繰り返している。
 奥で縮み上がっていた舌を舐め、やわらかく噛みつく。呼吸をするだけで必死の角松は、知らずあわさった唾液を飲み下した。

「ふ………っ」

 その間にネクタイを外し、シャツのボタンを外す。前を肌蹴ると、逞しい肉体が顕になった。
 頭上で手首を一纏めにしているため、全てを脱がせることはできない。骨折した足も動かすことはできない。だが、草加はやめなかった。
 角松のために二人で選んだスーツ。白いそれをまとった彼を汚すのはなんだか背徳的な気分で、ひどく高揚する。

「角松さん」

 そっと下腹部に手を当てるとかすかに反応があった。気をよくして、草加はさらに下へと手を入れていく。

「う………っ」

 スラックスと下着を膝のあたりまで下ろす。わずかな動きにも痛みを訴える足を草加はそっと持ち上げて、脱がせてしまった。ついで、自分も全裸になる。
 素肌を重ね合わせる。ばくばくと脈打つ角松の心音はあの時と同じく大きく、あの時よりも早かった。今は彼が、生死の境を味わっている気分だろう―――もっとも骨折くらいでは死にはしないが。

「く、草加………っ?」
「角松さん…」

 角松には思いもよらない行動だろう。角松には、草加がどれほどこの時を待ち焦がれていたのか決してわかるまい。

「私は、ずっと、こうしたかったのだ。あなたを私のものにしたかった。このままずっと、私だけのものに………」
「オ、俺は…っ、あ……?」

 ちろり、と草加が舌を伸ばして胸を舐めた。淡く色づいたそこの周囲をなぞり、粒に吸い付く。ビク、と角松の体が跳ねたが、快感とは違うようだ。くすぐったいような、なんともいえない表情をしている。

「やめろ、草加」

 指とくちびると舌が体を弄る。わずかでも反応を示したところは集中して攻められる。息があがっていく。触れ合った互いのものが形を変えつつあるのがわかった。
 ゆるりと腰を動かされて、角松はぎゅうっと瞼を閉じた。

「あ……」

 血の気の引いていた頬に色が戻ってくる。明らかに興奮を宿した赤い目元。目は閉ざせても、くちびるはそう簡単ではないらしい。熱い息が漏れる。

「ヤ、ヤメロ……」

 激痛の中に違う感覚が交じり合う。痛みから逃れようとそちらに意識がいってしまう。草加のもたらすそれはあきらかな性的快感で、身を任せてしまうにはプライドが許さなかった。草加は構わずに両手で起立を包み込み、動かし始める。角松は歯を食いしばった。

「く………っ」
「ふ…ふっ。頑固ですね、こちらはとても素直なのに……」

 からかいを含んだ囁きが耳に注がれる。熱い吐息。耳朶を執拗に舐められる。その間も草加の手は休むことなく、強制的に高められていく。
 出る、と思った瞬間に、爪を立てられた。

「あ、―――…」

 一瞬。
 痛みが消え、全身が快感に染まった。
 それは本当に一瞬で、次には痛みが蘇った。しかも一度忘れたせいか、余計に酷く感じられる。
 だから草加も絶頂を迎えていたことも、腹にかかった二人分の精液を彼の指が混ぜ、掬い取ったことも気づかなかった。

「…………ひっ?」

 とんでもないところにぬるりとしたものを塗りつけられて、角松の声がひっくりかえった。

「な、な……」

 なにをする、と言う間もなくためらいのない指先が入ってきた。

「知らないのか?男同士の性交は、ココを使う」
「う、あ……っ」

 足の痛みは、痛いというよりはもはや熱のようになっていて、麻痺してきている。草加の指が与える感覚もよくわからない。ただ、体内で蠢いているものがあることだけははっきりしていた。
 草加は何と言った?あまりにもあたりまえのように言われたが、とても認めたくない言葉だった。性交?男同士の?誰と誰が―――ここには草加と自分しかいない。ベッドの上に、二人。

 ―――まさか。

 目を見張った角松に、草加は微笑んだ。場違いなほど楽しげに。指が引き抜かれ、かわりにあてがわれたものにゾッとした。さっきまでとは正反対の汗が滲み、目に入る。塩分に目が沁みているが、全身を苛む熱のほうが強かった。そんなものが入るはずないと訴えても無駄だろう。痛みの麻痺した体は、男を受け入れるだろう、角松本人の心を無視して。

「イ……ヤ…ダ……ッ」

 痛みはない。
 ただ入ってくる感触と圧迫感、そして形がやけにリアルだった。侵入してくるものが何だかわかるだけに、嫌悪感に涙が浮かんだ。つう、と流れた雫を草加が舐めとった。

「角松さん……っ」
「草加…ぁ……っ」

 視界が揺れる。何をしているんだろうと思う。草加はやはり嬉しそうに笑っていて、何度もくちづけてきた。最初にしかけてきた官能的なものとは違う、稚拙なものだった。
 こんなことがしたくてわざわざ人を雇い拉致させたのかと思うと、バカだなという感想しかない。現実を認めたくない自分の思考が、冷静さを装って逃避しようとしているのだ。それもどこかわかっていたが、しかたがないだろう。男を抱くことはもちろん、抱かれることなど予想もしていなかったのだから。歴史小説などにはたまにそういった人物が出てくるが、小説の中のことであり、現実に遭遇しようとは、夢にも思わなかった。60年前のこの時代には、まだポピュラーなのだろうか。腰が浮く。草加の動きが激しくなる。視界の隅に、揺れる足が見えた。腫れて青黒くなっている足首は、自分のものではなく、出来の悪い作り物のように、気味が悪く、感覚がなかった。
 角松さん、と草加が何度も名前を呼んだ。
 くっと草加が眉を顰め、また、くちびるを押し付けられた。
 体内で草加は射精した。熱で濡れていく。

「角松さん、角松さん……愛しています」

 ああ、やっと終わった。力の入らない体はそれでも緊張していたらしく、角松は脱力感を味わった。

「…私のそばにいてください、ずっと……。あなたは私のものだ」

 愛する者の心を無視し、肉体を傷つけて、有無を言わさずに犯すのが、お前の愛なのか?融けていく意識の中で角松は問いかけた。誘惑に抗えずに瞼を下ろす。眠い。俺の答えは決まっているのに、伝えられないのが残念だ……。そんな愛など、いらない。








 不快感で目が覚めた。
 体が熱く、重い…自力ではとても動かせない体を、誰かに動かされている。手の拘束が解かれて、暴れた時についたのだろう手首の傷に、包帯が巻かれていく。

「目が覚めたかね」

 包帯を巻いていた男が額に手を当てた。見たことのない男だ。口髭に眼鏡をかけた、穏和そうな男は角松の熱が思ったより高いことに眉を顰め、体温計を取り出して、腋の下に差し入れた。

「心配しなくていい。私は医者だ」

 かすかにうなずいた角松に、医者らしい微笑を向けて、彼は水銀の示す体温に先程よりも深い皺を眉間に集めた。
 ため息とともに医者は注射の用意を始めた。解熱剤だという説明に角松はまたうなずく。信用するしかなかった。
 医者は注射を打つと、少し休みなさいと告げた。言われなくてもそうするしかない角松は黙って眼を閉じた。カツコツと足音が遠ざかっていき、止まる前に扉の開かれる音がした。草加少佐、と医者が言った。彼は?と草加が角松の具合を訊き、医者が状態の説明をしている。角松は目を開いた。

「無茶なことをしてくれた、と言いたいですね、医者としては」
「すみません」

 角松が見ていることに気づいた草加が、にっこりと嬉しそうに笑う。医者がヤレヤレというようにわざとらしくため息を吐く。

「……いいですか、無茶をしないでくださいよ。怪我人だということをお忘れなく」
「はい」

 返事だけは素直だ。
 医者が部屋を出て行くと、草加は持っていたトレイをテーブルに置いた。そしてテーブルを持ち上げて、ベッドの隣に移動する。草加はベッドに腰掛けた。

「熱があるそうですね」
「……誰のせいだ」

 自分のものとは思えない掠れた声だった。喉がからからに渇いている。角松は咳き込んだ。

「あ、水です」

 と、突然草加がくちづけた―――口腔内に水が送り込まれる。反射的に、飲み込んだ。

「もっと飲みますか?」

 トレイに載せられていたのは水差しとコップ。それに饅頭だった。わざと見せ付けるようにコップに水を注ぎいれ、草加は口に含んだ。口移しで、と言いたいらしい。睨みつけてもどこ吹く風の草加に、角松は渋々うなずいた。喉の渇きは耐え難かった。
 口移しで水や、食べ物すら与えてくる草加に、親鳥が雛に餌をやるようなほのぼのした雰囲気はない。まして、赤子ではない角松にとって、咀嚼されたものを強引に口に含まされ、飲み込まされるのは、不愉快というより気持ちが悪かった。

「この、変態……」
「なんとでも」

 悪態をついても草加は口移しで食べさせることを止めようとせず、結局皿がカラになるまで続けられた。







「ここでの仕事は終わりました。数日のうちに移動します」
「仕事……?」

 草加の言う仕事が何を指すのか角松は知らない。知らないが止めようとしていたことが終わってしまったのだ。
 歴史を捏造して築かれる草加のジパング。理想の実現のために一体何を、誰を、殺したのか。

「草加……」
「傀儡にすぎなかった男を本物にしてあげたのです」
「きさま、まさか………」

 草加は角松の上に馬乗りになり、顔の両脇に手をついた。

「皇帝を…殺したのか……?」
「あなたに私を止めることはできない。もっとも、この有様では身動きもとれないでしょうが」
「なめるな…このっ……!」

 渾身の力を振り絞って拳を振り上げる。草加はあっさりと捕まえると、手首を握り締めてベッドに押さえつけた。

「もはや「みらい」には帰しません…あなたはずっとずっと、私と共に、生きていくんです」
「くさ……か…」

 愛しています。祈るような囁きとともに、くちびるが降りてくる。



 ずっと共に、そばにいたとしても、心は決して重ならない。
 愛しています、と草加は言い続け、角松の答えも変わらないだろう―――そんな愛は、いらない。