先生の日常





 角松先生は、保護者に人気がある。常に穏和で見るからに頼りがいがあり、相手の気持ちを重視し理解してくれる。まさに先生の鑑のような男だ。
 それは平和な生活を営んでいてそれを手放すつもりなどまったくない恵まれた主婦をも虜にしてしまう。本人に自覚がないのがまったく罪である。
 子供にも保護者にも人気の角松先生。仕事が休みの日でも、お母様方にかこまれていろいろと育児相談を持ちかけられているらしい。
 草加が「話がしたい」とさりげなく誘ったら、かれは邪気のない笑みをうかべて快諾した。働くお父さんは、いろいろと悩みがおありでしょう、自分でよければ相談に乗りますよ。にっこり。
 草加の「話」を当然子供についての話だと思い込んでいるかれに、他に何が言えるだろう。結局草加は社会のなかで育児に積極的であることをやっかまれているだとか、嫁の仕事を理解しているが子供にとって母親が夜まで働いているのは寂しかろうなどといった、ほとんど愚痴と変わらないことをつらつらと語るしかなかった。角松は終始うんうんとかれに同意し、ねぎらってくれた。近所のうるさ方に言われるような、どこか悪意のある物言いは一切なかった。

「どこの親御さんも、理想と現実のギャップに悩みますよ」

 「教育」の理想は果てしなく、しかし子供は怪獣だ。上手くいくことなどありえないと思っていたほうがいいのだからあなたの悩みは当然だ。子供や嫁にやつあたり気味に接してしまい自己嫌悪なんて、それはあなたが父親として成長している証拠でしょう。母親とは違いこれといった自覚のないまま「父」にならざるをえない男は、父親になるために苦しまなければならないのだ。

「大丈夫。洋介くんは、ちゃんとあなたを父親にしてくれますから」

 ちょっと悪戯っぽい瞳の輝きに草加の胸は高鳴った。あなた。洋介くんのお父さん、ではなく。あなた、と呼んだ。なんだか一歩、親密になった気分だ。

「か…」

 角松さん。先生ではなくかれの名前を呼ぼうとした草加は、しかし無粋な携帯電話の着信音に阻まれた。角松の携帯。着信音は某有名教育番組のオープニングテーマだった。
 はい。はい、ええ…。これからですか?今、洋介くんのお父さんと一緒です。え?ちょっと待ってください。
 角松が申しわけなさそうに、これから○○ちゃんのお母さんたちが会いたいといっているんですけど、どうしますか?
 私もですか。草加は困惑した。しかし二人きりのほうがいいなどといえば、噂好きのお母さん連中に何と噂されるかわからなかった。仕方なく、了解する。



 角松先生は保護者に人気がある。あっというまに集合した女性陣にかこまれた先生と話をすることもできなくなった草加は、ひたすら相槌を打つだけになった。
 かれはにこにこしている。あれこれとお喋りの弾む女性陣は疲れを知らないように楽しげだ。たっぷりのお喋りが女の一番のストレス解消とはよく聞く話だが、どうやら本当らしい。しかし男にしてみればひたすら苦痛なだけだ。
 ようやく解散となった時、先生がそっとため息を吐いたのを草加は見逃さなかった。さりげなく手を引き、小声でささやく。今度、二人で遊びに行きましょう。あなたは抱え込みすぎる。角松は一瞬驚いた表情をしたが、すぐに安心した笑みを浮かべた。
 ありがとうございます、ぜひ。ねぎらいに対する感謝と、気づいてくれたことへの感動の籠もった瞳。いかに仕事とはいえ、プライベートまで他人に侵食されて平気でいられる人間はまずいないのだ。特に、傍若無人な奥様方になど。