タマゴとニワトリ










 どうして子供は勉強をしなくてはならないのか。
 子供にとってこの疑問は永遠の命題である。
 中学三年生の角松洋介も例外ではなく、受験生だというのに壁にぶつかった彼はそれらの問題すべてを投げ出すことにした。嫌気がさした。勉強も先生も嫌い。思春期特有の癇癪かもしれないが、なにもかもが面倒だった。
 ようするに角松洋介は、勉強を放り出したのである。
 当然のことながらそれは成績へと容赦なく跳ね返り、優等生の反乱に先生方は色めき立ち親は悲鳴をあげた。
 如月克己が見たのはぶすったれて可愛げのない、体格だけは立派に育った元・優等生だった。

「如月克己です。よろしく角松さん」
「…………」

 角松は反抗的な目で新しい家庭教師を睨みつけ、挨拶にもこたえなかった。ちなみに如月の前には3人もの家庭教師が雇われており、もともとの出来がよかった角松は彼らをお役御免にしてしまっていた。頭が良いのに成績が悪いのは、彼がまともにテストを受けないからである。そんなわけで成績のあがらない原因は家庭教師におしつけられ、追い出されるはめになる。藁をもつかむ思いで探し出した如月は、東大医学部というぴかぴかの看板を持っていた。
 で、冒頭の問題である。

「私が教えるのは数学であって、哲学ではない」
「別に数学の成績が悪くたって、死なねーもん」

 如月が出したプリントをぷいと顔を背けて見向きもしない。やる気なしを言葉でも態度でも示すクソガキに、如月は

「…………」

 腹を立てつつも内心では秘かに笑っていた。如月にしてみても覚えのある疑問であり、とっくに乗り越えた壁であるからだ。ひねくれつつも素直な角松が可愛くもあり、おかしくもあった。
 如月の場合、感情が表情にあらわれることはめったにない。ぴくりともしない表情筋に角松がわずかに怯んだのを見逃さず、彼は「わかった」と言った。

「答えを教えてやろう」
「えっ?」

 如月はプリントを裏に伏せ、教科書を閉じ、角松には移動を命じた。

「そこの壁をずっと見ていろ。何を考えてもいいし、目を閉じてもかまわない。ただし、寝るな」
「な……っ」

 何でそんなことをしなくちゃならないんだ。角松はいかにもおざなりな態度の如月に怒りを覚えたが、そもそもの言いだしっぺは自分である。反論を飲み込み、しぶしぶだが従った。

「…………」

 なんだよアイツ。角松は見慣れたリビングの壁を睨みつけながら苛立ちを並べ立てた。教えてくれるというのならさっさと言えばいいのに、こんなまわりくどいやり方をして何になるんだ。
 背後で如月の動く気配がした。ついでパラリと紙をめくる微かな音。ひとにこんなことをさせておいて自分は読書でもしているのだろうか。むかついた角松はつい目を動かして、如月を覗き見しようとした。

「角松さん、目」

 すかさず如月の制止がとんできて、角松はあわてて視線を戻した。心臓がドキドキしている。てっきり読書をしているのだと思っていたが、では、彼は何をしているのだろう。
 何もしないということすらできないのか。むかつく男に偉そうに批難されるのが嫌で、角松はじっと壁を睨みつけていた。
 頭の中でイライラを考えていたが、怒りはそう持続しない。しだいに角松は違うことがしたくなってきた。
 一体どれくらいの時間が経っているのだろう。
 数分しか過ぎていないような気がするが、もっと長いような気もする。壁の模様を数えたり秒を測ってみたりしてもすぐにやる気がなくなっていく。もぞもぞと体を動かし、無意味に手を組んでみたりする。立ち上がり、後ろを振り向きたい強い衝動。何もしない、ということがこれほど苦痛だとは思わなかった。振り返るのは負けを認めるようで悔しい。もう何でもいいから違うものが見たい。この際、数学のプリントだってかまわない。

「………っ」

 思い切って立ち上がった角松が如月を振り返る。決死の表情をした中学生をよそに、冷静な医大生は腕時計を見やって、

「5分」

 と、言った。
 5分。あの長い時間がたったの5分だったと知り、角松はショックを受けた。時間の推移の違いをこれほどはっきり自覚したのはこれがはじめてである。
 悔しげにくちびるを噛み、馬鹿にされると身構えた角松だったが、如月は特に感想を述べずにもうこれで解答は教えたとばかりに先ほど裏に返したプリントを表にした。

「まずは2年のおさらいからだ」

 優等生だった角松は3年生になってから生徒会長を務めている。勉強に嫌気がさして授業をまともに受けていなくても、基本的なことはきちんと理解していた。さっと問題を解いてみせた角松に如月はしばらく考え込み、どういうつもりか赤ペンで花丸をつけた。

「…授業についていけないから勉強が嫌いになった、というわけではなさそうだな」

 そう、角松が勉強も授業も放り出したきっかけは別にある。だがそれを、会ったばかりのむかつく大人に相談したくはなかった。如月も深く聞くつもりはないようで、参考書の問題を角松にやらせていった。
 初日のこの日は淡々と終わったが、帰り際、あれは何の意味があったのだと角松はたずねた。ただ壁を見ていただけでわかれというほうが無理である。

「…ああ」

 如月はわずかに首をかしげた。角松が自分よりもずっと若い、中学生にすぎないということを忘れていたような顔をした。

「新しいことを知る、というのは人間のもつ原始的な喜びだ」

 如月は言った。今まで角松が疑問をぶつけたどの先生とも違う答えだった。義務教育というのは親が子供に教育をさせる義務であり、大人の義務である。子供に責任をおしつけるという意味ではない。子供の仕事は勉強をすること、というのは大人の理屈だ。

「ひとは知ることを喜び、次には追求したくなる。追求して辿り着いた結論は自分そのものだ。だからそれを、誰かに伝えたい、と願う。それが教育だ」

 如月は角松の真っ黒な瞳と視線をあわせた。

「何もないという状態にどんなに強い人間でも耐えられない。新しいことを知りたいと思い、それを喜ぶことができるのは、人間だけだ。角松さん、わかるか?」
「……うん」
「それが答えだ。角松さんだって、楽しいと思ったことを友達に教えて一緒にやりたいと思うだろう。学校は勉強に限定してついでに団体行動も教えようという社会を縮小したシステムだ。大人は子供に、自分が楽しいと思ったことを教えたいんだ。そうせずにはいられない」

 人間だから。
 ぽかんと見上げる角松に如月は無表情のまま、ぽん、と頭を撫でた。



 角松は如月に言われたことを考え続けていた。本当に先生方は楽しんで授業をしているのだろうか?傍目には真面目な生徒に戻った角松に教師は喜び、熱心に授業を進めた。そういえば角松はよく先生に話しかけられる。角松だけではなく、成績上位者はおおむね先生方には人気があった。贔屓だといってしまえばそれまでだが、そうか。角松はなんとなく理解した。勉強を教えることを喜びとしている教師ならば、よりよく理解してくれる生徒に好意を抱くのはむしろあたりまえだ。





 角松が如月に、勉強嫌いになったきっかけを打ち明けたのは、彼の授業をうけて一週間後のことだった。
 そのころには角松もこの無表情で必要以上のことは話したがらないものぐさ男が、わざとそうしているのではなく地であることに気づいていたし、必要だと判断したら言葉を惜しまないということも理解していた。むしろ如月がちょっとでも表情の変化を見せたら良いことがあるかもと思うくらいだ。無表情のせいで損をしているが、信頼と尊敬に値する大人。それが角松が如月に下した評価だった。

「体育祭の後片付けの時にさ、同じ3年で話もしたことなかったヤツなんだけど、そいつが通りすがりに言ったんだ」

 ――生徒会長は内申が良くなるから楽できていいよな。

「そん時はびっくりしただけだったんだけど、後から気になってきちゃって」

 内申書や成績評価など、高校の推薦に有利と思われるかどうかなんて角松の頭にはなかった。生徒会長になるには本人の立候補のほかに数人の推薦が必要となる。角松はむしろ推薦するからと友人や生徒会執行部に言われて選挙にでたのだ。2年生の角松は生徒会で会計係を務めていた。それに対して、そいつはそもそも生徒会役員選挙に立候補すらしなかったのだ。

「確かにその通りではあるんだけど、考えたこともなかったからショックだったのかな。だんだん苛々してきてさ」

 言葉ではうまく言えないわだかまりが胸の中に生まれ、あっというまに膨らんだ。気にする必要はないことくらい頭ではわかっているのだが、どうしてもできないのだ。どうしてあの時何も言い返さなかったのか。たとえ言い返したとしても相手も反撃してくるだろう。言い負かされるのが恐かったわけではない。もやもやがこんがらがって、なにもかも嫌になってしまった。
 如月は、なんて言うだろう。期待をこめてちらりと見やる。無表情の如月はさっきまで角松が解いていた問題集に丸をつける手を止めた。

「よくあることだ」

 正直ムッとした。

「なにそれ」
「どこにでもあることだ。困ったことに、そんなことは大人になってもついてまわる」
「…そうなの?」

 どうやら馬鹿にしたわけではないらしい。角松は尖らせたくちびるを引き締めた。
 如月はうなずいた。問題集を閉じ、赤ペンに蓋をする。

「大人のほうが陰湿だったりするぞ。自分を幸せにするより他人を不幸にすることを楽しむやからはどこにでもいる」
「やな趣味」
「そうだな。それで、角松さんはどうしたいんだ?」
「え?」
「そいつに復讐したいのか?それとも仲良くしたいのか?」
「え、別にどっちでもない…けど、このまま俺だけが嫌な気分っていうのが嫌なだけ」

 また陰で何か言われるのではないかと思うと気鬱になる。警戒ばかりして人間不信に陥りそうだ。

「誰かに打ち明けて愚痴を吐き出すのが一番なのに」
「そうだろうけどさー…。噂になるのも面倒だよ。友達に言ったら絶対クラスに広まっちゃうもん。俺は何事もなく卒業したいの!」

 親友の顔を思い浮かべて角松はちょっと嬉しそうな、それでいて呆れたような表情になった。尾栗は義侠心にあふれたいいヤツだが喧嘩っぱやい。菊池は理性的だがけっこう極端なので冷たく静かに攻撃するだろう。どちらにせよ親友ふたりが動けば角松に何かあったと予測がつくのだ。

「悪意というのは鋭くて短く、善意というのはやわらかくて広い。悪意に刺されると痛みに気づくが、対して善意というのは気づきにくいものだという」
「…如月の実感?」
「昔の人の言葉だ。生徒会長の仕事内容や責任の重さを知りもせずに悪口を言われた、それが嫌だったんだろう?」
「そう!そうなんだっ」

 角松は目を瞠った。胸の内にあるわだかまりをひと言で言い表した如月への尊敬と好意が急上昇する。

「だからといって仲良くしたいわけでもないやつに、わかってもらおうとは思わない」
「うんっ」

 何度もうなずく。如月はすごい。如月の表情があいもかわらずぴくりともしないところにますます角松は感心した。少しでも偉そうな態度を見せていたら、彼はたちまち興ざめしていただろう。

「悪意の目的はただひとつ、相手を傷つけることだ。だから何らかの反応が返ってくれば調子に乗る。無反応ほど悪意に対して有効な反撃はないといっていい。けれど、それをするのはとてもむずかしい」

 痛みにあったら咄嗟に防御するのが普通だ。傷つけられたら当然悔しいと思う。痛い、悔しい、反撃したい、となる。自分が傷ついたぶんだけでは気がすまない。相手を後悔させるまでやってやる。

「それのもっとも極端なのが戦争だな。困ったもんだ」
「困ったもん、ですましちゃっていいのか?」

 父親が自衛官の角松はむずかしい顔をした。話が大きくなりすぎていることに不満でもある。

「角松さんは強いな」
「えっ」

 突然、如月が言った。突然のように角松には聞こえた。心臓がどきどきしている。

「ひとりで耐えたんだろう、偉かったな」

 よしよしと頭を撫でられて子供じゃないんだからと反発心が拗ねたように言うが、どきどきのほうが強くて言葉にならない。如月の琥珀色をした透明な瞳に見つめられて息もできなくなってしまう。褒められることが嬉しいなんて何年ぶりだろう。
 ところで、と悪巧みをするようにちょっとだけ笑って、如月は悪意を後悔させる方法を教えてくれた。

「親切にすることだ」
「親切?」
「そう。悪意というのは、本人の良心、あるいは偽善でもいいが、に訴えられると耐えられないものなんだ。自分の小ささが知れるからな、自分にも、他人にも」

 これは絶対に効く攻撃だが、攻撃だと悟られることなく『親切』にふるまうことはむずかしい。なんといっても相手は悔しい思いをさせてくれた嫌なヤツだ。言葉や態度の端々に嫌悪が滲み出てきてしまう。

「だから、やるんなら間接的にさりげなくわかるような親切だ。誰にでもしてやれる親切を、そいつにしてやるといい」

 どうやらこれは如月の体験談のようだ。悪意に親切で対抗して相手を屈服させた如月を想像して、角松はそら怖ろしいような頼もしいような複雑な気分を味わった。はたして如月はどんな子供だったのだろう。知りたいな、と思った。如月のことを、もっと。





 二学期の中間テストで角松は成績が元に戻ったことを証明した。やさぐれたからといって不良に走ったりするほどアホではない角松だったが、それにしても両極端である。親友の尾栗と菊池は安堵の笑顔を浮かべていた。

「好きな子でもできたかと思ってたぜ」
「そうか?なんだかイラついていたからまた生徒会に無理難題言ってきたやつがいたのかと思ってた」

 気楽な尾栗も慎重な菊池も、どちらにせよ水臭いぞと角松を責める口調だ。悪い、と素直に謝罪して、角松は家庭教師の如月克己がどんなにすごい大人かを話して聞かせた。はっきりいって、自慢したくてたまらなかったのだ。
 ファストフード店の100円メニューで陣取りをし、角松は学校では見せない気安い笑顔になった。こういう場所ならよほど親しい相手でもないかぎり、後輩だってさりげなく無視をしてくる。

「……っていうわけ。あースッキリした!」

 如月に言ったことと言われたことをかいつまんで説明すると、親友ふたりは大笑いした。

「あーそりゃやる気なくすわ、俺だったらまず手が出てた」
「手はまずいだろ。俺は…そいつが泣くまで反論してたかも」
「親切かぁ」
「わかるけど、すごい発想。如月さんて苦労してるんだな」
「医大生っていうだけでもすごそうだけど、どうなの?」
「ん?スパルタってほどでもないけど、数学はバトルだっつって問題集ばっかり。とにかく条件反射で解けるようになれ、だってさ。疲れるぜー」
「質より量ってわけか?」
「慣れの問題だって。文章問題ならとにかく、ただ数式だけの問題なら、見ただけで答えがパッと浮かんでくるもんなんだって」
「それってすごいレベル高い要求じゃないか?」
「だろー?終わる頃には頭が疲れててさ。もうなんにもしたくないってなる」
「…苦労してるね、洋介クン」
「そうでもない…かな。如月と喋るの、楽しいし。スパッと斬られる感じ?が面白くて」

 くすくすと楽しそうに笑う角松に、尾栗と菊池は顔を見合わせた。何よりのことなんだが、なんだかちょっぴり気に食わなくないですか?ああ、まったくだ。親友ふたりの意思疎通はばっちりだった。それは仲良しの友達が他の子と仲良くしているのを目撃したような、他愛ない焼餅であることを、ふたりともわかっている。だからこそなんとなく気に食わないのだ。しかも相手は、大人だという。

「なあ、それなら、ちょっと貸してくれない?如月センセイ」
「え?」
「ああ、俺もちょっと教えてもらいたいな。数学だろ、図形問題が苦手なんだよな」
「ええ?」
「今日もこれから来るんだろ?ちょっとでいいから!」
「ちょっとって…」

 にまにま笑う尾栗とたくらみ顔の菊池が言葉通りちょっとで済ませるとはどうしても思えない。角松は焦った。如月本人の了解もとらずに勝手に許可などできない。

「さ、じゃあ行こうか」
「行こう」

 そういうことになった。
 この日如月克己が見たのは、やけに嬉しそうな顔をした子供と、生真面目に頬を染めている子供と、申しわけなさそうにくたびれている角松だった。
 どうやら菊池は言い出したものの恥ずかしくなったらしい。尾栗は彼らしく、全力で楽しむつもりのようだ。
 如月はふたりをまったく無視することに決め、角松に宿題の提出を求めた。

「角松さん、宿題はやったか?」
「あ、ああ…」
「ん。じゃあ、今日はここからこのページまでだ。制限時間は15分」
「あのー…」
「友達と遊びたいなら、早く解くことだ」
「いえ、そうじゃなくて…俺たちも参加させてもらっていいですか?」

 おそるおそる菊池が切り出すと、そこではじめて如月はまともにふたりの顔を見た。たいていのひとがそうであるように、無表情の如月にふたりが怯む。

「私が教えるのは角松さんだけだ。ただで教えてやるほど、自分を安売りするつもりはない」

 教えて欲しいのなら金を出せ。意訳すると如月はこう言っていた。
 如月が本当に本気で言っていることを、ぴくりともしない無表情から察知した尾栗と菊池だったが、だからといってここで引っ込んだら負けたような気がする。

「じゃあ体で払いますよ!!」

 明るく元気一杯の尾栗の態度からは踏み倒すつもりなのが丸わかりだ。なっ!と隣の菊池に同意を求め、勢いに飲まれた菊池もうなずいてしまう。ひとり角松だけはその言い分に思春期ならではのよからぬことを考えてしまい顔を赤らめていた。

「前払いだ」

 如月は言うと立ち上がった。尾栗と菊池にも起立を求め、子供たちは素直に立ち上がる。何をするつもりなのかと尾栗の笑顔が引き攣ってしまっていた。
 如月は無遠慮に尾栗の手をとり、制服のシャツをいきなりめくりあげた。ぎゃーと悲鳴があがったがおかまいなし。べたべたと腹筋にさわり、何に納得したのかうなずいて解放した。さて次にとばかり視線を向けられて菊池の顔が目に見えて青褪める。ぴるぴるとふるえる仔兎を前にしては何かをする気もなくなったらしく、如月はふたりに着席を許した。どっとふたりが座り込む。

「ふたりともどうやら健康体のようだな。では、こちらに署名してくれ」

 そう言って如月がとりだしたのは臓器提供意思表示カードだった。

「え……これって?」
「もしきみたちに万が一のことがあった時、臓器移植を待つ人のために臓器を提供するという意思表示をするためのカードだ。ニュースでも聞いたことがあるだろう」
「ありますけど…」
「万一のことだから、安心していい。どのみちその時きみたちはその場で拒否することもできないのだからな。最後の最後で人様のお役にたてる、滅多にないチャンスだ。しかも一生に一度しかできないことでもある」

 さあ署名しろ。間違ってはいないがもうちょっと他の言い方はないのかとツッコミたくなる如月の言葉にふたりは戸惑い、青褪めた。

「ああ、心配しなくても、それに署名したからといって夜道で襲われることはないから大丈夫だ。それとも『個人的』に、取り引きをしようか?子供の臓器を欲しがっているひとは多いことだし」

 ぶんぶんとものすごい勢いで首を振る尾栗と菊池に如月はつまらなさそうな目をむけた。角松はというととんでもない事態に冷や汗をかいている。如月を止めることも忘れていた。

「…では、骨髄移植の登録ではどうだ?これは万が一を待たなくていい。代わりに失敗すればちょっと障害を負うかもしれないが、なに、一生のことだ。誰かの命の代償だと思えば安いもんだろう」

 体で払うと言ったはずだ。静かに冷ややかに迫ってくる如月に、尾栗と菊池は白旗を揚げた。

「…ごめんなさい」
「すみません、もう邪魔しません」
「…………」

 如月はそこで席に戻り、背もたれに体をあずけた。

「…冗談だ」
「…へ?」
「え?」
「如月?」
「だが、体で払うと言われたらそれを本気にするものもいる。我が子のためなら他人の子の命を奪うことを選択する親だっているだろう。軽々しく体で払う、などと言わないことだ」
「はい…」
「すみませんでした」

 ふたりが素直に謝罪すると、如月はそっけない笑みを浮かべた。

「ではこれは持ってかえって、ご両親と相談してくれ。一生に一度しかできないことだ、真面目に考えるんだぞ」

 臓器提供意思表示カードと骨髄バンクのパンフレットをふたりに手渡す。尾栗も菊池も神妙に受け取った。
 どうやら一件落着した3人に、角松がほっと息をつく。如月の機嫌はどうも読みにくいのだ。

「ところで角松さん、このふたりはどうしていきなり勉強を教えてくれなんて言ってきたんだ?」

 くるりと話を振られ、つい角松は緊張してしまった。別に悪いことをしたわけではないのだが話の流れが恐すぎた。

「え、あ、帰り道に買い食いしてて」
「洋介がのろけるもんだから」
「どういうひとなのか、気になったんです」

 しどろもどろの角松に、罪悪感からか尾栗と菊池が助け舟をだした。如月はあきれたようにため息を吐き出し、角松に問題を解くようにと言った。

「その間にふたりの勉強をみてあげよう。言っておくが、ふざけるようなら出て行ってもらうぞ」
「はい」
「はい」

 ぴしっと背筋を正したふたりと、しかたがなさそうに、けれどもまんざらではなさそうな如月に角松もほっとした。だがすぐに胸に込み上げてきた感情に首をかしげる。

(あれ?)

 なんだろう。
 いやな感じに胸がざらつく。いつになく真剣な顔で尾栗と菊池は如月の授業を聞いている。疎外感かなと思ったが、そうではない気がする。
 もし…あの時自分も「体で払う」といっていたら、如月はどんなことを言ってきただろうか。つい想像してしまったことを思い出し、顔が赤くなる。

「文章問題が解けないのは国語に問題があるからだ。まず文章が何を言いたいのか、理解すること」

 うんうん、と尾栗が目を輝かせて聞いている。こんな問題もわからないのかとは如月はけして言わないし、馬鹿にもしない。からかっていい時と悪い時をわきまえているのだ。

「図形問題は一度図形を作ってみるといい。一回展開図を自分で描いて組み立ててみると理解しやすいぞ。基本は同じだから…」

 なるほど、と菊池は如月の持っていたサイコロキャラメルの箱を見て感心している。なんでそんなお菓子を持っているのか、もう不思議にも思わなくなっていた。如月の鞄なら、うっかりハトでもでてきそうだ。

(なんか…やだな)

 そんな3人に角松は自分の機嫌が悪くなっていくのを自覚していた。

「角松さん?どうした」

 ハッと我に返った角松の手元を覗き込んで、如月は無表情だった。角松の手にある問題集は、まだ一問も解かれていない。

「…拗ねてるのか?」
「べつに、そんなんじゃない」

 慌てて数式とにらめっこをはじめた角松に如月はふうんとうなずいた。
 如月が教えるのは数学の一教科。60分だけだった。しかし角松が引き止めれば相談に乗ってくれたり時には夕飯を食べていったりしてくれる。父親が海上自衛隊、母親は職場の管理職で、角松が中学生になってからはほとんど家にいない両親に代わり、いまや如月がもっとも身近な大人だった。家庭の事情は如月にも説明してあるらしく、彼に支払われる給料はそのぶんも加味してあるのだろう。如月はいやな顔ひとつせず角松につきあってくれる。
 今日も如月と夕飯を共にした。配達される冷凍食品を温めるだけだが、角松にも如月にも文句はない。けっこう美味しいし、如月にすればただで食べられる食事に文句があろうはずがなかった。

「今日は調子が悪かったな」

 責める口調ではなく如月が言った。実際今日の角松は問題の半分を間違えていた。うっかりミスばかりだが、家庭教師にしてみればうっかりミスを無くす為に雇われているようなものだ。尾栗と菊池が一緒であろうと関係ないのである。

「あのさ…」
「はい」
「もし、俺が体で払うって言ったら、如月はどうする?」
「角松さんの代金は、ご両親から支払われている」
「だから、こ、個人的に」

 角松はだんだん顔が熱くなってくるのを感じ、うつむきがちになった。体で払うといえば、一般的(というのもおかしいが)には性的な意味で用いられる。エッチなことを想像していましたと告白しているようなものだ。

「…何で払ってくれるんだ?」
「………っ」

 如月はというと意外なことを聞いたというように不思議そうに首をかしげた。如月にしてみても発想することは角松と一緒だが、まさか角松がという思いがあった。あのふたりにはからかい半分で脅しをかけたが、角松はいわば雇い主である。あんなことは言えなかった。だから拗ねているのかと訊いたのだが。

「目、…目。閉じてて」
「なぜだ?」
「いいからっ。俺がいいって言うまで瞑ってて!」

 真っ赤になって額に汗まで浮かべている角松に、如月はおとなしく従った。自分でいっておきながら退路を失った角松はごくりと喉を鳴らして如月の膝に乗る。目を閉じたまま、如月が角松の体を支えてくれた。
 綺麗な顔。角松がまず思ったのはそんな感想だった。これといった痕ひとつない。自分たちのようににきびに悩まされたりすることなどなさそうだった。睫毛、長い。桜色の薄いくちびるは見た目よりもやわらかそう。蜜蜂が花に惹き寄せられるようにふらふらと、角松は如月にキスをした。

「……あっ」

 すぐに離れようとした角松を引き止めたのは如月だった。肩を掴んで支えていた如月の手が背中に回り、くちびるを押し付けてくる。目は閉じたままだ。くちびるを塞がれ、もう目を開けていいと言うことができない。

「ん…っ、ん、…っ」

 ちゅ、と何度も口づけられ、甘噛みされる。あっというまに息があがってしまった角松は腕を突っ張って如月を引き剥がそうとしたものの、力が抜けてしまった。信じられないくらい気持ちよくて、頭がくらくらする。
 くちびるから顎まで涎でべたべたにして、ようやく如月は角松を解放した。酸欠と快感でぼんやりとなった角松がふらふらと胸に倒れこむ。

「角松さん…もういいか?」
「…いい…」

 如月が目を開けた。頬を染めて瞳を潤ませている角松に嬉しそうに目を細める。

「釣りがいるか?」
「…うん」

 角松がうなずくと、如月はキスをしてきた。さきほどの濃厚さとはうって変わってかわいらしいキスだった。





 恋をしているひとが魅力的にうつるのは、自分を磨いているからだ。現在の角松洋介はまさにそんなふうに人の目には見えていた。うっとりと潤んだ瞳で見つめられ、そっとため息など吐こうものならもしかして自分ではないかとときめく者も現れる。
 好きです。
 昼休みの体育館。ステージへとあがる通路は絶好の告白スポットだ。数人の女子に連れ込まれた角松は、そこで待っていた顔を真っ赤にさせた女の子にそう言われた。

「…は?」

 まぬけな反応しか返せない角松をどう思ったのか、彼女はもう一度好きですと言い、つきあってくれませんかと訊いてきた。

「…………っ」

 瞬時に顔を赤くした角松の脳裏にあったのは、如月だった。あれから如月とは何度もキスをしている。特に告白めいたものはないが、お互いに好きだということはわかっている…はずだった。

「ご、ごめん。俺もう好きなやつがいるんだ!」

 とたん、ええー!?とあちこちから叫びがあがり、どうやら彼女の友人たちだけではなく他にも野次馬がいたらしいとわかる。女の子は真っ赤を通り越して泣き出しそうな顔になったが、角松だって自分のことだけでいっぱいいっぱいだった。ごめんともう一度言って、走って逃げ出すだけで精一杯である。とりあえず、「見せもんじゃねえぞ!」と抗議をしておくのは忘れなかった。

「洋介、好きなやついるのか!?」

 驚いたのは親友だった。尾栗はどこか批難がましい目をしている。それならそれで真っ先に打ち明けてくれてもよさそうなものなのにと目が言っていた。義侠心が強く友情に篤い尾栗らしかった。菊池もなんだか先を越されたような気分でいるらしい。どことなく不満そうに睨んでいる。

「す、すきっていうか…。自分でもよくわかんないけど、たぶんそう」
「…なんだよ、曖昧だな」

 で、誰?好奇心満々の親友は「さあ吐け」と言わんばかりに顔を近づけてきた。言わない限り解放してくれなさそうな勢いだが、しかし角松は言うわけにはいかなかった。家庭教師の如月と、キスをしている。自分がどんなに真剣だと主張しようが世間一般的には犯罪である。それくらいはわかっていた。

「他の子から好きって言われて自覚したのか?」
「うん…まあ……」
「なんか洋介らしいけど、しょーがねーなー」

 親友ふたりに呆れたように言われてしまい、角松は顔を赤くした。まったくそうだ。そんな自覚もないまま疑問にも思わずに如月とキスをしていたなんて、なんだか不純ではないか。だからといって今更好きですと告白するのも恥ずかしい。
 如月はどうして何も言ってくれないのだろう。遊ばれているのかもしれない、一瞬過ぎった考えに背筋が冷えていくのを角松は感じた。如月はキスをしてくれる。時には角松が溺れるんじゃないか危惧するほど濃厚なものを、時には眠ってしまいたくなるほどやさしいキスを。
 そして、それ以上のことはしてこない。

「…………」

 今日会ったらさりげなく聞いてみよう。角松は決意を固めた。
 好きな人に告白をするのは、勇気がいる。学校ではあれからしつこく問い詰められなかったせいか普段と同じく過ごせたが、家に帰るなり角松は緊張してきた。何度も時計を見てはその都度ドキドキを増幅させていく。あの時は焦って逃げるようにその場から走って行ってしまったが、あの女の子に敬意を表するべきだったかもしれない。角松は申し訳なさに反省するが、いきなり数名の女子に囲まれたら誰だって緊張してしまうだろう。

「如月…遅いな」

 どきどきしているだけでも時間はきっちり過ぎていく。如月が授業をはじめる時間になっても何の連絡もないことに不安を募らせた角松は家をでて探しはじめた。迷子になっているはずがないのだが、探さずにはいられない。如月の車のエンジン音を聞き逃さないように耳をすます。
 けれど近所中を回っても、如月どころか車の影も見えなかった。
 しょんぼりと帰宅した角松は、電話に留守番電話の伝言を示すランプが点灯していることに気がついた。

『如月です。すみませんが今日は急に用事が入って行けなくなりました。埋め合わせの授業は日曜日にお願いします』

 ものの見事に連絡事項のみ。時刻は角松が学校から帰ってくる少し前だった。浮かれていて気づかなかったとはいえ、決意をくじかれた角松はその場にへたりこんでしまった。バカ、とつぶやく。俺より大事な用ってなんだよ。悔しいのか淋しいのか恋しいのかよくわからないまま、涙がでてきた。
 夜遅くになって、母親からも帰れないという連絡があった。父親はもともと帰ってこない。ひとりは慣れていたが、もしかしたら如月が泊まっていってくれるかもしれないと思っていただけに、誰もいないという現在がつらかった。親なんてうっとおしいと文句を言う親友がうらやましい。うっとおしいと思えるほどかまってもらえた記憶が角松にはなかった。
 電話機に寄り添い、如月のメッセージをくりかえす。低く穏やかな大人の男性の声が静かな家にこだまする。
 如月は角松にとって理想の大人を具現化していた。俺も大人になったらあんなふうになりたい。穏やかでやさしくていろんなことを知っている。そしてキスが上手だ。
 尋ねたことはないがきっとそれなりに経験があるのだろう。無表情に隠されたやさしさや誠実さに気づいたら、きっと誰だって好きになる。
 いろいろと面倒な中学生を相手にしなくたって、大学生の如月の周囲には綺麗な人がいっぱいいる。

「………っ」

 自分で想像したことにじわりと浮いてきた涙を拭った、その時、電話が鳴った。いきなり現実に引き戻され、飛び上がって受話器をとる。

「はいっ、角松です!」
『…如月です。角松さん、今から行ってもいいだろうか?』
「如月!?どうしたんだよいきなりっ」
『ダメか?』
「ダメじゃないよ、待ってるっ」

 勢い込んで大声で話しているうちに、角松はどれだけ如月を待っていたのか思い知るようで恥ずかしくなった。やや小声になって、もう一度「待ってるから」と言った。受話器の向こうからよかったという返事。

『実はもう着くんだ』

 え?と問い返す間もなく、馴染みのエンジン音が聞こえてきた。電話を切り、玄関をあける。

「…如月!」

 水色のフィアット。如月の車が庭の駐車スペースに止まった。

「…すまない、こんな時間に」
「ううん、かまわないよ…。でもどうして?」
「ご両親はお留守か?」
「うん」

 駐車場が空ということは、大人がいないということでもある。無用心だとさすがに母は警戒してなるべく帰ってくるが、今日のようなことは増えてきていた。角松が高校生になれば家にいないのが普通になるのだろう。
 家に入るなり如月は待ちかねたように抱きしめてきた。

「すまない」
「如月…どうしたんだ本当に」

 泣いているのか。振り返って見た如月は泣いてはいなかったが、いつもは無表情の顔にせつなさを滲ませていた。大きな手が角松の頬を包み込む。顔に似合わず体温の高い手が、今夜は冷え切っていた。
 角松は急に恐くなる。如月はもう月に帰らなくてはとでも言い出しそうな雰囲気だった。もう会えないと言われたらどうすればいいのだろうか。

「あなたは…元気だな」
「どういう意味だよ、元気だよ」
「そうだな、ありがとう」

 体を離すと、如月はそのままくるりと背をむけた。

「ちょっと、もう帰るのか?なんなんだよ一体!?」
「顔を見たかっただけだ。…日曜日に説明する」
「今言えないことなのは別にいいけど、そっちの都合だけ押し付けるな。わけわかんねえだろ!」

 玄関を開けさせまいとドアの前に立った角松に、如月は手首を掴んで引き寄せた。

「わ…っ」
「大人の都合も察してくれ。今の俺ではキスだけではすみそうにない」

 耳元に囁かれた内容に角松は一瞬ぽかんとし、次に顔を赤くした。今まで如月とのキスは軽いものから深いものまでさまざまで、どういうつもりかといぶかしんでいたけれど、もしかして。
 我慢できるところでやめていたのだろうか。『私』ではなく『俺』と言ったのは、家庭教師としてではなく会いに来たからだろうか。

「い…、いいよ」
「角松」
「如月の好きにしちゃっていいから。だから…」

 その先は言えなかった。如月は角松を抱えあげるやリビングにあがりこみ、いつも勉強に勤しんでいるソファに角松を押し倒した。いつにない乱暴に、高鳴る胸を抑えてふるえている角松に気づいた如月は、そっとキスをした。
 それからぎゅうと胸に抱きしめる。

「俺も恐い。お互い様だ」

 左胸から如月の動悸が聞こえてくる。激しく脈打つ心臓の音に角松はこんな時だというのに安心した。如月が好きだ、と思う。

「如月、恐いのか?大人のくせに」

 俺は恐くないぞと強がって言ってみる。もちろん嘘だ。体がふるえてしまわないようにするだけで精一杯だった。

「乱暴にしたら、壊してしまいそうだ。あなたは中学生だし」

 如月と比べると角松の体はちいさい。同世代よりは大柄だし時には高校生と間違われることもあるが、それでも完成されていない体はやわらかかった。
 するりと全裸にさせてしまうと、こんがりと焼けた膚が羞恥で赤くなった。首すじに顔を埋めて、耳の後ろを啄ばむ。

「…いい匂いがする」
「風呂、まだだけど…っ」
「あとで入ればいい。一緒に入ろうか?」
「人んちでずいぶん…、ずーずーしい…っ」

 やんわりと胸を揉まれ、息があがっていく。男が胸を触られてもこんなに感じるとは思わなかった角松は、恥ずかしさに身じろいだ。その拍子にソファから落っこちそうになる。とっさに如月が支え、しばらく考えた末に座りなおした自分の膝に角松を乗せた。

「ひとりで入れるというのなら、かまわないが…おそらく無理だろうから」

 背中から腰だけでなくやわらかな白い丸みの狭間にまで指を走らせる。びくりと背を反らせた角松の胸の双果が如月の目の前に晒された。舌を伸ばして色づいたそれを弄ぶ。揉まれてやわらかくなっていた胸は敏感になっていた。

「あ…っ、あっ、如月…っ」

 くちゅ、と音を立てて吸われて角松は首を振った。ぞくぞくとした感覚が下肢へと降りていく。そこを見なくてもわかる。もう自分のものは恥ずかしく立ち上がり、感じていることを如月に教えているだろう。

「はぁ、あ…っ、あっ、んっ……っ」

 腰を支えていた片手が前に回り、待ちわびていたそれを愛撫した。

「やっ、あっ、あぁ…っ」

 声を殺そうとするたびに如月の手が強弱を変化させて甘ったれた嬌声をあげさせる。指先でゆっくりとなぞられたかと思うと下の膨らみを揉みしだかれる。その度にびくびくと腰が跳ねた。

「あっ、だめ、如月…っ。もう、もう…でちゃ…っ」

 人差し指で尖端の割れ目をくすぐられた角松は、声をふるわせて射精した。痛みすれすれの強烈すぎる快感に涙目になり、閉じることを忘れた口元が涎で濡れている。
 余韻にふるえている角松をしばらく見ていた如月は、萎えて濡れているものを再び愛撫した。粘つく液体がぬちゃりと音を立てるたび、青臭い匂いが立ち上った。

「あ、やっ…、如月っ、待っ…て、だめ、まだ…だめぇ…っ」

 敏感になりすぎているそこを弄られて角松は体をくねらせた。全力疾走をした直後のように脱力しているのに、また心臓が爆発するほどの波が襲い掛かる。如月の片手が腰を支えていなかったら背中から倒れているだろう。

「やだぁっ、まだだめ、…っねが、……ってっ、あぁあっ」

 二度目の到達は早かった。今度こそ如月の胸に倒れこんだ角松は溺れたひとのようにただ大きく呼吸をするだけだ。体中熱い。目の奥が潤んでいるのがわかった。如月の手は容赦がなくて、そしてこんなにも気持ちがいいものだったなんて。もうキスだけでは満足できそうもない。

「…もう大人になってるんだな。たくさん出た」
「…あ」

 はあはあとまだ荒い呼吸の中、ぼんやりとした視界の中に映るのは、如月の手だけでなくシャツにまで飛び散った精液。ごめん、と謝ろうと顔をあげて、角松は息を飲んだ。
 家庭教師という立場ではない如月は、当然のことながら単なる22歳の青年だ。先生ではない如月克己はなんだか不思議で、そしてすこし…怖かった。別の人みたいだ。そう思ったのは如月がはっきりと、角松に対する欲望をその双眸に浮かべていたからだ。

「如月…」
「なんだ?」

 呼んではみたものの次の言葉がみつからない。混乱している角松に如月はそっとキスをした。何度も顔中にくちづけられてくすぐったくなる。

「よ、汚しちゃってごめん」
「ああ、これか。覚悟の上だ」
「俺…洗ってあげようか」
「服を?」

 意味深に問いかけられ、ぽふっと顔が爆発する。ちいさく首をふった。

「……おふろ」

 そう言うだけで精一杯だった。結局如月の言うとおりにしてしまう。角松は全裸で二回も達してしまったが、如月はまだ服を着たままなのだ。こうなったからには如月の裸が見たい。彼が快楽に染まるとどうなるのか、見たかった。
 風呂はまだ用意されていなかった。汗が冷えてはと如月はシャワーで角松の体をあたためてやった。その間に湯を溜める。まともに立てない角松はいわゆるお姫様だっこで浴室へと運ばれ、タイル張りの床にぺたりと座った。一軒家とはいえ浴室はそう広くない。浴用の椅子は角松家にはなかった。

「角松さん、大丈夫か?」

 声をかけて如月が入ってきた。

「…………」

 どうしても目がそこに行ってしまう。公衆浴場ではあるまいしと隠しもせずに入ってきた如月だが、まじまじと眺められるとさすがにどうリアクションしたものかどうか悩む。結局のところ彼の表情は動かないのだが、わずかに頬が染まった。
 裸になった如月は角松が予想していたより逞しい体をしていた。医大生だし論理的な如月は、てっきり鍛えたりしていないのだろうと思っていたのだ。如月に言えば「医者は体力勝負」と答えが返ってくるだろう。胸が盛り上がってはいないが腹筋の線がきっちりわかるし、太腿も引き締まっている。体毛があまりないため最終的にはどうしても、目が一ヵ所に集中した。

「…そんなに気になるか?」
「し、しかたないだろっ」

 あらためて言われるとじっくりと観察していたようで恥ずかしい。黒々とした繊毛が保護しているそこは、先ほどの角松への愛撫と嬌態に反応しはじめていた。

「俺のとは違うな。なんか…大人っぽい」
「大人になれば誰だってこんなもんだ」

 如月が手を伸ばし、角松の襟首に触れた。たちまちシャワーの湯で濡れる。

「…冷えてはいないな、よかった」
「如月は、冷たくなってる」

 その指がくちびるをなぞった。ふっくらとした角松のくちびるの隙間からすかさず入り込んでくる。ちいさな白い歯を撫で、舌をくすぐった。角松は大人しく従った。ときどき舌を動かして舐めたりしゃぶったりするうちに、あたたかくなっていった。

「洗ってくれるのか?それとも洗ってやろうか?」
「ん…ん、ふ…ぅんっ」

 どくりと下肢が熱くなったのを感じ、角松は目を閉じた。さっきあれだけ気持ちよくされておきながらと思うが、体は正直で困る。顎を引いて指を外すと、角松は自分を甘やかす瞳を見つめた。

「あ、洗って…」
「わかった」

 如月はうなずくと、傍らの石鹸を手に取った。たっぷりと泡立てては角松の全身に塗りつけていく。にゅるんとしたくすぐったい感触に角松は身悶えた。くすくすと笑ってしまう。

「くすぐったいって…!」
「ほら、我慢して」

 ちいさなシャボン玉がいくつもできては弾けて散った。ボディタオルを使えばいいのにと思ったが、すぐに角松は如月の意図を知ることになる。身をもって。
 手が見えなくなるほどの泡を作ると、如月は角松のそれを包み込んだ。ふんわりとした泡はもどかしく角松を愛撫する。直截的な激しさを味わったばかりでは、やるせないばかりだった。

「きさらぎぃ…っ、はぁ、ぁっんっ。…あ、それ…」
「痛くないか?」
「うん…、でもそこ、違うよ」
「いや。これであってる」

 泡まみれの手が双丘を撫で、閉ざされていた蕾をやわらかく押し潰した。思いも寄らない場所を弄られて角松は困惑する。如月に抱きつくと大きな手がそこをさらに広げ、ぬめりを帯びた指が一本入ってきた。

「い…っ、ひゃっ?なにすんだっ。あ、あっ」

 さすがに抗議するが如月はやめず、指はさらに奥へと飲み込まれていく。歯の浮くような感覚に角松はがくがくとふるえ、何度も頭を振った。せっかく気持ちよくなってきたところなのに、言いようのない感触に総毛だっていくようだ。

「それやだっ、やだ…ってばぁ…っ、如月っ」
「痛いのか?」
「気色悪いんだよっ」
「そうか…?」

 首をかしげた如月にあたりまえだろと角松は訴えるが、それならと彼は角松のそれと自分のものを擦り合わせた。角松の体についている生クリームのトッピングめいた白い泡が如月もデコレーションする。
 如月の太いものに擦られ、粘膜同士が触れ合う感触が泡のぬめりで微妙なものに変化する。入ったままの指を、角松の蕾が痛いくらいに締め付けた。腰を揺らすのにあわせてゆっくりと出し入れする。擬似セックスだが角松は理解していまい。
 このあたりに、と如月は角松の中で指を回した。

「さっきとは比べものにならないほど気持ちよくなれる場所があるんだが…どうする?」
「知らない…っ、そん、っなの、知らな…っ」

 中学生の性教育で男同士のあれこれを教わるはずがない。せいぜい女性器や男性器のしくみと、子供が胎内でどう育つのかくらいだった。如月の中学生時代などは何かを恐れるようにそういったことは曖昧にはぐらかしていたものだ。
 狭い肉壁の中、如月の指がぐりっと何かを押した。

「あっ、っ、あぁぁっ」

 熱い塊がいくつも腹の中で弾けては積もり、いつまでも消えない。ジンとした重苦しい快感だった。吐き出すだけの絶頂しか知らなかった角松は息を飲んだ。恐い。広げられたそこに二本目の指が入ってきた。何度も極めているはずなのに角松のものは硬く勃ちあがってふるえているだけだ。鈍い絶頂感が絶え間なく続き、つらくてたまらない。心臓が爆発する。下腹部がやたらと熱く、がちがちに硬くなってしまっているものは果てる気配すらないのだ。このまま溶けてしまう。

「あっ、や、らめぇっ、きさ…っ、…っらめ、なっちゃう…っ」

 ぼろっと溢れた涙をぺろりと舐めとって、如月は腰を支えていた手をずらしさらに指を添えた。湯で暖まっているせいか、角松の体はやわらかくなっている。下肢にはもう力が入らなくなっている角松は逃げることさえできずにひっく、としゃくりあげた。

「ああ…泣かないでくれ。酷いことをしている気分になる」
「…っく、ひ…っひど、…よっ…っ」
「気持ちいいだろう?」
「だめ…っこれ、だめっ…。こ、こわれちゃう…」

 角松が話しやすいようにとそこを突くのをやめた如月は、今度は広げることに専念することにした。ぐちゅ、ちゅぷっと音をたてている角松の入り口はだいぶほぐれてきている。

「壊れたら治せばいい。幸い俺は医者になる」
「やぁ…っんっ!」

 あっさりとそんなことを言って、如月は指を引き抜いた。

「はっ…あ…ぁ…」

 熱いものが消えた腹が軽くなったようで、角松はほっと息を吐いた。安堵したもののまだ吐き出していない彼のものはせつなげに天を突いている。脱力した拍子に泡ですべった角松は如月の膝から落ちてしまった。足だけではなく力が入らない。骨がぬけてしまったみたいにゆらゆらする。さんざん虐められたところがひくりと痙攣し、物足りなさを訴えた。
 如月は角松に後ろを向かせ、うつぶせにひっくり返した。

「き、如月…?なに…?」

 いやらしくなっているそこが丸見えになり、角松が真っ赤になって振り返る。如月は片手で腰を支え片手を前に回し、かわいそうなほどふるえている角松のかわいらしいそれをぎゅうと掴んだ。

「あっ!な、なに…っ」
「ん…大丈夫だ」
「なにが…っ、……っ!?」

 泡まみれになっていたのが幸いしたのか如月のものはさして抵抗なく挿入っていった。

「あ、あ――…ッ」

 押し出されたように射精した角松はかすれた悲鳴をあげ、がくりと突っ伏した。さんざん焦らされ続けてもなお到達できなかったものがいきなり解放された虚脱感でふるえている。腰だけを高く掲げた体勢で頬をタイルに擦り付けたが、シャワーの湯が流れているせいで冷たくはなかった。全身が痺れていて、中に入っている如月の存在だけがたしかだった。
 慣らしたもののぎっちりと喰い付いてくる角松に如月は眉を歪めた。冗談ではなく本当にちぎれてしまいそうだ。いったん引き抜いて角松を窺うが、意識をどこかに飛ばしてしまっているらしい。もう一度、今度はゆっくりと侵入する。

「ん…ゃぁ…っ、あぁ…っ」

 こつん、と中で何かが触れ、角松の肩が跳ね上がる。同時に如月の手の中でくったりしているものが再び兆し始めた。体力的には限界がきているのに、若いそれは弄られれば反応してしまうのだ。
 如月はしばらく動かずに、角松の体が馴染んでくるのを待った。入り口の締め付けは強いが、中の濡れた肉は熱くやわらかく蠕動し、如月を包んでいる。

「…あなたは元気だな」
「あぁっ…はぁっ、アッ、ン!」

 ゆるやかな律動に少年らしさを残した嬌声があがった。
 角松はときどき振り返って如月を見た。やや眉を寄せ、湯で上気した頬は染まり、快感にときおり苦しげな声を漏らす如月。いつもぴくりともしない男の表情がいまや精悍さを増して欲情に浸っている。あんな顔をしてくれているというのが嬉しかった。

「あっ、すごい…っ。如月、如月…っすごい、…っ」

 指なんて比べものにならない。如月の熱くて硬くて太いものが体内を擦るたび、痛みと疼きが綯い交ぜになって去来する。圧迫感が気持ちいいなんてはじめてだった。
 角松が高まってきたことを感じ取り、如月は抽送を早めた。後ろだけで勃ちあがった角松は体内でも膨らんで主張した。そこを突いてやるたびにきゅうと締め付け、引き抜こうとすると弛む。指で慣らしたときに覚えたらしい動きで角松は如月に合わせて腰を振っていた。

「ん…ッ、あ、やぁあっ、ヘン、ヘンなの、きちゃう…っ」
「ぅ…っ、俺もだ。…角松、いっしょに…」

 如月が角松の肩から手を回し、全身で抱きしめた。潰された泡がふたりの隙間からシャボン玉となって逃げていき、シャワーの湯で叩き潰される。ざあざあと流れる湯が排水溝に流されていく。

「はぁんっ、あぁっ、あーっ」

 如月の太い部分が一番奥を抉り、角松は彼の腕の中で仰け反った。達した余韻が津波のように引いては寄せるなか、如月の尖端がわずかに膨らんだのを感じる。

「もうだめぇ…っ、ら、ぎ…っ、ゆるして…っ。しんじゃうっ」

 胸の中央で硬くなったふたつの珊瑚の粒をきゅうと指で摘ままれた。押し潰され転がされ、下腹部から広がる疼きにどうしようもなく染まっていく。熱い塊をいやでも意識した。

「…っらぎ、で、…っおれ、の、なか…いっぱい…なっちゃ…っ、あっ、」
「く、角松…っ」

 どくんと腰をふるわせて、如月は角松の中に放った。熱い迸りに脅えたように肉壁が蠢いて如月を締め付ける。何度も痙攣しながら飲み込ませていく。何をされているのかわかっていない少年は掠れた声をあげた。ひくひくとふるえる媚肉が如月に吸い付いて、彼のものから最後の一滴までを搾り取る。抱きしめた腕の中、無意識のうちに離れまいと向かい合い、くちびるを重ねていた。
 引き抜くととぽ、と音がした。腰がだるくなったが角松を潰さないように覆いかぶさる。互いの呼吸が湯煙のなかでも熱かった。

「角松さん…?」

 ぐったりとなった角松は目も虚ろになってぽーっと蕩けている。具体的に死ぬことはないがある意味死の淵に立った彼は半分楽園に飛んでしまっていた。
 如月は出しっぱなしのシャワーで一通り角松の体を洗うと、出しっぱなしで浴槽から溢れそうになっている湯の中に沈めた。全身の力が抜けた体がいったん沈み、ふわりと浮かぶ。
 如月が湯船に入るとさすがにざばりと湯が逃げていった。角松の体を引き寄せて抱きしめる。角松はあいかわらずぼんやりとしたままで、そのまま眠ってしまいそうだった。
 いとおしさが溢れてどこまでもやさしくしたくなる。如月は感情に逆らわず、ゆるりと角松を愛撫した。湯の中で緩慢な動きを見せる指先が、再び角松の蕾の奥を探った。なにはともあれ吐き出してしまったものを掻きださなくてはならない。
 とろっとしたものが流れていく感触に、うとうとしはじめていた角松は目を開いた。

「眠っていていいぞ。後は俺がやっておく」
「如月…なにしてんの…?」
「ここを綺麗にしないと」

 すると角松は眉をしかめ、駄々っ子のように唸りをあげた。

「んー…やだ」
「このままだと明日腹を壊すぞ?」
「いいよ…べつに。如月の、せっかくいっぱい入ってたのに…」

 このせりふが災いし後々とんでもない目にあうことになろうとは、この時の角松は当然のことながら考えていなかった。ただ体中疲労感に包まれていて気持ちよく、如月の精液を体内に残したまま眠ればどれほど嬉しいだろうと思っていた。如月とひとつになって眠りたかった。

「これで最後というわけではないから安心しろ。角松さんがいいというのならまた中に出してやる」
「……うん…」

 角松は安心した。
 呼吸が穏やかなものになったのを見て如月は後始末をすませた。湯の中だったためそれはすぐに終わり、眠っている角松の体と自分の体を拭いて、ベッドへと運び込む。布団の中に横たえたとき、体が離れたことに気づいた角松がふっと目を覚ました。

「如月……?」
「あ、起こしたか」
「あのさ、俺……」

 実は今日、聞きたいことがあったんだと角松が言うより早く、彼の体が要求した。

「…………」
「…………」

 ぐうと鳴った腹に角松と如月は顔を見合わせた。なにもこんな時にと角松は情けないやら恥ずかしいやらで赤面したが、如月は無理もないことだとやさしい目をして言った。

「台所と食材を使わせてもらうぞ」

 しかし角松家の食糧事情は家庭の事情により悲惨とはいかないまでもけしてまともとはいえない。かろうじてあった卵と牛乳で如月はオムレツを作り上げた。半熟にとろけたオムレツに角松は目を輝かせて如月を絶賛し、ぺろりとたいらげてしまった。

「如月、あのさ…」
「なんだ?」
「あの、俺…、俺のこと…如月はどう思ってる?その、俺のこと、好き?」

 と、如月の顔がみるみる赤く染まっていった。目を瞠って絶句している如月に角松も驚いた。滅多に表情を変えない如月のことだから無表情のままイエスかノーで答えてくるだろうと思っていたのである。

「いまさらそんなことを訊くのか?…言わなくてもわかるというか、立場上明言を避けたいのだが」
「聞きたいの!誰にも言わないから答えろ。でないと先生にセクハラされたって訴えるぞ」
「…………」

 これ以上はない脅迫に如月は両手を挙げた。ベッドに上半身だけ起こしている角松の頬にくちびるを寄せ、誰にも言うなと念押しをしてからそれを告げる。

「好きだ」
「…いつから?」
「さあな」
「俺がキスしたときは、もう俺のこと好きだった?」
「あなたはどうなんだ。どうしてキスしたんだ?その時にはもう俺のことが好きだったのか?脅迫して自白させたんだ、答えてもらうぞ」
「…わかんない、そんなこと。でもしたかったんだ。キスしたから好きになったのかもしれない」

 自分の心のことなのに自分でもよくわからない。角松の言いたいことは如月にもよくわかった。決着のつかない押し問答。考え出すとキリがないが、答えはどう考えても一緒だった。数学の問題のように、正解にいたる経緯はさまざまだが真実はいつもひとつ。

「タマゴとニワトリ、どちらが先か。知っているか?」
「知らない」

 如月が突然話題を変えた。いきなりのことだったが角松はこういう話し方をする時に如月は実はとても大切なことを伝えたいのだともう知っている。素直に首を振った。

「正解はタマゴ。殻の内部で突然変異を起こしてニワトリが誕生したんだ」
「…ひよっこ、って言いたいわけ?」
「子供はいつも大人よりも強いってことだ。だから大人には、見栄を張らせてくれ」

 如月は食器を片付けてから帰ると立ち上がった。泊まっていけばと誘ったがこれから用事があるという。憂鬱そうな如月に角松は深くは尋ねなかった。今日はとりあえずこれで勘弁してやろう。

「…日曜日には、教えろよ」
「わかった。おやすみ」










 日曜日。如月はすっかり何事もなかったような顔に戻っていた。如月はこうでなくちゃと思う反面、もうちょっとこう何かしらのリアクションがあってもいいような気がする。角松としては複雑だ。

「うちの実家は病院なんだ。そこの…小児の患者さん、といってもあなたと同じ15歳だが、あの日危篤状態に陥った」
「………っ」

 話をしてくれるんだろと身構えていた角松だったが、さすがに内容の重さに息を飲んだ。
 患者は女の子だった。病名は白血病。血液の癌といえばわかりやすいだろう。症状は風邪に似ているが、しだいに酷くなってくる。死に至る病だ。尾栗と菊池をびびらせた臓器移植や骨髄バンクの話を角松は思い出した。うなずいて気を取り直し、話の先をうながす。
 長い闘病で髪は抜け、帽子を常にかぶっていた女の子はそれでも笑顔を失わず、希望を捨てなかった。彼女はときおり病棟にやってきて勉強を教えてくれたり、ちいさな子に読み聞かせをしている『若先生』に、淡い恋をしていたのだ。

「ご両親と兄弟の骨髄は適合しなかった。化学療法では中々完治せず、弱りきった体には限界が来る…それが、あの日だった」

 ひとめあなたに会いたいと言っている。涙ながらの親の訴えに断れる人間はいないだろう。駆けつけた如月に彼女は目をあけ、嬉しそうな笑顔を見せた。今まさに苦しみから解放される笑顔であり、恋する相手に恋心を告げる幸福への笑顔であった。ねえ、きさらぎくん。15歳の少女は如月をいつも「如月くん」と呼んでいた。精一杯の主張だったのだろう。

 ねえ、きさらぎくん。わたし、げんきになったらおよめさんにしてくれる?

 彼女はそう言った。

「…それで、如月はどうしたの?」
「断った。いいよと言ってやるべきだったのだろうが、言えなかった」

 …先生にはもう好きな人がいるんだ。ごめん。

「俺のことだよな…」
「そうだ」

 角松はうつむいた。できたばかりのはじめての恋人に、恋敵が現れたのだ。嫉妬心で胸が焦げ付くが、同時に断られたことで優越感も湧き上がる。そして何より彼女の不幸な境遇が、幸福な自分を責め立てた。
 卑怯だ、と思う。死ぬ間際にそんなことを言うなんて。如月の心を傷つけてまで自分のことを忘れてほしくなかったのだろうか。好きな人なら幸せになってほしいと思うほうが正しいはずではないのだろうか。
 ふいに如月の言った言葉を思い出す。自分を幸福にするよりも他人を不幸にして喜ぶ人間もいるのだと。

「ありえない約束をして、その子は幸せなのかな」
「さあな。他人のことはわからん。自分を幸せにするついでに周囲も幸せだったら、それでいい」

 嘘をつかなかった如月には彼女も両親も怒らなかった。正直さは美徳である。それを責めることはできない。
 だが、如月は傷ついた。これから医者になる予定の医大生はこんな嘘さえもついてやれない自分に罪悪感を抱いたのだ。実家を継ぐというだけでなく、如月は医者という職業を尊敬していたし理解していた。だが、心に受けるダメージだけは、親を見ていただけでは、ましてや学校で学ぶだけでは理解できないのだ。

「無性に角松さんに会いたくなった。生き生きとしているあなたを見るだけで、回復していく気がするんだ」

 まさかそのまま性行為に及ぶなどとは如月も考えなかった。むしろ張り詰めていた糸を切ったのは角松のほうだ。
 嬉しかったし、救われた。如月は角松への恋心を自覚していたが相手が生徒であるため隠し通すつもりでいたのである。

「家庭教師として失格だ」
「まさか…やめる、なんて言わないよな?」
「契約は夏休みまでだ」

 もともと夏休みに入ったら角松は夏期講習に行くのである。あっという顔をして、角松はしょんぼりと落ち込んだ。夏休みに入ったら如月といっぱい遊べるなんてとんでもなく甘い考えだった。中3、すなわち彼は、受験生なのだ。

「私も国家試験の勉強と卒論に追われる日々だ。…今年の夏は、お互いに憂鬱だな」
「遊びに行ってもいいか?」
「もちろん。俺も会いに来る」
「じゃあさ…。と、泊まりにいってもいいか?」

 言って、角松は赤くなった。中3、受験生といえども思春期であり性的なことへの興味は尽きない。しかもできたての恋人がいればなおさら、やりたい盛りだ。

「それはそのつもりで来ると解釈していいのか?」
「ハイ。そのつもりですっ」

 なかばやけくそになって角松が言い切る。如月は幼い恋人のくちびるを人さし指ですっとなぞると、角松だけに見せるやわらかい笑みで目を細めた。

「なら、覚悟して来るといい。このあいだよりすごいことをしてやるからな」
「………っ!!」





 後年になって、「大人になるまで待ちました」と言い訳する、ふたりの馴れ初めである。