……の人





 必要以上に疲れて帰宅の途についた角松は、今さらになって我が家に花瓶がなかったことを思い出した。どうしたものかと思ったが部屋はもう目の前で、買いに行くだけの気力もなかった。薔薇が重い。

「角松」

 ふいに肩を叩かれて、角松は飛び上がった。別にやましいことなどないのだが、あまり見られたくない姿である。
 相手は角松の様子にまったく頓着せず、こんなところで突っ立っているのは迷惑だとでも言いたげな目をした。

「あー…如月」

 如月克己は角松洋介の住む賃貸マンションの隣の住人だ。無愛想にすぎる男ではあるが、いい奴だというのが角松の感想である。その人物は角松と花束を交互に見比べ、納得したようにうなずいた。

「…男からか」
「…っ、なんでわかった!?」
「女からならばもっと自慢げにするだろう」

 その通りなのだろうが、見抜いてほしくない。如月は特に何の感慨もうけることなく肩に乗っている白猫を撫でた。この猫、名前を日本という。なんでも貰った先でなんという猫だと尋ねたところ日本猫だと教えてもらったというから素直なのかひねくれてるのかよくわからない男だ。

「そうだ如月、花瓶持ってないか?」
「ない」

 如月の簡潔すぎる返答に角松は佇んでしまった。ぴゅうと肌寒い風が2人の間を行き過ぎる。さすがに説明不足だと思ったのか、珍しく付け加えた。

「日本がいるからな」

 角松にはやはり説明不足だったが、猫のいる家ではあまり花を飾らないものだ。猫が悪戯をして、花を齧ったり花瓶をひっくりかえす可能性があるため、猫飼いは用心するのである。

「そうか…」

 困った、と薔薇を抱えて途方に暮れた角松に、如月が言った。

「どうせなら、食べたらどうだ」
「どうやって」

 漫画じゃあるまいし、薔薇の何を食べろというのだ。如月は繊細な指で薔薇を撫でた。

「ジャムにすればいい。たいして美味くないが、香りは残る」

 気に入らなければ会社の女子社員にでもやればいいだろう。なるほど確かに、それなら後腐れなく薔薇を始末できる。萎れて捨てるだけにしてしまうには、あまりにも立派だ。

「…そうか、じゃあやってみよう」
「なんなら相手の男に贈ってやったらどうだ?喜ぶだろう」
「喜ぶか?普通…」
「あんたは放っておくと何も考えずに箱詰のハムとかをお返しに選びそうだからな。そんなものを贈るやつなら、あんたの手作りを涙を流して喜ぶだろう」

 如月は真剣だった。いくら俺でもお歳暮じゃあるまいし、ハムなんか贈らんぞと思った角松は、お返しをすべきなのかどうか悩んだ。両手に余る真紅の花束。草加はある意味オーソドックスに想いを伝えてきたのだ。これに返事を返したら、それはどういうことになるのだろうか。
 部屋に帰り着き、如月の教えてくれたレシピにしたがって完成させたジャムを前に、角松は決心をした。
 ハムにしとこう。