その男、妻子持ちにつき





 草加拓海が毎朝息子の幼稚園送迎をかかさないのには、わけがある。

「洋介くんのお父さん、おはようございます」
「拓海です」

 息子と同じ名前を持つ保育士。彼とこのひと言を交わすためだ。
 保育士というよりはどこかのプロスポーツ選手にでもなれそうな体格に、にっこりと、どこかがあたたかくなるような笑みを浮かべる彼に、草加は恋をしている。
 拓海です。毎日名乗っているにもかかわらずかの人は彼を「洋介くんのお父さん」と呼ぶ。あくまで一線をひいた、つれない態度だがそれでも草加は満足だった。いってらっしゃい、と誰が言うよりも元気が出るひと言を、与えてくれる。それだけでも十分だ。あまり贅沢をいって、彼の立場を悪くするのは本意ではない。
 角松は草加を園児の保護者としてしか認識していないのだから立場が悪くなるような噂がたつはずがないのだが、草加は草加なりに気を使っていた。いずれ彼との蜜月を過ごすつもりの男としては当然だ。
 いい子でいなさい。息子の頭を撫でてから彼は会社に行くべく満員電車に乗り込んだ。狭苦しく緊張した空気のなかで、彼としてみたいアレコレを妄想する。誰もいない夜の幼稚園で、彼は園児たちの玩具を使って草加に翻弄され続けるのだ。子供たちが羨ましいですよ、ねえ、次は何をして遊びましょうか。涙で潤んだ黒い瞳が草加に懇願する。もう、おいたしないでくれ。早く。
問題はいかに嫁と息子をなんとかするかだ。離婚してもいいがそれでは角松が納得すまい。
 草加は悩んでいる。まずはなんとかして、彼に名前を呼んでもらわなくては。