雨の日はフマジメなキスを
角松は窓の外を恨めしげに眺めていた。今日一日中、本格的な雨の模様。連日の晴天に乾ききった大地をやわらかく潤していく。つい昨日までは初夏の暑さだったというのに、一気にセーターが必要なほどの肌寒さが戻ってきた。
窓から部屋へと目を戻した角松が、言った。
「タイクツ」
ぐさっ。正直な感想が草加に突き刺さる。
実際、草加の部屋に角松が来ても、2人は何をするでもなくただぼんやりと座っているだけなのだ。角松の不満も無理はないだろう。
「な、何か飲みますか」
「もー腹たぷたぷだって」
それはそうだ。このやりとりも、3回目。角松が来た時にコーヒーを一杯。間の持たなさに2杯、すでに飲んでいる。
草加としては自分の部屋に角松が来てくれた(しかも角松から!)というだけで充分嬉しく、楽しいのだろう。だからといって角松も同じだとは限らない。むしろ、幾度となく通って来た恋愛の、はじめの一歩にすぎないといってもよかった。違うのは過去の自分の立場にいるのが草加であることくらいか。
逆になってみるとわかることもある。期待が肩透かしを食らうとがっかりするし苛立ってくる。その恥じらいと戸惑いを、可愛く思えるかこの甲斐性なしと思うのかはその時々なのだ。デートしませんかと誘ってきた時の草加は確かに可愛かった。けれど今の草加はダメな男の典型だ。このムッツリなカマトトめ。
角松は再び窓の外を見た。
「あ、虹」
「え?」
雨が降っているのに?首をかしげる草加にホラと角松が指をさした。
「どこですか?」
ようやく草加が隣に来たことで角松は許してやることにした。意地悪く笑ってネタをばらす。
「嘘だ」
「えぇ?」
そんな他愛ない嘘をつく理由がわからずにぽかんとした草加に、角松は座るようにうながした。?マークをつけた草加は素直に座る。
どことなく得意気な表情の角松を見つめ、草加もやっとこの至近距離に気がつく。すっと、頬が染まった。
「あ、あの…」
心臓の音がうるさい。恋愛は脳味噌でと言われて以来ずっとこんな場面を夢見てきたが、いざとなるとこのザマだ。小娘じゃあるまいし。だが角松には今までの自分では通用しないのだ。どうしよう。触りたい。脳味噌が沸騰して、爆発しそうだ。
「手…触っていいですか」
直球な要求に、角松が黙って手を差し出した。
そっとその手をとり、指を絡める。草加の手よりもわずかに大きい角松の手は、野球をやっているせいか手の平にマメができていた。少し、硬い。
草加が感嘆のため息を吐いた。
指を絡ませあい、撫でているうちにしっとりと汗ばんできた彼の手に頬を寄せる。わずかに緊張をみせたものの、振り払われることはなかった。
「好きだ……。大好きです」
「知ってる」
俺もだ、とまでは言わなかったが、角松は草加を拒否しなかった。手のひらや指先へのキスに、くすぐったそうに笑っている。
しだいにたまらなくなった草加が膝を進めた。
「…っ、草加……っ」
あっと思った時には歯止めがきかなくなっていた。身を乗り出し、角松に覆いかぶさるようにくちびるを重ねた。角松が硬直し、一気に力が抜けたのをいいことに床の上へと寝かせてしまう。キスを深くし、舌を舐めあげる。角松は応えなかった。かちかちと奥歯が鳴っている。
どうしたのだろう。照れているのかな。そんなに初心ではなかったはずだとあの夜に交わしたキスで知っている。不思議に思った草加は目を開けて、見た。
青褪めて緊張し、ふるえながらただ恐怖に耐えている角松洋介の姿を。
「…………っ!?」
慌てて体を離すと、角松がゆっくりと目を開けた。
角松自身、思いがけない自分の体の反応だった。まさかこれほど――過去の傷がこんなにも根深く残っているとは思わなかったのである。そうでなければあんなにあからさまに、草加を誘ったりなどしなかった。できなかっただろう。
「…ど、いて…くれ…」
「あ、…はい」
ふるえが治まっても衝撃は消えない。草加の体温が去り、心理的な圧迫感がなくなったところでようやく角松も身を起こした。呆然と、座り込む。
「…角松さん……」
ここまできての拒絶を、草加が責めることはできなかった。彼はあの夜のことを思い出していた。
暴力。まったく理不尽な暴力によって角松を陵辱したあの一夜。彼の意思を踏みにじり捻じ伏せて体の奥深くまで貫き、犯した。快感によって彼が自分から離れられなくなるように。
体は忘れない。草加の確信は現実となって証明された。ただし、草加の思惑とはまったく逆、甘美な快楽としてではなく、苦痛と屈辱の記憶として。
「…ごめんなさい、角松さん。…ごめんなさい」
繰り返される子供じみた謝罪。水底に積もったヘドロのように、わずかに触れただけでもそれは浮き上がり、黒く濁り視界を遮る。
ごめんなさい。消えることのない傷跡を埋めるように、涙が降りしきった。