大勢の中のひとり





 その男は人ごみのなかでひとり、浮いていた。結婚式帰りなのだろうか礼服を着て、白いネクタイを締めている。手に持っているのは地図だろうか。周囲をぐるりと眺め、首をかしげてはまた手元の紙に目を戻すのを、何度も繰り返している。こっそり後をつけている者にまったく気づいていないようだ。
 どうやら彼は道に迷っているらしいとふんで、草加拓海は幸運に感謝した。声をかけやすい。
 遠目にも、男はまったく草加の好みだった。たくましい肉体をしなやかに包むスーツは彼の体の線を美しく際立たせている。その筋の男なら誰もが振り返るだろう。
 草加は懐から名刺入れを取り出すと、名前と携帯電話の番号とメールアドレスしか記されていない私用のものを一枚袖口に忍ばせた。さりげなく、彼に近づく。目が合った。微笑むと、警戒と他人への無責任な親しさを込めた瞳で彼も微笑み返し、軽く頭を下げた。

「どこをお探しですか?」

 相手の目的が自分への純粋な好意だと思ったのか、彼はほっと警戒を解いた。気恥ずかしそうに地図を指し示す。告げられた店を草加は知らなかった。肩が触れそうなほど接近して、地図を覗き込む。彼は体をひくことなく草加を窺っている。どこか懐かしさを彷彿とさせる体臭を嗅ぎながら、草加は携帯で検索をかけた。あっという顔をする。どうやら思い浮かばなかったらしい。

「今はここですね、この地図でいうと、ここ。…で、店はこちらになるのかな」
「ありがとうございます」

 いい声だ。草加はそっと彼のスーツのポケットに名刺を滑り込ませた。

「どういたしまして。まだ迷うようでしたら、近くのシティホテルで尋ねれば、教えてくれると思いますよ」

 コンビニエンスストアでもこの時間は開いているが、地理に詳しいとは限らない。シティホテルならば宿泊客が場所を尋ねてくることもあるし、周辺地図を置いているところもあるので便利だ。彼はなるほどとうなずいて、再度頭をさげた。いいえ、と返事をして、行こうとする彼に声をかけた。

「では。…また」

 声が届いたのか彼は不思議そうに振り返った。にこやかに笑ってみせると今度はお辞儀程度に頭を下げた。
 親切はしてもされても気持ちがいい。そこに下心が込められていようが、それに気づかれなければどうってことはないのだ。草加は彼の太い眉や黒々とした瞳を脳裏に刻んだ。意思の強さとやさしさをそのまま現したような顔をしていた。そして声。落ち着いた伸びのあるやわらかな声。おそらく彼は、話しなれている。人に対して発言を求められる職業で、それなりの地位についているだろう。あの瞳が潤んで自分を見つめ、あの声が甘やかに自分に呼びかける。彼はいつ、スーツのポケットの侵入者に気づくだろうか。それを見て、果たして連絡をしてくるだろうか?勝率は5割だ。かけてくるか、こないか。

「また」

 草加はつぶやいた。また会いましょう。