宵待ち草の





 屈辱と、嫌悪。この2つの感情を克服するのは神ならぬ人間にはきわめて難しいことだ。たとえどれほど慈悲と寛容にあふれた人であっても、一度刻まれた傷は消えてなくなったりはしないのだから。傷口が塞がることがあっても、再生された痕が残るように。
 角松洋介は、草加拓海と過ごした一夜を努めて忘れるようにしていたが、ふとした瞬間に思い出し、誰でもいいから殴りつけたい衝動にかられることがあった。普段温厚な彼らしからぬ凶暴な衝動。その瞬間というのが主に性的な欲求不満に陥った瞬間であるので大変始末が悪かった。怒りで欲求がなくなるというのならまだ良いが、まったく逆、草加に与えられた快感や疼きや痛みなどがごっちゃになって彼を苛んだ。気持ち悪いだけではなかったのが、居た堪れない気分にさせる。
 二度と会わない。心の平安を保つ為には忘却以外の方法がなかった。



 角松と再会した駅で、草加は彼を待っていた。あの日が偶然だったのか、角松自身が草加を避けているせいか、二度と会わないと宣言された夜以来、草加は角松と会えずにいた。
 残酷な言葉がもたらしたショックから立ち直るのは、早かったと思う。草加は失恋を忘れようと仕事に打ち込み、人恋しくなればその手の男たちが集うところに行った。そこは一夜限りの恋を本気にさせるつもりの男たちが軽口を叩きつつ恋を語らっている。ことが恋愛がらみになるとロマンティックなのは女ではなく男のほうだ。
 会話を楽しみ、酒を交わし、視線を絡ませて互いをその気にさせる。慣れた夜のはじまりだったが、場所を移動した途端、草加は夢から覚めたように唐突に冷えた。目の前の男は誰かに似ている。黒い短髪、黒い瞳、がっしりとしたたくましい肉体。朴訥そうに、やわらかく笑う。草加好みの男だ。なのに。

 ――この男は、私の好きな人ではない。

 悲鳴にも似た内心の声が草加を凍りつかせた。欲しているのは目の前の彼ではないと訴えている。
 結局草加はそこで男と別れた。自分の片恋の苦しさに苛まれながら、たった一回の角松との夜を何度も反芻しながら、草加は再会した駅にこうして立っている。一縷の望みにしがみつき、会ってどうしたいのかも曖昧なまま。



「そういや洋介、聞いた?」

 昼休みがとっくに終わった食堂で、独りさみしく弁当をつついていた角松に声をかけたのは親友の営業部係長だった。言いながらおかずを盗もうと手をだしてくるのを制し、何がと角松は聞き返す。腹が減っているせいだけでなく不機嫌な総務課長はいつにも増してそっけなかった。彼の昼休みがここまで遅れたのは会議が無駄に長引いたせいだ。おかずがダメとわかるとわかると尾栗はわかめごはんのおにぎりに手を伸ばした。まったく悪びれていないのは長年のつきあいだからだろう。中身の具は昆布の煮付け。渋いセレクトである。もうひとつある弁当箱にはデザートだろうフルーツサンドまで入っていた。どちらも角松のお手製だ。

「駅で待ってる男がいるって噂」
「なんだそれは」
「俺らとは反対側の、繁華街のほうの改札に、いつからか男が突っ立ってるんだってよ。毎晩終電までいるらしい」
「新手の都市伝説か?」
「実在しているらしいぜ。俺は見たことないんだが、社内掲示板のネタになってる」

 主に女子社員の間でだが、人待ち顔で立つ男は毎日のようにいるのに、男を待たせている相手は一向に現れないらしい。それがいい男なものだから、よけいに盛り上がっていた。死んだ恋人を待っているというものや、夜にしか現れないから幽霊だという話まで。いつの時代も女性というのはあることないこと妄想するのが好きである。
 角松は笑った。怪力乱心を語らずというが、角松はこの手の話を信じなかった。苦笑に近い笑みは、だからそんな噂話にではなく、そんな話で気を紛らわせようとしてくれた親友の心遣いへの感謝の笑みだった。
 気づかいはありがたいが、話せないし相談も無理だった。あんな経験をどう話せばいいのか検討もつかない。角松は草加を忘れようと仕事に取り組み、考える暇などないようにいろいろなことをして時間を潰していた。やたらと凝った弁当を作るのもその一つだ。

「…で?」
「で、今夜飲みに行かねえ?」

 余計な詮索はしないが放ってもおけない尾栗らしい誘いだった。噂を確かめるついでだという言い方に、角松はうなずいていた。アイツとは酒で失敗してしまったけれど、親友ならばそんな心配は無用だ。未だじくじくと痛む傷を、角松は他のことで癒し始めていた。