白墨





 カリ、と地面に音をたてて、子供が絵を描いている。
 手に握られているのは白墨代わりの白い小石らしい。自分にも覚えのある独り遊びに懐かしくなり、角松は笑みを浮かべて子供に近づいた。白く薄い線を踏まぬように爪先たてて。

「何を描いてるんだ?」

 声をかける。子供は顔もあげずに熱心に手を動かしながら答えた。

「世界地図!」

 弾むような元気な声だ。思いがけない壮大な回答に、角松の笑みは深くなった。
 子供は日本を中心にあちらこちらへとぴょんぴょん移動し、子供なりの世界を描こうとしている。カリカリと音をたてながら。手の中の小石は身を削り、とうとう子供の爪先ほどになってしまった。
 代わりの石を探すのかと思っていたら、子供はそれをポケットにしまいこみ、描きあげた地図を踏まないようにと先程の角松と同様爪先立てて歩いてきた。
 見覚えのある、幼い顔。

 ――あれ…?

 俺じゃないか。角松の驚愕をよそに幼い角松洋介はかれに向かって歩いてくる。そしてかれの隣に立つと、手を差し出した。
 後ろに誰かがいたのかと振り返ると、顔なじみといっていい間柄にまでなった特務士官が相変わらずの無表情で立っていた。

「…足りなかったのか?」

 あきれたような、それでいてどこか嬉しそうな色を滲ませた声で如月が言った。幼い角松洋介はうなずく。
 いかにも仕方がなさそうに如月は左腕を掴んだ。漆黒の第一種軍装の袖口が、はたりと揺れた。まるでその下が存在していないかのように。
 まさか。目を見張った角松の耳に、ゴキンと鈍い音が響いた。
 如月がソレを袖から引き出す――肩から外された上腕部。それをかれは子供に差し出した。幼い角松は嬉しさを堪えきれない笑顔で手を伸ばす。
 角松の見ている前で子供は赤く生々しい筋肉の筋さえ見える血の滴る腕を受け取った。途端、それが白い骨に変わる。
 子供は礼も言わずに駆け出して、また地図を描き出した。

 カリカリ。カリカリ。カリカリ。

 削られていく音。
 代わりに引かれていく線。

「…………っ」

 止めさせようと一歩足を踏み出した角松を、如月が引き止めた。カリカリと耳障りな音が続く。

「…邪魔をしないでやってくれ」
「…っ、おまえ、どうして!」

 如月は角松の激昂を理解できないというように僅かに首を傾げた。

「一生懸命やっているのに、止めるのか?」
「だからって、おまえがそんなになっていい理由なんかあるかっ」
「私が望んだことだ」

 カリカリ。カリカリ。カリカリ。

 音が止み、大人の葛藤など知らぬ無邪気な顔で子供は再びちいさな手を差し出した。

「…完成できそうか?」

 幼い角松洋介はうなずいて、世界地図を指し示した。褒められるのを待つ、得意げな表情。
 如月は地図を眺め、眩しげに目を細めた。

「ああ、綺麗だ。とても、綺麗だな…まるで××××のようだ」

 そして右手を差し出す。子供がその手を取ろうとした。如月の右手。いつも角松に向けて差し出されていたその手を当然のように。骨にして自らの世界を描く、ただそのためだけに。
 カッと頭に血が上った。子供よりも早く如月の右手を捕まえ、抱きしめる。相手は自分だというのに角松は嫉妬していた。

「だめだ!!」

 瞬間。
 ふっと腕の中の体が消えた。カラリと軽やかな音を立てて足元に崩れていく。如月克己という肉体をつないでいたパーツ。白い骨。

「……きさら……っ!?」

 驚愕する角松をよそに子供は骨を拾い上げた。細長い、おそらくは右手の人差し指。ちいさな手にしっくりと収まった第一関節。
 そしてまた描き出す。かれの骨を削って。カリカリと音がする。理想の世界が描かれていく。
 呆然と白骨を見つめながら、角松にはわかった。自分がこうしたのだと。
 角松洋介が触れるたび、如月克己は削られていくのだ。

 ――如月。

 かれは何と言ったのだろう。まるで何のようだと言ったのか。遺言のようなその単語が思い出せない。それが完成する前に、如月は骨になってしまった。
 子供は熱中して描き続けている。
 何のために。誰のために。もう如月はいない。見てくれる人のいない世界を。
 ひとりで。










「莫迦げている」

 無線から伝わった如月の言葉は角松を一刀両断した。

「そんな莫迦げた夢で人を起こすな」

 不機嫌そのものの声。夜中に緊急用の無線で呼び出され、何事かと聞いた内容が夢の話では、如月の不機嫌ももっともだった。

「…不吉だったから、気になった」
「…その夢でいくと私を殺すのはあんたということになるが?」
「…………」

 そうだ。
 そうなのだ。如月の骨を削るのは子供とはいえ自分であり、最後に骨だけにしてしまうのも自分だった。角松は返す言葉もない。
 無線の向こうでため息を吐いている気配。
 考えたことがないわけではない。かれに言えば任務の答えが返ってくることも予想できる。なあ、如月。俺はおまえを犠牲にしているんだ。任務を隠れ蓑に、信頼されていることを盾にとり、おまえしかいないと言い訳をして、俺はおまえを危険に晒している。その後ろめたさが見せた夢だろう。

「…如月――」
「…角松、今は私のことより自分たちのことだけを考えろ」
「如月、俺は…」
「…私は少なくとも、あんたたちより安全だ」

 心配するなということか。確かに監視され軟禁されている自分たちよりも、自由行動のできる如月のほうが安全だろう。違う。そうじゃないんだ。俺が言いたいのはそんなことじゃない。

「俺はお前を犠牲にしている」
「犠牲?」

 繰り返した如月の声が硬くなった。くだらんことを言うなと言う。わかってる、如月は任務というだろう。任務。まるで免罪符のような言葉を。

「角松、あんたまさか忘れたのか?」
「………え?」

 しかし如月はその言葉を言わなかった。予想外に問いかけられて角松の目が丸くなる。

「……何を?」

 なんのことだ?何を忘れたというのだろう。無線機の向こうで今度は如月が押し黙ってしまった。
 やがて、言った。

「…私の命がなくなれば、あなたを守れない」
「あ………」

 そうだ。
 如月は確かにそう言ったことがあった。大連から新京へと向かう汽車の中。二人が同時に命の危険に晒されたらどうするのかという角松の問いに対する如月の回答。しかしここでその言葉を与えられるとは思わなかった。

「そうか…」
「そうだ」

 如月は力強く言い切った。
 じわじわとあたたかいものが込み上げて、不安を侵食していく。如月はさも当たり前のように言った。
 あの時とどれほど状況が違おうと、二人が遠く離れていようと、それだけは変わりない。

「そうだよな」
「そうだ」







 カリカリ。カリカリ。
 やがて手を止めて、子供は満足感で顔を輝かせた。後ろで自分を見守ってくれているほずの人を振り返る。

「できたよ、見て。ほら、これが俺の――――」

 足元には広大な世界地図。ちいさな島国が黄金色に輝いていた。