of pride
心臓が引き絞られているような痛みを訴えていた。草加は友人と談笑している角松から一瞬も目を離すことができないままだった。ここが満員電車の中でなければ、痛みに涙していたかもしれない。あの日のように。
洋介、と彼の友人は彼を名前で呼んでいた。ごく自然に、当然のように。普通、どれほど親しい間柄であったとしても、同性の友人をファーストネームで呼ぶだろうか。女性ならばありえるが、彼らはいい年をした大人の男だ。
これが、嫉妬か。
少なくとも草加にはこれまでファーストネームで呼び合うほどの友人はいなかった。恋人であっても稀であった。よほど気を許した、特別な相手でない限り、名前で呼び合おうなどと思わないだろう。つまりあの男は、角松にとって特別な相手なのだ。
角松がゆらゆらと舟を漕ぎはじめた友人に何事かを言ってから、電車を降りた。ほとんど無意識に草加は後を追った。再び訪れた切なさに、草加は手を握りしめた。触れてもいない指先から彼の体温が伝わってくるようだ。指先から甘やかな痺れが駆け上ってくる。
こんな感情が恋だというのなら、なんと素晴らしく、また怖ろしいものなのだろう。想いを告げた夜の再現に、草加は緊張し、恐怖した。もしもまた角松に拒絶されたら、これからどうやって生きていったらいいのかすらわからなかった。草加は置いてけぼりの子供のように途方にくれた。
外に出る。前回を参考に自動販売機に顔を向けたが、角松はいなかった。慌てて周囲を探す。大きな背中は信号機のある横断歩道の向こうだった。外灯の連立する公園へと入っていく。草加は赤信号を無視して道路を横断した。帰宅客を乗せたタクシーや送迎の車などはすでに駅前からいなくなっており、草加の行動を咎めるものはいなかった。
公園内は外灯で明るく、どこからか甘い匂いがただよっていた。桜の蕾はまだ固いままだが、歩道と桜並木との境に植えられた沈丁花が咲き誇っている。夜の静けさの中、自己を主張するような芳香を放っていた。ああ、春が来たのだなと何とはなしに思う。はじめて角松洋介を見つけた夜、あれは真冬の最中だった。それから2人で会い、彼を抱いた夜も。ようやく再会を果たした夜の風の冷たさを、まだ覚えている。
わたしにも春がくるのだろうか。今すぐにでも駆け寄って、抱きしめたい。広い背中を追う足が速まっていく。草加の足音がサスペンスドラマのように近づいているのが角松にも聞こえているだろうに、彼は立ち止まることも、ちょっと後ろを覗うことすらしなかった。
「…か……」
声がかすれた。微かに彼の肩が揺れたのに勇気を得て、呼びかける。
「角松さん」
角松は立ち止まり、振り返った。応じてくれたことに草加は喜びを隠さずに彼を見た。草加を映す瞳に抑えきれない怒りが宿っているのを見つけ、草加は息を飲んだ。角松の拳はきつく握られ、彼が必死で自分を律しているのだと教えていた。
――わたしは、彼を傷つけた。
改めて草加は思い知った。角松洋介という人間の、意志と誇りと尊厳を、自分は土足で踏みにじったのだ。とても、許されることではない。自分が同じ立場になったなら、その存在を消し去ってしまいたくなるだろう。
それでも。
わたしは、彼を愛している。たとえどれほど憎まれ、拒絶されても。草加は自分の想いを認め、突き進むことを躊躇わなかった。どんなに身勝手といわれようとも。
ただ愛している。それだけは許してください。