Proud of you
1:愛情一本
尾栗康平の『妻』は、角松洋介である。
何がどうしてというと、もののはずみというか、うっかりというか、まあなんとなくなのだが、なんとなくではあっても2人の間には子供までいたりする。いるのだから、どうやってなどと疑問に思ってはいけない。考えたら負けである。人類の神秘、ということにでもしておこう。
さておき、2人は結婚し、共に暮らしている。
尾栗・角松家の朝は早い。
産休と育児休暇を利用して、職場(海自)にいない間、体がなまってはいけないと、角松は毎朝10キロほどジョギングするのを日課としているためだ。そこに親友の菊池や隣家の草加が加わり、見るものによってはおそろしい修羅場が朝っぱらから繰り広げられる。
角松が走っている間、子供の面倒は当然尾栗の役目だ。彼は角松が帰ってくる頃を見計らって外へ出迎えに行く。もちろん子供を連れて。傍迷惑な修羅場はさっさと終わらせるに限る。
「おかえり洋介」
「ただいま」
どんなに甘やかしてみても父親というものは母親には敵わない。尾栗に抱かれていた2人の愛息は母に手を伸ばした。さっと抱き上げてやると甘えた笑い声があがった。
「…おはよう康平」
「おはようございます。尾栗さん」
「2人ともおはよ。お疲れさんだなぁ、毎朝」
特にからかうでもなく尾栗は言う。仲睦まじい家族の光景を、指を咥えて見ているしかない2人はどこか恨めしげであるのだが、気にした様子もない。彼は自分の幸福のありかをよく知っているし、とても大切にしているのだ。
「雅行、飯食ってけよ」
ここでいつも角松が菊池を朝食に誘う。3回に1回くらいの割合で菊池も断らない。断れないというほうが正しいのかもしれない。尾栗と角松の仲の良さを見せ付けられるとわかっていても、角松手作りの食事にありつけるのは、角松に恋する菊池にとって抗いがたい魅力があった。
ちなみに、草加が誘われることはない。隣人だから必要ないだろうというのが理由だが、彼が軍需産業に勤めていることも大きな要因だ。自衛隊倫理規定により、軍需産業、いわゆる死の商人たちとは、個人的なものであってもつきあいを避けねばならないのだった。もっとも、角松に恋する草加がそれであきらめるわけもないのだが。
ともかく草加は菊池が隣家に招かれるのをこの日も睨みつけているしかなかった。自慢げな目つきが気に食わない。同じ立場のくせに。いつか出し抜いて、角松をさらってやる。草加は角松本人の意思などおかまいなしで今日も決意を新たにするのだった。
角松は、朝食はきちんととる、というのを子供の頃からしつけられているため、朝から結構な量の食事を作る。子供をあやしながら食べている姿に夫と親友は幸福で腹いっぱいだ。
支度をしなければないらないからと、菊池は朝食を終えるとそそくさと立ち上がった。送っていくと言うのを固辞して逃げるように元来た道を戻っていく。これから何が行われるのかわかっているからだ。菊池はとても直視に耐えられない。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい、気をつけてな」
まず息子のおでこに。そして尾栗は彼の愛する妻にして親友に、朝にしてはいささか濃厚にすぎる口づけを贈る。
毎日毎朝、自分の手に入れた幸福の味を噛み締めて、尾栗は今日も元気に仕事にはげむのだった。
2:働くあなたに
角松は久しぶりに制服に身を包み、子供と子供用の荷物を抱えたまま職場に顔をだした。といっても艦に乗るためではなく、総監部から呼び出されたのだ。
「どうだね?育児は」
「思っていたより大変で、楽しいです」
呼び出した司令官は、角松の父親の後輩で、角松を子供の頃から知っている。そのせいか、どうも上官だというのに見る目がやさしく、話し方も気安くなる。それは良かったと孫を見るような目で彼らの息子を見つめ、相好を崩した。子供は母親に抱かれたまま眠ってしまっている。
「しかし、そろそろ戻ってくる気はないか?ここには保育所もある。陸上勤務に限るが復帰できる環境は整っているのだ」
女性自衛官の増加にともなって、各基地では保育所を設けるところが増えている。軍隊の常として、どこも人手不足なのだ。女だろうが子持ちだろうが、働き者は歓迎される。そのための福利厚生を惜しんではやっていけなくなってしまうという危機感が、あんまり評判のよろしくない自衛のための軍隊にはあった。
「…上から、なにか言われたのですか」
「いや、下からだ。無言の圧力が私のところまでやってきた」
「?」
角松二佐は、部下に絶大な人気がある。同時に上官にも人気があった。下の不満は働きとなって現れ、上の不満となる。まいった、とため息をつく司令官に角松は頭を下げた。
「我儘をきいてくださり、ありがとうございます。ですが、まだ……」
「う…む。わかってはいるのだが、まだ時期ではないな。仕方がないか……」
「時期を見ていただきたいのではありません。彼の実力です」
角松と尾栗が結婚した時、2人はまだ同じ階級だった。しかしその後、角松が尾栗よりも先に二佐へと昇進を果たした。2人はあまり気にしない、どころか尾栗は自慢にすらしていたのだが、いかんせん男社会はうるさかった。曰く、夫よりも妻のほうが上になるとは。夫としてどうなんだ。生意気になっていかん。などなど、聞こえよがしに言ってくる輩はどこにでもいる。
角松の妊娠があきらかになった時、角松はそのうるさいことに終止符を打つべく手を打った。それが産休と育児休暇である。つまり、自分が休んでいる間に出世しろと尾栗に言ったのだ。少なくとも同じか、上の階級になってくれれば、うるさい連中も少しはおさまるだろう。そういう連中に限ってなかなか絶滅しないが、話の種にされるのならともかく尾栗を侮辱されるのは許せなかった。角松の夫は、腹の膨れてきた妻を抱きしめて、まかせておけと笑って請け負った。
「実力とはまた言ってくれる」
司令官は呆れたように言った。ひとまず角松の復帰はあきらめなくてはならない。角松は息子をいとおしげに撫で、胸を張った。
「夫を信じていない妻などいませんよ」
「ではそれを、君を慕っている者たちにも教えてやってくれ。下がってよろしい」
敬礼。角松は軽い足取りで、夫のいる艦へ向かった。
3:人生には決断が必要です
尾栗が角松にプロポーズをしたのは、任官して1年ほど経ったある夜だった。菊池は部下との付き合いでおらず、2人で飲んでいた。すでにお互いに気楽な私服に着替え、尾栗の部屋でくつろいでいた。
自然とその言葉はするりと尾栗の口からこぼれ出て、持ち主を慌てさせた。しまったと思ったがもう遅い。言ってしまった言葉は取り消せないし、それは自分でも秘めていた本心であったから取り消そうとは思わないが、タイミングってものがある。
「なぁ、結婚しようか」
タイミング云々以前の問題として、付き合ってもいないのにいきなり結婚もないだろう。尾栗は内心頭を抱えたが、角松の返事に彼は完全に混乱に陥った。
「ああ、いいぜ」
角松はケロリと答えた。でも俺、バージンじゃないぜ?別に結婚相手に処女性をもとめるほどオカタイ男ではなかったから尾栗は気にしなかった。だいたい学生時代、角松と菊池がつきあっていたことを知っているのだ、いまさらである。
「あの、洋介君?」
「ん?」
角松は混乱することもなくビールを飲んでいる。えっと俺今何て言ったんだっけと思ってしまうほど冷静だ。
「俺、お前にプロポーズしたと思うんだけど…」
「ああ、言ったな。なんだもう酔ったのか?」
「そうじゃなくて!結婚…するの?」
「するよ?」
「…冗談?」
「怒るぞ」
「酔った勢い?」
「殴るぞ」
さすがに角松はムッとした。本気?と尾栗が訊けば、本気だと答えてくる。
「…洋介っ!」
「うわっ」
がばっと抱きついて、勢いのまま押し倒す。角松の持っていたビールが床に零れたがおかまいなしだ。尾栗はそのまま角松にキスの雨を降らせた。歓喜を爆発させる男に角松は笑った。2人して笑いながらビールまみれになった。
なぜあの時、角松はあれほどあっけなく結婚を承諾したのだろう。尾栗は不思議に思うことがある。2人がそんな雰囲気になったことなどなかったし、何の前触れもなかったはずなのに。
「あーそうかーって思ったんだよ」
そして疑問に対する角松の答えがこれである。尾栗には角松の考えていることがあいかわらず不思議でならない。
「そこにいるのがあたりまえって思ってたから、そういう形でちゃんとしとくのもいいなって思ったんだよ」
たぶんな。いかんせん、気分というものは多分に曖昧で、説明するのは難しい。だが角松が後悔していないとわかり、ホッとした。
そうだよなぁ、と尾栗も思う。俺たちは一緒にいて当然だと、そう思う。ここに菊池が加われば親友3人組になるわけで、それはとても居心地の良い関係だ。妻にして親友なんて、まずあるもんじゃない。
そして再び、尾栗は口をすべらせた。
「子供作ろうか洋介」
「ああ、いいぜ」
当然、というように角松が答え、2人は顔を見あわせてげらげらと笑った。
4:ご利用は計画的に
朝目覚めたら妻の寝顔があってびっくりしたなんて失礼な話だが、実際尾栗は驚いた。角松が寝坊をするとは珍しい。その顔はこころなしか疲労していた。疲れさせた覚えのある尾栗はにんまりと笑う。昨夜の嬌態を思い出し、そっと角松のくちびるを突いた。呼吸をするために薄く開かれていたそこから赤い舌がのぞき、指先をちろりと舐める。無意識でこれだもんなぁ。尾栗は指先からくるくすぐったさを楽しんだ。キスをする。もうじき目を覚ますだろう。昨夜ばかりは一緒に寝るわけにはいかないとベビーベッドに寝かせていた息子がもぞもぞと動いている気配がする。
おはようの、にしては濃厚なキスに、角松もやっと目を覚ました。
「おはよう洋介」
「……はよ」
声が枯れている。タイミングよく、ベビーベッドから言葉にもならない訴えが飛んできた。角松がはっとそちらを向き、時間を確認して叫びをあげた。
「…っって、うわ、こんな時間だ!」
急いでベッドから出ようとして顔をしかめた妻をやんわりと押しとどめ、尾栗は息子の様子を見に行った。
角松に良く似た2人の愛息は大きな黒い目をぱっちりと開け、やって来たのが母ではなく父であったことに不満気な唸りをあげた。はいはいとあやしつつ角松にバトンタッチする。息子はもみじの手で母にしがみついた。
「…康平?」
2人を幸せそうに眺めていた尾栗は、おもむろに2人を抱きしめた。角松が片手を回す。
「どうした?」
「行きたくねえ」
「…は?」
2人に顔を押し付けながら尾栗は情けない声をだした。とても部下には見せられない姿だ。
「明日から当分会えなくなるなんて…」
子供のやわらかな頬に頬を擦りつけると、髭がくすぐったいのか幼い笑い声があがった。
尾栗三佐は本日より2週間の演習に出る。
だれだよ演習なんかやろうって言ったやつ。ぐずぐずと愚痴をこぼし甘えてくる夫を、九州育ちの妻はぴっしゃりと叱り飛ばした。
「いいからさっさと支度しろ。そんで二佐になって帰って来い。それまで家にはあげないからな」
なにしろ角松の仕事復帰は尾栗にかかっているのだ。子供がもう少し大きくなるまではこのままでもいいが、常に人員不足の職場で優秀な人材がいつまでも欠けているのは迷惑である。
大きな荷物を持って駐車場まで行くと、ちょうど出勤前の草加とぶつかった。草加は角松に会えたことにホッとしたように顔を綻ばせる。今日はどうしたのですかとジョギングに来なかったことを問う。ちょっと、と曖昧に答えた角松に理由を察したのか深く追求してこなかった。
「ところで、その荷物は?」
「今日から演習で留守にするから」
草加の質問に、角松は簡潔に答えた。瞬間、ぱっと草加の顔が歓喜に輝く。彼が何を考えたのか、たいていのことは読めた尾栗はちいさく笑った。同時に角松のしたたかさに舌を巻いた。
車の後部座席のチャイルドシートに息子を乗せ、運転席に角松が乗り込んだ。元暴走族の夫の運転は、信頼度が低い。
港に着くと、角松たちと同様にしばしの別れを惜しむ家族たちが集っていた。尾栗がぴしっと敬礼してみせる。角松が答礼して、にこりと笑った。
「じゃ、佐世保で」
そう。草加には言わなかったが演習の間、角松は実家の佐世保に帰省する。今回の演習では途中で佐世保に寄港するため、休みがとれればの話だが、尾栗は会いに行くつもりだ。
「ああ。怪我だけは注意しろよ?」
信頼と、ほんのすこし淋しげな表情の角松に見送られながら、きっと今頃はどうやって人妻を誘い出すべきか考えているだろう男に、尾栗はほくそ笑み、舌を出した。
5:動悸・息切れ・気づく
その頃の草加には、角松に対して別段これといった感情は抱いていなかった。たまたま隣に引越してきた人物が自分の商売相手になりそうな、しかも将来有望株であった幸運に感謝し、このお難そうな2人にどう取り入るべきかを考えていた。実際彼らは手ごわかった。なにより角松がうなずかなければ尾栗もうなずかないので、まず草加がなんとかしなければならない相手は角松洋介であった。
毎朝のジョギング。これも角松と接触するための手段のひとつだった。
しかし、ある日突然打算や計算といったものは草加の中から消し飛んでしまう。あの朝の出来事を、草加は今でも鮮明に覚えている。
いつものように前を走る角松を追いかけていた。さて今朝は、何と言って声をかけよう。角松もこちらの思惑に気づいているが(なんせ接待を申し出てキッパリと断られている)、近所づきあいを悪くするつもりはないらしく、話しかければ応えてくれる。いい天気ですね。そうですね暑くなりそうですという程度だが。
「…角松さん?」
しばらく走っていた、角松のスピードが急に落ちた。ヨロヨロと歩きに変わり、とうとう止まってしまう。その顔は真っ青だった。はじめて見る様子に、草加は慌てた。
「ど、どうしました!?」
「…………」
角松はしゃがみこんだ。小刻みに震えている。声もだせないらしかった。草加はオロオロとあたりを見回したが、そう簡単に助けがくるはずもなかった。どうしよう。咄嗟にどうすべきかわからなかった草加は角松の傍らにしゃがみこみ、肩や背をただ撫で続けた。
しばらくそうしているうちに、落ち着いてきたらしい。角松がちいさな声で礼を言った。
「救急車を呼びましょうか?」
今さら気づいたが、角松は首を横に振った。
「なら、タクシーを」
ジャージのポケットから携帯電話を取り出し、タクシー会社に連絡する。10分ほどでやってきたタクシーに乗ろうとしたが、角松は立ち上がることもできなかった。草加が肩を貸し、なんとか乗り込む。心配そうに見ていた運転手が病院ですかと訊いたが、角松はマンションへ行くようにと指示をだした。
角松は息を荒げている。寄りかかっていてくださいと言うと、素直に体をあずけてきた。潤んだ黒い瞳が至近距離で草加を見つめ、ちいさなちいさな声が、言った。
「…ありがとう」
「――…で?」
「その時、私は気づいたのだ。私が生まれてきたことの意味を」
滝がつまらなそうに相槌を打ったのにまったく頓着せず、草加は喜々として続ける。一体何の話なんだと思うが、どう考えてもこれはノロケであろう。
同僚の草加の様子が、最近どうもおかしい。女子社員に人気があるのは滝も知っていたのでその話を女性からされた時に腹が立ったりはしなかったのだが、大学時代からのつきあいである意味ライバルといって差し支えない男がなにやら腑抜けているという事態には、滝も放っておけなくなった。良くて弱みを握れる、悪くてもからかいの種を見つけるチャンスだ。
話をしようと社外へ誘い出したはいいが、手ごろな場所を探していると草加が突如として走り出したのだ。猛ダッシュといっていいくらいの全力で。
何事かと滝が思った瞬間には、草加は彼の目標へと辿り着いていた。ちなみに滝の立っている場所、つまり先ほどまで草加の居た位置とは500メートルほども離れていた。脅威の視力である。
慌てて追いかけた滝が見たものは、草加が、あの草加が、汗まみれで頬を染め、だらしなく緩んだ笑顔を浮かべている姿だった。
角松洋介と紹介された、子供を抱きドラッグストアの袋を2つ提げた人物は、突然現れた草加と滝に目を丸くした。偶然ですねと荒い息の中草加が言うが、あれだけダッシュしておいて偶然もへったくれもないだろう。滝が突っ込むまでもなく、角松も引いている。
お買い物ですか?荷物をお持ちしますと草加がにこやかに親切を装うが、角松はやんわりと夫でもないひとに持ってもらうわけにはいかないと、ビニール袋の中身をチラリと見せた。子供用紙おむつ。確かに独身男性がスーツ姿で持つにはいささか具合が悪い。角松は滝を見て、仕事の途中でしょうからと釘を刺した。草加がそれでもまだ傍にいたいという表情をしているのにまったくかまうことなく角松は2人に軽く頭を下げるとさっさと行ってしまった。草加が恋に落ちるきっかけとなった者は角松の腕の中ですやすやと眠っている。。悪阻でしたとあの後教えられた、あの衝撃を今でも忘れることはできない。それまで2人の関係を単なる親友だと思い込んでいたのだから。
そして滝の、あの人物はお前とどういう関係なんだという問いから始まって、冒頭へと至る。
周りを省みることなく頬を染めつつ話す草加は、どう見ても恋をしている顔だ。
「あの時、あの人の体を支えた私の胸は高鳴り」
あれだけの体格を支えたら、動悸が激しくなるだろう。
「耳元でちいさくありがとうと言った、あの人の声に肌が泡立ち」
耳元に息を吹きかけられたら、鳥肌も立つものだ。
「マンションの部屋まで送り届け、あの人の夫にあの人を渡した時の――喪失感」
体にかかっていた重量がなくなれば、体が軽く感じられて当然である。
「その時、私はあの人に恋をするために生まれてきたと確信したのだ」
力強く言い切った草加に、それはもしや単なる思い込みと勘違いなのではと滝は激しく思ったが、結局は何も言うこともできずにただ頭を抱えた。他人がどう思おうと、どう見ようと、それこそ相手が結婚していようと、そんな事は些細な事と処理してしまえる強烈な思い込み。それはまさに恋愛以外のなにものでもないのだ。