痺れるほど幸せ
その日、草加は息子のおむかえに遅れた。
もうすぐ退社時間という頃になって、取引先から電話が入ったのだ。あれこれと指示をだしやり取りをしている間に時間は過ぎ、気がつけばおむかえの時刻をとうに越えていた。大慌てで退社し電車に乗り込んだのだがこれがいけなかった。電車内での携帯電話のご使用はご遠慮ください。角松に知られたら怒られるだろう。そう思ったのだ。
だが。
「…………」
角松は怒っていた。
「遅刻です」
幼稚園が子供をあずかる時間はあらかじめ決められている。延長保育ももちろんあるが、どんな場合においても連絡は必須だ。ほったらかしにされたらあずかる側が困るのである。
「すみません。仕事が急に入ってしまって」
「電話の一本もできないほどですか」
「…すみません」
「お宅に電話したところ奥様が出られて。驚いていましたよ。洋介くんは奥様におむかえに来てもらいました」
奥様。妻と彼が顔をあわせたという事実に草加は焦りを覚えた。
「電車でケータイを使うのも」
ためらわれて、というのを遮る角松の静かだが威厳のある声。
「奥様にちょっとメールするくらいはできるでしょう。うちにしても何の連絡もない延長は規則違反です」
「はい…」
「以後は気をつけてください」
「はい」
草加は素直に頭を下げた。はじめこそ彼は焦り、うろたえていたのだが、今では恍惚となってしまっていた。好きな人から叱られる。それがこんなにも心を痺れさせるものだとは思わなかった。今このとき、余人を交えずに角松を独占しているのである。角松はなるべく草加の面子を潰さぬよう気を使いながらも言うことは言ってくる。まっすぐに草加を見つめ、自分の言葉をしみこませるように。
「洋介くんのお父さん、わかりましたか?」
「拓海です」
結局のところ角松は洋介くんに謝ってくださいねと叱り付けた後、お仕事お疲れ様でしたと笑って締めくくってくれた。
帰り道をてくてくと歩きながら、草加は角松を反芻した。甘い余韻が全身に鳴り響いている。
拓海です。知っているでしょう?もしそう言ったなら彼は、どんな反応をするのだろう。
この日を境に草加はわざと角松を怒らせて、叱られる快感を求めるようになった。