仕草
1:顔の一部です
眼鏡を外すと印象が変わる。よく言われるセリフだが、それを好きな人から言われると、気分が違ってくる。
「雅行、眼鏡取ると顔が違うな」
酔って、いつもより幾分リラックスした角松が、いつもより幾分緩んだ笑顔で言った。
「え…そうか?」
「うん」
今日はもう特に見るべきものはないだろうと、眼鏡を外した時だった。
菊池は眼鏡をかけているが、眼鏡がなければなにもできないというほど視力が悪いわけではない。ただ、これ以上悪くならないようにと、予防のためだ。
「…どんなふうに、違うんだ?」
酒のせいだけではなく赤くなりながら菊池は尋ねた。ああ酔っているなと自覚する。頭はふらふらで、だからこんな期待まみれの問いができるのだ。
角松はへらりと笑った。
「いつもより、幼い。なんか、可愛いなぁ」
そう言うお前のほうがよっぽど可愛い。角松はテーブルに置かれた眼鏡をとり、かけて見せた。彼の視力は極めて良く、かえって眼が眩んだのだろう。おー、と言いながらキョロキョロと見慣れた菊池の部屋を見回している。
「どう?俺、かっこよく見えるか?」
「あ、ああ…」
確かにかっこよく見える。眼鏡は男前を3割増しにするアイテムだというが、酔ってさえいなければ理知的に見えただろう。そしてそれは体格の良い角松に、とてもよく似合うはずだ。今はどちらかというと、背伸びした小学生のような微笑ましさが増大されている。
角松はしばらく眼鏡をいじっていたが、ふいに顔を寄せてきた。
「な、なんだ?」
いきなりの至近距離にドギマギしながら、菊池は硬直してしまった。ヘタに動いてこれ以上近づいたらと思うと動けないのだ。角松から目を離すこともできない。ついでに呼吸まで止めてしまった。
「眼鏡って、キスする時邪魔にならないのかなと思って」
「ならないよっ」
がしっと肩を掴んで角松を引き剥がし、距離をとった。ヤバイ。息どころか心臓が止まりそうだ。角松は突然のことにびっくりした顔で、ふうんとうなずいている。
「…そうか、あるんだ」
どこか不貞腐れたように呟いて、角松は立ち上がった。菊池の部屋だというのに勝手に冷蔵庫を開け、ビールを取り出した。文句を言うつもりはないが、どことなく空気の変わった角松に菊池は首を傾げた。ある、とはどういう意味だろう。そんなことはないと答えたのに――……
「………っ!」
グラスの底に残っていたビールを一息に飲み込もうとして、菊池は気管に詰まらせた。盛大に咽る。
ひょっとして、あれってそれなのか?喜びと困惑。洋介、と呼びかけたいのだが、咳しかでてこない。
「おい雅行?大丈夫かっ?」
「…っ、洋、介……」
げほげほっと咳き込むせいで、喉が痛い。涙目になって背を丸めると、慌てて戻ってきた角松が宥めるように擦ってくれた。
「…洋介」
「大丈夫か?」
「ああ、もう、大丈夫だ」
それどころではない。頬が熱いのは、咽ていたせいだけではないはずだ。ゴクリと喉を鳴らして、角松を見つめる。男らしいきりりとした眉が、今は心配そうに寄せられていた。大切に想われていることに、じんわりと幸福が込み上げてくる。
「なぁ…今の、ひょっとして嫉妬か?」
「え?」
角松は一瞬きょとんと眼を瞬かせ、次に赤くなった。ぎゅっとくちびるを引き結び、菊池の背中に置かれた手が離れていった。そのまま顔を背けてしまう。菊池にとってはそれで充分だった。
そっと手を重ね、指を絡ませる。
「…だったらどうなんだよ」
ちいさな声だった。菊池は角松の手にくちびるを寄せた。
「嬉しいよ」
顔が緩むのを堪えきれない。角松はさらに赤くなった。ニヤつくな、と文句を言ってきたが一向に構わない。いくらでも嫉妬して、怒ってくれ。そのぶん、俺は幸せになれる。
「洋介……」
緊張したままのくちびるにキスをする。硬かった角松のくちびるがやがてゆるりと解け、やわらかく受け止めるのを歓喜とともに感じる。
「なんか、泣きそうだ」
角松の肩口に顔をうずめて菊池が呟いた。同じ状態の角松が微かに笑うのがわかった。
「…俺も」
2:あなたの健康を損なう危険があります
煙草を喫む仕草が様になる。
男としてはちょっとばかり憧れるシーンだ。太い指が細巻きを挟むところなど結構色っぽい。ふう、と吐き出される紫煙が細くたなびいていく、そのくちびるの動き。慣れている。上手いもんだと角松は感心してしまう。その煙に含まれているものが有害でさえなかったら、文句も言えないほどだ。
「煙草、ヤメロって言ってるだろ」
んー?とまったく悪びれない間延びした返事を返すのみで、尾栗に改める気配はない。それどころか、キシリと椅子の背もたれを軋ませ、申しわけ程度に仕切られている机向こうの角松に向けて、煙を吹きかけた。うわ、と実に嫌そうな悲鳴があがり、たしなめるように寄せられていただけだった眉が怒りを含んだ。
「尾栗っ」
条件反射で顔を背け、抗議する。煙草は喫んでいる本人より煙を浴びている周囲のほうが煙害が酷いことは周知の事実だ。嫌煙家からは耳にタコができるほど聞かされているニコチンの毒性についての説明など、愛煙家の耳は素通りしていく。坊主の念仏と一緒だ。ありがたみはあるが意味のないもの。ゆえに尾栗は知らん顔で深く煙草を吸い込み、充分肺に行き渡らせ味わった後吐き出した。脳味噌が麻痺していく感覚がリアルにわかる。すっきりしたようなぼんやりするような独特の浮遊感。
何度言ってもきかない尾栗に今回も折れたのは角松だった。立ち上がり、窓を開ける。空気に溶けて見えないが確かに部屋に蔓延していたニコチンが外気に追い立てられて逃げていく。
外は晴天。こんな空に毒を撒き散らすのはもったいないと角松は思う。
「ニコチン中毒ってそんなに辛いのか?」
「さあ?」
灰皿で火を消して、あっけらかんと尾栗は答えた。
「止めたことないからわからん」
「本数、増えてるじゃないか」
「そうか?飯と同じであー煙草吸わなきゃーって思うんだよ」
「それを中毒って言うんだろ」
「そうかー?」
間延びした返事。尾栗にとっては本当に食事と同じ感覚なのかもしれない。満足そうだ。
「あるいは欲求不満かもな」
ちらっと水を向けるが、角松の眉はたちまちしかめられた。無視するように彼は自分の席に着く。
「…だめだからな」
「よーすけー」
つん、とそっぽを向いてしまう。その耳がうっすらと赤いのを見て、尾栗はほくそ笑んだ。ギッと大きな音を立てて立ち上がると、あからさまに肩が揺れた。警戒心剥きだしの様子に、つい意地の悪い笑みが漏れてしまう。
「康……っ」
止めようとするより先に、くちびるを奪った。角松の体が強張る。暴れられると厄介なので、上から肩を押さえつけた。こうすれば少なくとも、立ち上がることはできない。
「ん……っ、ん…」
真っ赤になって睨みつけた後、角松は瞼を閉じた。同時にくたっと体から力が抜ける。なんだかんだいってもやっぱ可愛いよなぁ、と尾栗はニヤけるような思いだ。
思う様堪能してから解放すると、とろりと蕩けた瞳で、それでも角松は憎まれ口を叩いてきた。
「…もう、お前とはキスしねえからな」
「なんで。気持ち良さそーにしてたじゃん?」
「俺、こう見えて甘いもん好きなんだ」
べ、と舌を出して曰く。苦いキスは嫌い。
3:カレーの王子様
何が食べたいかと訊いたら、カレーと答えが返ってきた。作りがいがあるんだかないんだかよくわからない答えだ。多少不満を抱いたところで、思い出したように角松が言った。
「うちの艦のカレーが不思議と美味いんだ。毎週食べてるのに、飽きない」
ようするに「みらい」カレーが食べたくなったらしい。食べたことのない如月にそれを作り出すのは難しかった。だいたい毎週食べといて、それはないんじゃないかとさらに不満が募る。
「…カレーだな」
聞くんじゃなかった。レストランではない「みらい」で出されるカレーでは、一緒に食べに行くこともできない。
如月は台所に立ち、たまねぎを刻んだ。腹が立ったので冷蔵庫にあった残り野菜も細かく刻んで鍋に投入する。その間角松はといえば、手伝うでもなく自分で買ってきたビールを開け、つまみを食べている。
基本的に角松が如月の部屋に来るのは疲れた時だった。護衛艦の副長ともなればいろいろと大変なのだろうと、最初にころがりこんできたときに甘やかしたのがいけなかった。しつけは最初が肝心。まったくその通りである。
如月は台所から角松を窺い見た。彼は平和そうな顔で飲んで食べている。見られていることに気づいた角松が顔をあげた。
「なんだ?」
「…他になにか食べるか?」
カレーは完成までに時間がかかる。角松は素直にうなずいた。こうやって甘やかすからいけないのだと思うが、如月の手はてきぱきと動いた。
あの口が悪い、と如月は思う。大きな口をぱっくりと開けて、角松は食べる。さも美味そうに幸せそうに食べるものだから、こちらもさあ食えもっと食えという気分になってしまうのだ。ピーピー鳴いている雛に餌を与える親鳥のように。
「これでよし、と」
如月はカレーの鍋にフタをして、火を弱めた。
「もうできたのか?」
食べる気満々のでかい子供が眼を輝かせた。まだだ、という前に、如月の携帯電話が鳴った。着信メロディーは「ヒッチコック劇場」のテーマ。
如月は電話に出ると二、三言葉を交わして閉じた。ふう、とため息を吐く。
「如月?」
「すまん、仕事が入った」
言うが早いか、如月は支度を始めた。すばやく荷物をまとめるともう玄関に立っている。慌てて角松は見送りに立った。
「カレーはあと一時間ほど煮込めば食べられる。火は弱くしてあるが、時々かきまわして焦げないように気をつけろ」
緊張した顔とは裏腹に言うことはなんだか庶民くさい。それだけ告げて、如月は出て行ってしまった。
独り残された角松はまずカレーの鍋を覗き込んだ。食欲をそそる香りが湯気と共に立ち上る。なにも一時間も煮込まなくても食べられそうだが、如月がそうしろと言うのだからそのほうが美味いのだろう。仕事といっても、一時間ほどで戻ってくるかもしれない。とりあえずカレーをかき回して、またフタをした。
仕事が済んで、如月が帰宅の徒についたのは深夜だった。道路から部屋を見上げると、すでに電気は消えている。角松はもう帰ったのだろうと思いながらドアに鍵を差し込む。が、手ごたえはなかった。
「角松…?」
いるのか、と電気をつけると、ソファの上に丸くなっている角松がいた。急にまぶしくなったことに、不満げな唸りをあげる。
テーブルの上は如月が出て行った時のままで、カレーを食べた形跡はない。ハッとして鍋を確認したが、火は止められていた。冷えたカレーが固まっていた。
「あ…如月、帰ってきたのか」
「人に作らせておいて、カレー食べなかったのか」
「ひとりで食べてもつまらないだろ」
ただカレーを食べるだけならそこらへんのレストランで充分だ。レストランだって誰かの作ったものには違いないが、そこに含まれているものは、如月の作ったものとはあきらかに異なる。
「明日も来るんだろうな」
寝室へと角松を追い立てながら、如月は尋ねた。尋ねるというよりは確認だったが、角松はあたりまえのようにに「ああ」と答えた。食べ損ねたカレーに対する執念だ。
角松がほったらかしにしたままのテーブルの後片付けをしながら、如月はふいに笑いが込み上げた。今、あの男の体を生かしている栄養素は自分の作ったものだと思うと、ひどく満たされた気分になったのだ。
きっと明日もころがりこんできた角松に、自分はこうやって甘やかすのだろう。
4:わかっちゃいるけどやめられない
サラリーマンが気楽な稼業な時代はとうに過ぎたが、仕事の後の酒が美味いことに変わりはない。週末ともなれば、なおさらだ。
草加はその時残業で会社に居残っていたのだが、携帯に角松からのお誘いが入った途端に猛スピードで終わらせた。がやがやとうるさい周囲の音に混じって、
『草加、残業やってんのか?カタがつきそうだったら来いよー』
という、忙しい時に聞いたら怒りだけしか湧いてこないような、気楽なメッセージを言ってのけたのだ。しかし草加にとってはただの喜びしか沸き起こさない角松からの誘いだ。スタミナドリンクよりもよっぽど効果バツグンである。すぐに行きますと草加は答え、本当に終わらせたのだった。
角松はどの店にいると言わなかったが、時間で大方の予想はつく。親友三人と飲んでいるのなら、居酒屋を巡っているのだろう。三人とも酒に強いが、角松はザルというよりワクなので、今から行っても間に合うはずだ。
「角松さん」
「お、来た来た」
狙いをつけた店に、角松たちはいた。すでにできあがっているらしく、上機嫌だ。角松の肩を叩いて、尾栗がはしゃいだ。店の名前を教えなかったのはかれの仕業らしい。すげえなあ草加と笑いながら感心している。
「な、だからコイツなら来るって言っただろ」
角松が胸を張った。
草加が角松と付き合い始めて数ヶ月経つが、自分のことでここまで嬉しそうな角松ははじめて見る。草加は胸を高鳴らせた。半ば強引につきあうことを承諾させた自覚が草加にはあった。
角松は壁と尾栗にはさまれ、正面に菊池が座っているため、残念ながら草加はひとりぶん離れたところに座るしかなかった。すぐにやって来た店員にビールと、テーブルを見回してから料理を注文する。三人はとりあえず腹も満ち足りているらしく、テーブルにある料理はあまり減っていなかった。草加は遠慮せずに食べる。三人が揃っているときは、草加が会話に入る隙が実はあまりないのだ。それでも草加がこの飲み会に参加するのは、ただ飲んで上機嫌の角松が見たいがためである。よく飲みよく食べそしてよく笑う角松は惚れた欲目でなくともかわいい。草加は適当に相槌をうちながら角松を肴に酒を飲んだ。
そのうちに、菊池がテーブルに突っ伏した。糸が切れた人形のようにコテンとなっている。菊池は酒からウーロン茶に変えていたが、疲れで眠気に勝てなかったようだ。
お、雅行が寝たかと尾栗が落ち着き払って言い、時計を確認した。わりといつものことなので、菊池がつぶれれば何時かの見当がつく。
「じゃあ、俺ら帰るわ。月曜に精算ヨロシク」
「ああ、気をつけてな」
よっこらしょと尾栗が菊池を背負い、店中の注目を浴びた。酔っ払いの底力というべきか、足取りはふらふらだが落とす様子はない。
「そろそろ俺たちも次行くか?」
「次!?」
ここに来るまで一体何件ハシゴしたのか知らないが、ザルの菊池がつぶれたのだから相当行ったはずだ。驚く草加に角松は当然という顔をしてシメはラーメンだろと言う。どう考えても、体に悪い終わりかただ。
「よく入りますね……」
「そうか?普通だろ?」
遠慮したい気持ちを込めた草加の呆れ顔にも角松はどこ吹く風だ。普通の人間には限界というものがあるが、角松には通用しないらしい。だいたい、まがりなりにも恋人と夜のデートだというのに行くのがラーメンとは、色気のない話だ。
「体に良くないですよ」
「わかっちゃいるけど…ってよく言うだろ」
結局、草加は折れた。三人と飲む機会が増えたおかげで酔っ払いの対処法を、不本意ながら覚えてしまっているのだ。正論はムダだと。
ラーメン屋に入ると、角松は勝手に2人分のラーメンと餃子を注文してしまった。茶漬けくらいですまそうとした草加の思惑などおかまいなしだ。こんな時間に、太るなぁ思いながら、草加はたいらげた。
「あー、食ったなぁ」
角松が満足そうに腹を撫でた。特に太っているわけではないその腹のどこにあの量が収納されているのか、実に不思議である。
「息がにんにく臭い」
「そうですね…」
これはもう、今夜は期待しないほうがいいかもしれない。酔っ払いに色気もへったくれもない。草加ががっくりと気落ちしたところで、角松が言った。
「これじゃあ、今夜はもう同じものを食べたやつとしかキスできないな」
草加の足が止まった。角松はしばらく歩いていたが、草加がついてきていないことに気づくと戻ってきた。
「どうした?」
どうした、なんて。こちらのセリフだ。角松は草加の考えなどひょいと飛び越えていく。勝てない。恋愛が勝負などではないと、わかっていても、なんだか負けた気分だ。どうしたって、かなわない。
「…酔ったようです。歩いて帰りませんか?」
角松は笑った。なにもかも飲み込んだうえで、しかたがなさそうに。そして、言った。
「二駅くらいなら、いいぜ」
「じゃ、行きましょう」
草加は素早く角松の手を掴んで歩き出した。足取りに酔いは見られない。隣の角松は愉快そうに笑っている。
角松の部屋まで、あと二駅。
5:朝のみだしなみ
この時代に来て、驚いたり感心したりいろいろあるが、いつまでたっても慣れないものもある。
そのひとつが、剃刀だ。
角松のいた時代ではちょっとお目にかかることのない大きさだ。美しく研ぎ澄まされた刃がぎらりと光った日には、ちょいと怯む。
「どうした?」
顔の下半分を泡まみれにした角松が鏡とにらめっこしつつ唸りをあげているのを見た如月は、不思議そうに読んでいた新聞を下ろした。
「なんでもない」
剃刀の刃から目を転じて鏡越しの如月に首を振る。ごく、と喉が鳴って、早くしろといわんばかりに泡が顎から滑り落ちた。
「角松、あんたまさか」
「いやそれは違う」
如月の言葉を遮って否定する。如月はなにやら言いたげな目をしていたが、結局何も言わずに再び新聞を広げた。こんな時、彼の無関心ぶりはありがたい。
刃を頬に当てる。冷えた感触を想像していたが、意に反してそれは生温かった。
ざりっとしたちいさくて硬いものが切れていく感触が手に伝わってくる。泡のおかげで滑りがよいが、滑りがよいおかげで頬までこそげおちましたではシャレにならない。二枚刃深剃りが懐かしい。横滑りしても切れない安全性を望むのはムダだとわかってはいるが。どうにも不安だ。
ぎこちないながらもなんとか髭を剃り終り、顔を拭く。朝だというのに精神的に疲労を覚えた。洗面所から室内に戻ると、如月の様子が変だった。
「……?」
ソファに座り、無表情のまま新聞を読んでいる――のだが、その新聞が小刻みに震えているのはなぜだ。
「如月?」
便所でも我慢しているのかと声をかけたら、盛大に肩が揺れた。角松は目を丸くする。なんだなんだ?
「……っ、くっ」
如月はとうとう耐え切れないというように身をよじり、声をあげて笑い出した。新聞が派手な音を立てている。突然のことに角松は立ち尽くした。ここ数日共に過ごしてきたが、鉄壁の無表情を誇る特務中尉がここまで相好を崩すのを始めてみた。この男にも感情があり、笑いもする。あたりまえのことだが角松は驚いた。こうやって笑っていれば結構かわいいもんだな。そんな感想を抱きつつ立っていると、ようやく笑いを治めた如月が言った。
「あんた…そんなでかいナリして、かわいいんだな」
「は?」
「あそこまで一所懸命に髭を剃る男を、初めて見た」
見られていた。カァッと顔が熱くなった。初めて髭剃りに挑戦する少年のようにおっかなびっくりやっているのがこんな大男では、笑いたくもなるだろう。
「明日から私がやってやろうか?」
「いいよっ」
しかしそこまで笑われたら意地でも自分でやってやろうという気になる。如月はもう落ち着いたようで、先程の笑顔が嘘のようだった。如月も当然髭を剃っているのだろうが、ちょっと想像できない。
笑われっぱなしというのも悔しいので、角松は言い返した。
「あんたもあんなふうに笑っていればかわいいのにな」
どんな反応を示すかと思ったが、如月は少し首をかしげ、ちらりと笑みを浮かべただけだった。素っ気無い愛想笑いのようなものだったが、迂闊にもどきりとした。如月は爆笑したことも微笑したことも忘れたように平然としている。
どこからが素で、どこまでが演技なのか、読み取ることはできなかった。
面白い男だ、と自分のことはまったく棚に上げて角松は思った。如月について、もっと他の面も見てみたくなる。とりあえず、明日の朝は如月よりも早く起きて、彼が髭を剃るところを拝ませてもらおう。
翌朝、決心したとおり角松は早く起きたのだが、何を考えて先に起きたのか読めたらしい如月の笑いを再び買ってしまうだけだったのは、また、別の話。