息が止まるほど





 くるん、とした黒い瞳が、まっすぐに草加を見ていた。
 草加はわくわくするような背徳感に浸りながら服を脱いでいった。ここは海の真っ只中だ。人魚と草加の他には誰もいない。ためらう必要はなかった。
 草加はそこはすでに興奮していた。見てくれと言われるがままただじっと見ていた人魚がそこを見て首をかしげる。それ、何だ?それ呼ばわりされたものを草加は両手で包んだ。見ていればわかりますよ。苦笑して答えた。
 人間の性器など当然見たことのない人魚はふぅんと言った。ぱしゃん、と尾ひれで海水を叩く。猫が好奇心を尾で表現するのと似て、人魚の尾も器用に持ち主の感情をあらわした。初めて見るものに対する興味と驚きだ。
 自分の手で包んだものを撫で擦り、育てていく。何も知らない人魚が見ている。今の状況を思うだけでそれはあっというまに大きくなっていった。
 息を荒くし、苦しげに悶えている草加に、人魚が心配そうな声をかけた。なあ、どうしたんだ?大丈夫か?
 大丈夫?
 かつて子供の頃に聞いた声とまったく変わらない声。嬉しさと後ろめたさが同時に草加に押し寄せた。大好きで、大好きで大切な、草加の人魚。思い出の中の彼とまったく変わっていない彼と再会したときの喜びは、とても言葉にできないほどだ。
 そう、人魚は変わっていない。けれど草加は大人になった。大人になり、彼に欲望を抱くほど。
 だい、じょう、ぶ。草加は苦しげに答えた。とても大丈夫には見えない草加に人魚はただ戸惑うばかりだ。草加が今していることが彼をこんなふうにしている原因とわかっても、それがどういうことなのか想像がつかないのだから。
 ――なぜ、彼は人魚で、私は人間なのだろう。草加は泣き出したいほどの痛みに胸を焼いた。人魚が人間であったなら、今草加がしていることをたちどころに理解し、草加を罵倒しただろうに。

「名前を…呼んでくれないか?」
「え?」

 人魚が困った顔をした。再会してからも人魚が草加の名を呼ぶことはなかった。名前が人魚という種族にとってどういう意味をもつのか知ったのはつい最近だ。人魚の尾が赤く染まり始めた頃。今の人魚の尾は、あとわずかに青い部分を残すのみだ。
 発情期に入ると青から赤へと変わるのだと彼は草加に教えた。完全に赤くなれば、我を忘れるほど狂おしく、伴侶を求めるのだと。いまだ彼と添い遂げるべきメスと巡りあえないことに、寂しそうな表情をした。
 人魚の恋は一時で、そして一生だ。
 あまりにもたやすく意志の疎通ができるからか、草加はすっかり忘れていた。もしかしたらあえて気づきたくなかったのかもしれない。いうまでもなく人魚は海の生き物、野生動物に他ならないのだ。彼らにとって交尾は繁殖行動にすぎず、そこに快感など必要なかった。人間のようにそれこそ四六時中相手を想い、いつでも発情でき、あまつさえ繁殖行動を楽しむ野生動物などどこにも存在しない。考えて見なくても、いつ天敵に襲われるのかわからない環境で、ちんたらやってる場合ではないだろう。

「…お、願い…っ」
「…くさか」

 せっぱつまった懇願に押されたように、人魚が草加を呼んだ。草加。草加。草加。
 呼ばれるたびに雫が溢れ、草加の手を濡らしていく。ぱんぱんに膨らみきって、後は解放を待つばかりの、それ。
 見てください。草加が言った。あなたのせいで、もうこんなになっているのだ。よく見て。もっと。名前を呼んで、…愛するように。
 請われるまま人魚がそこに顔を近づけてきた。何も知らない無垢な人魚。彼に見つめられながら、彼をどうやって汚していこうか妄想しながら草加はそれを見せ付けた。粘ついた音を立て、淫液を吹き零しビクビクと震えているもの。この感覚を、人魚は知らない。快感の存在すら彼は想像したこともないだろう。その体に淫らな欲を教え、忘れられなくなるほど刻み付けたい。泣きながら焦れたように請われたい。名前を呼び、愛を囁き、硬く屹立したもので彼を貫いてしまいたい。たった一度でもいいから。

「………っ、く…っ」
「…えっ?」

 低く呻き、草加が達した。勢い良く放たれた白濁が人魚の顔にかかる。日に焼けた健康的な膚を穢していくものに、草加はうっすらと笑った。

「あ、熱っ!?」

 体温よりも温度の高いものは、人魚にとっては熱いものになる。もともと人魚の体温も低いのだ。人魚は反射的に拭い、舐めた。それが何であるのか眼で見て匂いを嗅いでわからなければ口にしてみるという行動は、いかにも野生的だった。
 人魚は目を丸くした。いくらなんでも正体がわかったらしい。

「え、これ……精、子…?」
「そうです」

 まだ彼の顔に残っている精を指先で掬い取り、口元に持っていく。さもあたりまえのように人魚はぱくりと指を咥えた。

「人間は、こうやって自分でも出すんです」
「変なの……。これじゃ、子供できないだろう?」

 当然だ。人間は特に子供を求めるためでなく生殖行動をとるのだ。草加の説明に人魚は不審そうな顔をした。彼には不可解らしい。

「とても、気持ちがいいのですよ」
「気持ちいいって何?」
「………」

 非常に答えに困る質問だ。傍目には苦しげに喘いでいただけに見える。草加は返答に窮した。

「…こうでもしないと、溺れてしまいそうになる」
「人間は陸で生きていくことを選んだ。わざわざ海に来ることないじゃないか」

 変なの。まことにごもっともな自然の摂理を、草加にとって残酷な言葉をさらりと言ってのけ、人魚は海に潜った。赤い鱗が夜の海の中できらりと輝く。息が止まりそうなほどの恋を、人魚はまだ知らない。草加がどれほど人魚に溺れているのかも。