はじまり
1:変身
ある朝角松洋介がなにか気がかりな夢から目を覚ますと、自分の体が女になっているのに気がついた。
「……………っ」
ぱんっと両手で口を抑えて悲鳴をあげるのをこらえた。わずかに漏れた空気がくしゃみのなりそこないのような音をたてた。
おちつけ、おちつけ、と角松は呪文のように心で繰り返し、何度も深呼吸をする。衝撃はしだいに遠ざかっていき、今度はどうしたらいいのかという困惑が浮かんできた。
おそるおそる胸に手をあてる。やわらかい感触はつい昨日までの自分とまったく違っていた。そして、35年間生まれてこのかた連れ添ってきた相棒が消えているのを確認して、卒倒したくなった。あいにく現実を直視する性格である角松は気を失うことなく、泣きたいような笑い出したいような、えらく情けない気分に陥っただけだった。
こんななりで、仕事はきちんと勤まるのだろうか。角松は心配になってきた。しかし悩んでいる間にも時間はちゃくちゃくと進んでいく。角松はとりあえず作業服に着替えた。ずいぶんと体がちいさくなったらしく、袖は余りすぎ、ウエストはぶかぶかすぎた。禁止されているがしかたない、袖を折り、ベルトを締め、余ったズボンの裾をなんとかブーツに押し込んだ。鏡の前に立つと子供が父親の服を着ているような、なんともいえない微笑ましい滑稽さをさらけだす自分がいた。この時代に来てから増えたため息をひとつ。顔を洗い習慣で髭をそろうとした角松はその必要がないことに気がついた。顎を撫でてみる。つるんとした感触が指先に、そしてあたたかく細い指先の感触が顎にきた。
少し、気が楽になる。鏡に映る自分は女だが、たしかに自分だ。
体を動かす。単純に体重が減ったからだろうが、軽かった。大丈夫、俺は俺だ。角松洋介。
困ったことがおきたらその都度対応していけばいい。それが現実逃避以外のなんでもないことに気づくことなく、角松は今日も元気に仕事に向かっていった。
2、彼か彼女か
「よ、洋介!?」」
士官室に呼び出された尾栗と菊池は、同時に驚きの声をあげた。
変わり果てた姿でありながら一目で角松と見抜いた2人に、さすが親友だと妙なところで呼び出した艦長である梅津は感心した。
「そこまで驚くことはないだろう」
角松は心外そうに言った。彼にしてみれば男の体が女になっただけで自分は何ひとつ変わっていないと思っている――というより思い込もうとしている。見た目よりも内面を重視する角松らしいといえばそうなのだが、限度があるだろうと3人は思った。
「お前…なんでそんなに落ち着いてるんだよ」
「俺が草加になったってんならビビるけど、俺だしな」
なにより、タイムスリップなどという非現実的な体験の真っ最中である。ちょっとやそっとじゃ驚かない。
「それとこれとは話が別だろう」
「そうか?似たようなもんだろう」
全然違う。3人同時に心の中でツッコミをいれた。角松が物事をありのまま受け止めたうえで、とんでもないことをしでかす性格であることはとっくに承知していたが、ここまでアレだとは。
「しかし、洋介」
菊池がどことなく頬を染めつつ角松から微妙に眼を逸らし、眼鏡を光らせた。内心の動揺を悟られないよう、必死でいつもの冷静さを装う。なにせ角松が女だったらと菊池は昔から何度も考えたものだった。もし、彼が彼女だったら、親友などになることなく恋人の座を獲得していただろう、と。菊池の自分勝手な想像にすぎないが、自分か角松の性別が違ってさえいたら、結婚できると思っていた。
それがいきなり現実になった。
しかし、菊池はどこまでも菊池であった。
「いくらお前の中身が変わっていなくても、女になったのはやはり問題だ」
「何がだ?」
「いきなり『女になりました』なんて部下にどう説明するんだ。動揺するに決まっている。現に、お前を見た奴はパニック状態だ」
『船務長』を背中にしょった角松に、見たもの全員がああ副長だとわかったものの、ほぼ全員がパニックに陥った。さすがに面と向かって副長ですかと訊く者はなかったが、彼らは足を止め、角松の全身を眺め回し、そして一斉にトイレに駆け込んだ。
そこで何をしているのか予想できるだけに菊池のこめかみには血管が浮き上がる。今の角松は男だった時の理想の上司が、そのまま理想の女性になったも同然なのだ。狼の群れに子羊がぽんと現れたようなものだ。
もっとも、おそらく一番危険な狼が必死で自分を抑え、周囲に目を光らせているがために、誰も手が出せない状態にあることに当の狼は気がついていないのだが。
「なんつーか、アレだな。一発お願いしたい女上司ってトコだな」
まじまじと角松を眺め回した尾栗が、実にあけすけに、ひとことで今の角松を表現した。
3、罠をはる
どうせならこれを上手く利用したらどうか。尾栗が悪戯を思いついた子供のように真剣に、瞳を輝かせながら提案した。「さすがにこれはよろしくない」と梅津の判断をうけてのことだった。
いつものように「まあよかろう」と言ってやれないのは梅津にもつらい。だが艦長として、これ以上非常識な事態で乗員たちを混乱させるわけにはいかなかった。もうすでに混乱している者はどうしようもないので、しかたなく見てみぬフリだ。
「面会謝絶?」
当面のところ「みらい」との交渉を担当している滝栄一郎中佐は、やはり日本海軍との交渉役である「みらい」副長角松洋介二佐が面会謝絶に陥っていると聞いて、目を剥いた。
角松の代理人として交渉に臨んだ尾栗と菊池は、滝の驚きもまことにごもっともであるという態度で重々しくうなずいた。
「…病気か?」
「病気…といえるのだろうか、わからんが、人前に出せないことは確かだ」
どことなく憔悴した菊池が虚ろな眼をして答えた。滝はますます驚く。
「医者に診せたのか、なんならすぐに手配を……!」
「それにはおよばない。というか、診せても無駄だ」
「な………!」
くちびるに拳をあてて尾栗が滝を制した。苦々しげにも聞こえるわずかに震えを帯びた声が実は笑いを堪えているのだということを知っているのは、尾栗本人しかいない。
滝に告げた言葉は、本当のことだ。角松を人前には出せないし、医者に診察させても彼女が彼であることをまず信じてもらえないだろう。
だが、すべててもない。
角松の身になにが起こったのか。「みらい」が混乱とまではいかなくとも、妙に浮き足立つような雰囲気であることは滝にも伝わっただろう。尾栗と菊池だけではなく、「みらい」全体が、どうもおかしいということが。
滝は考え、想像力を働かせるだろう。そして滝の動向は、必ずある男にも伝わるはずだった。
そう――草加拓海に。
4、こころもとない手
絶対に来る、という尾栗の自信はどこから来るのか。
「…草加がどこにいるのかもわからんのだぞ」
うめくように、菊池が言った。彼にしてみればこれ以上男たちの目に角松を晒したくない。ましてや草加だ。見られてたまるかという気持ちが強かった。
「どこにいようが洋介に何かあったと知れば、飛んでくるさ」
そうだろうかと思うが、それもどうかなとも思う。そんなに大切にされた覚えは角松にはなかった。
なによりこんな姿を草加に見られたら、これをネタに一生ヤツに笑われ続けるに違いない。想像するだけで腹が立つ。
「草加が来る前に元に戻ってりゃいいんだよ」
「それができれば苦労はせんだろうが、まったく……」
もう3日も部屋に閉じこもっているのである。心底うんざりと角松は言った。
乗員たちの混乱はひとまず治まったが、入れ替わり立ち代り角松を見に来る。大変気分が良くない。俺はパンダか、と怒鳴りつけてやりたくなる。いくら娯楽に乏しい護衛艦勤めとはいえ、上官を見世物にするとは何事だ。
動けない日々は満州でも味わったことがあったが、あの時は具体的に体が動かせなかった。今とは違う。気が滅入っていくばかりだ。
「トレーニングにも行けないし、体がなまっちまう」
「面会謝絶ってことになってるんだ。人目につく場所はまずい」
むう、と口を噤んだ角松は、それから仕方無さそうに要求を口にした。
「なら、風呂くらいはゆっくり入れないか?」
「それくらいならいいんじゃないか」
おずおずと言い出した角松とは逆に、尾栗は実にアッサリと承諾した。女になって3日間、角松は一度も入浴していない。入りたいと言い出さなかった。いくら角松が落ち着いているとはいえ、女になった自分の裸体を直視することにはためらいがあるのだ。
「う――……」
意味のない唸りをあげつつ、なるべく自分の体を見ないように角松は湯船に浸かった。数人で入浴できるように広く造られた風呂をひとり楽しむ余裕はない。そわそわと落ち着かない気分だった。
見たくない、見たくないがしかし、自分の体である以上は洗わなくてはならない。角松は思い切って湯船から上がり、えいやっとばかりに鏡を見た。
曇り止め加工のされた鏡に映し出された自分は、これでも俺かと文句をつけたくなるくらい華奢だった。同年代の女性からすればおそらく大柄なのだろうが、そもそも角松洋介という男が同年代の男よりも大柄だったのである。角松が今の自分をちいさいと思ってしまうのも無理のないことであろう。
ふくよかな胸からなだらかに線を描いてくびれた腰、丸みを帯びた尻、脂ののった肢と、きゅっとしまった足首。全体的にバランス良く、自分でなければ口説いてしまいそうなほどだ――顔さえ見なければ。
角松は二の腕に触れてみた。力瘤はできるものの、男の体に比べれば硬いとはいえない。やわらかな皮膚に包まれた体。女だ。
女の体というものを唐突に意識する。こんなにもかよわく、心細い体であるとは思いもよらなかった。
あまりの理不尽さに泣きたくなってくる。こんなちいさなこころもとない手で草加を殴っても、痛くも痒くもないのではないだろうか。
「くそ……っ」
鏡に映った、本人以外の男が見たら奮いつきたくなるような女は、非常に似つかわしくない悪態をついた。
5、不名誉な烙印
草加の登場は、彼と出会った時同様唐突だった。
「角松二佐の容態はどうなんです!?」
息せき切って、CICどころかICUにでも飛び込んできたかのような勢いで、草加は梅津に詰め寄った。艦長を除く全員が本当に駆けつけてきたことに驚いたのはいうまでもないだろう。
「草加少佐、落ち着いて――」
まずはお茶を一杯、とでも言いたそうなのんきな梅津に、とっくに頂点に達していた苛立ちを爆発させた草加はさっさとCICを後にした。目指すはもちろん角松の部屋だ。
「角松さん!」
しかしノックもせずに飛び込んだ部屋に角松はおらず、タバコを吹かす尾栗となぜか赤面している菊池がいるだけだった。
「草加!!」
草加は2人の表情をすばやく読み取った。尾栗はどこか楽しそうに、菊池は思い切り嫌そうに、草加を見て驚いている。話を聞きだすなら尾栗だ。
「来たな、草加――洋介なら風呂だ。お前さんが来るのを待ってたぜ」
「風呂?」
何かある。待っていた、ということは罠だったのだろうかと草加は怪しんだが、それにしても梅津や菊池の態度が気になった。まるで角松に会わせたくないとでもいうような。なにもない、本物の罠であればもっと明確に態度に現れるはずだ。
「…風呂ですね」
「ちょ…草加!」
慌ててひき止めようとする菊池を無視して草加は角松の元へと向かった。2人が後からついてきたが、待つことはせずに風呂場のドアを開ける。
「角松さんっ」
角松は、いた。
ちょうど風呂から上がり、バスタオルで体を拭いているところだった。2人は言葉もなく、その場で凍りついた。
そのとき、ようやく追いついてきた尾栗と菊池がやってきた。菊池はバスタオルでところどころが隠れてはいるものの、ほぼ全裸という角松のあられもない姿に瞬時に頭まで血を昇らせ、鼻血を噴いてぶったおれた。約2リットルはでていたというのはその時菊池を介抱した尾栗の談である。少々大げさだ。
一方の草加といえば、彼らしくもなく完璧に固まっていた。
目の前にいるあきらかに女性の体をもつ人物は、角松なのには間違いない。が、しかし女であることにも間違いはない。なんせ全裸だ。間違いようがない。すっぱだかの女が目の前にいる、という事態に、草加の頭はショートしていた。妻がいるとはいえこの手のことにはきわめて潔癖であった草加は、いったいどうしたらいいのかわからずにただ目の前のうつくしい女性を見つめ続けた。
この場合、正解は謝罪してすみやかにこの場を去ることである。が、男3人はそのことに気づかず、結果いち早く我に返った角松が行動を起こした。
風呂場で闖入者に出会った人間が、てっとり早くそいつを追っ払い、かつ周囲に危険人物がいることを知らせる行動――すなわち、絶叫をあげたのだ。
「ぎゃあああああ―――!!」
その後しばらく「みらい」のみならず日本海軍内においても、「のぞき魔」「痴漢」といった大変不名誉なレッテルが草加少佐に与えられたのだった。