ハート・オブ・ゴールド





「疲れた…」

 布団に潜り込むなり呟いて、角松は目を閉じた。すぐさま眠りが押し寄せてくる。今日も一日忙しかった。それこそ草加のことなど思い出す暇もないほどに。
 角松について、草加はあまり間違ってはいなかった。彼の体は染み付いた快感の残骸を惜しむように持ち主に疼きを訴えたが、それをなんとかしようとする以前に角松は多忙を極めていた。充分すぎるほどに疲れる毎日を送っていた。もし暇であったとしても、体が疼くたびに思い出すのは快感だけではなく屈辱と怒りの記憶でもあったのだから、会いに行ったとしても草加を殴って終わりだろう。
 草加と会った日、角松は彼にすぐに打ち解け、親しみをもったから、その分裏切られたという思いも強かった。草加が正直に告白でもしていたのなら角松も困惑しつつもそれなりに応じただろうが、草加はそれすらしなかったのだ。だまし討ちともいえる卑怯な手段を角松は許すことができない。草加はその手口にずいぶんと慣れているようだった。不自然なところなどなく、だからこそ騙されたのだ。
 しかし、反対に、キスは拙かった。人を好きになったことがないと言った根拠はここにある。相手を見つめ呼吸をはかり距離を無くす行為には限りない許容が必要となるからだ。尾篭なところを述べてしまうなら性行為など行わなくとも、快楽を得ることはできるのである。逆に、キスはひとりではできない。草加はロクに、本気で誰かを求めたことがないに違いない。ならば角松が会いに行かなければならない理由はどこにもなかった。遊びで求めてくる相手など、放っておくに限る。忘れることは難しいだろう、しかし時が経てば笑い話くらいにはなりそうだ。


 携帯電話のチェックをして、草加は嘆息した。眠る直前まで、草加は角松からの連絡を待っているのだ。今日も、なかった。明日はどうだろうか。待ち始めた当初こそ意地と見栄があったものの、今や切実な想いで彼は角松からの声を待っていた。じりじりと何かが削り取られていくような焦燥感が増していく日々。こんなことは初めてで、草加にはどうしたらいいのかわからなかった。
 角松を探し出したくとも、角松洋介という名前しか草加は彼に関することを知らないのだ。他愛ない話はあの日尽きることがなかったが、どこに勤めているか、どこに住んでいるか、肝心なことはでてこなかった。それも角松の話術だったのだろうか。
 まったく動転している草加は、過去に一度だけ角松からの着信を受けたことを失念していた。そこから彼の携帯電話に繋がることなど気づきもしなかった。直接会うためにはどうすればいいかのみを考えていた。
 角松に会いたい。彼は確かに正しかったのだ。他の誰と別れた時にすら、このような気分を味わったことはなかった。玩具に飽きるように淡々と別れ、また新しい恋人を得てきた。泣いたことなど一度もなかった。なのに角松を想うだけで、眼の奥が潤んでいくのだ。


 再会は出会った時と同じように唐突にやってきた。友人と笑いあいながら歩いている角松洋介を発見して、草加拓海は立ち尽くした。
 ハッとして駆け寄った草加に、角松は友人につられるように視線をむけたが、表情ひとつ変えることなくそのまま通り過ぎて行った。まるで見知らぬ他人を見るような瞳に、草加は声をかけることができなかった。
 愛情の反対語は憎悪ではなく無関心であるといったのは誰だったろうか。その通りだと草加は思った。なんらかの感情を与えられているのは自分を認識されているということでもある。無関心ほど虚しいことはない。
 草加はとぼとぼと彼の後を追った。角松は友人と共に地下鉄へと降りていく。薄暗く狭い階段を通り、売店すらない改札を抜けていった。草加はとりあえず終点までの切符を買い、角松に続いた。
 騒音をたてて電車が滑り込んでくる。ホームに佇んでいた人々が機械的に乗り込んだ。その波にあわせて乗り込んで、草加は眼の端に角松を捉え続けた。酒が入っているのか、楽しげな顔で友人と話をしている。内容は聞こえてこない。地下鉄の騒音は無作法な話し声よりも大きかった。笑顔を向けられているのが自分ではないという事実が無性に腹立たしかった。
 やがて友人と別れ、角松が電車を降りた。ひとつ離れたドアから草加も降りる。
 外に出ると、地下鉄から吹き上げる生温かい風が機械油の匂いをさせながら外気に散っていった。ひやりとした空気にほっとする。ばらばらに歩いていく人々の背中に角松が含まれていないことを見て、草加が焦った一瞬後、ガコンと自動販売機から音がした。角松洋介が、缶コーヒーを両手に持って立っていた。まっすぐに、草加を見つめている。

「あ……」

 一歩、二歩、三歩。近づいてくる。彼の表情は険しかった。
 無言で差し出された缶コーヒーを草加も無言で受け取った。その時、ほんの僅かに触れ合った指先のあたたかさに、草加は心から安堵したのだった。ああ、やっと見つけた。
 草加は言った。

「…あなたが好きです」

 角松は否定も肯定もせず、ただ「そうか」と言っただけだった。いとしいひと。草加は自分の心の在りかを確信する。手の中で冷え始めた缶コーヒーに口をつけた。砂糖とミルクのたっぷりと入っているコーヒーの甘さに、ぽつぽつと塩味が零れ落ちた。