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彼はやはり、草加の目にはひとり違う色を放っているように見えた。あの夜とはまたガラッと変わったラフなジャケットとパンツ姿にもかかわらず、ひとめでわかったのだ。あの夜と同じようにアクセサリー類は一切身につけておらす、その肉体だけで自己主張をしていた。腰までしかない短めのジャケットからのぞく形の良いラインに草加は目を細めた。近づいていくと、好奇心と期待に満ちた瞳を角松は輝かせた。
「こんにちは、角松さん」
草加は一度だけ聞いた彼の名前を忘れてはいなかった。
「草加…拓海さん?」
「はい」
草加はにこやかに笑った。意外そうな顔の角松に、少し意地悪く問いかける。
「覚えていませんか?」
「…道を教えてくれた、親切な人だ!」
今度は草加が驚く番だった。思い出すとは思わなかった。角松はつい指差したことを恥じるように頭を捻った。
「あれ?名刺をいただきましたっけ?」
「いいえ」
「?」
くすっと笑って草加は角松の腕を引いた。嫌がるでもなく角松は並んで歩き出す。
「実を言うと、こっそりポケットに入れておいたんです」
「こっそり?」
角松は目を丸くして聞き返した。彼は不思議そうに草加を見つめ、それから苦笑した。冗談まじりに言う。
「…つまり俺は、ナンパされたってことか?」
まさかそれが的を得ているとは思いもしないだろう。草加は大声で笑い出したくなるのを堪え、そうなりますねと澄ましてうなずいた。与えられた好意に角松はやわらかく微笑んだ。まったく屈託のない笑顔だった。
「で、どこに行くんだ?」
「映画でもどうですか?」
「いいぜ。ちょうど観たいと思ってたのがあるんだ」
角松のリクエストは広辞苑かよと文句のひとつもつけたくなるような分厚さを誇る、有名な推理小説を映画化したものだった。草加は嬉しくなった。彼自身は原作派なので映画化されたものを観る事はあまりないのだが、同じ本のファンである事実が純粋に嬉しかった。
「いいですよ。その後は食事して飲みに行きますか」
「…まるっきりデートだな」
「ラストは私の部屋です」
くっと角松は肩を揺らした。本当に定番のデートコースだ。その後、自分の身に起こる災難など彼はまったく予想していなかった。草加は笑う角松を見ていた。まるっきり冗談だと思われている。油断させることに成功したというのに、どこか哀しい気分になるのはなぜなのだろうと考えた。