さわやかな5題
1.炭酸飲料
おごってやるよと言って尾栗が草加に手渡したのは、「みらい」の者なら誰もが知っているおなじみの赤い缶ジュースだった。
受け取った草加はありがとうと礼を言い、ものめずらしげに缶を眺めた。尾栗がにやにやしながら親切そうに忠告する。
「よく振って飲むんだぞ」
「わかった」
草加は素直にうなずいた。
尾栗の笑顔は親しいものならなにか企んでいるそれだと気づくだろうが、あいにく草加はそう尾栗と親しいわけではなく、未来に関することはとりあえず素直に教えられている。手に持った赤い炭酸飲料入りの缶を、なんの疑いももたずに思い切りよく上下に振った。早くも付きはじめた水滴が指先を塗らした。
さて飲んでみようと草加は思ったが、そこで重大なことに気がついた。
はたしてこの缶は、どのようにして開けるものなのだろうか?
草加の知っている缶とは、缶切りがなければ開けることができない。尾栗が缶切りを渡さなかった以上これは道具なしでも開けられるものなのだろう。それらしい部分も確かにある。しかし、草加にはこれを如何にすべきかわからなかった。尾栗に尋ねようとした時、タイムリーに角松がやってきた。
「…なにやってんだ尾栗、草加」
「角松二佐」
買ってもらった、と嬉しげに見せびらかす草加に、二人が仲良くなるのは良いことだろうと、角松はこの海軍少佐がやってきてから久しぶりに和んだ。
「…実は、開け方がわからないのだ。開けてくれ」
まるで子供だ。角松は気楽にいいぞと缶を受け取り、プルトップに指をかけ、引き上げた。こうやって――
草加拓海海軍少佐は赤い缶ジュースを振ってはいけないということを、今日学んだ。ついでに尾栗の笑顔には要注意だということも。
茶褐色の飲み物は角松の指や顔にまで容赦なく降り注いだ。のぞきこむように見ていた草加にも、もちろんかかった。第二種軍装ではなく「みらい」の作業服だったのは不幸中の幸いだろう。
うわっと叫びをあげた角松は、とっさに噴き出してくるそれに口をつけた。
「草加、まさか炭酸を振ってはいけないことを知らなかったなんてないよな?」
「そ、それくらいは知っている。その缶ジュースが炭酸飲料だったことを知らなかっただけだ」
「よし」
それならこの事態が誰の引き起こしたものであるのか、明白だ。
角松はちゃっかり自分だけ安全地帯に逃げていた尾栗を睨みつけた。
「康平、あとで説教だ」
「えーっ」
「えー、じゃない。まったく。草加、とりあえず手を洗いに……?」
しゅわしゅわと噴き出してくる炭酸にうんざりしたように角松は眉を寄せた。糖分のたっぷり入ったそれが早くもべたついてきている。それを嫌うように舐めた。指から手首まで、べたべただ。
草加はその仕草になぜか顔を赤らめた。引き寄せられるようにその手を捕まえる。
そして、舐めた。
「!?」
「………あ」
今自分のしたことがわかっていないというような表情で、草加は角松の指と顔を見比べた。角松も草加に負けず劣らずびっくりして、硬直している。怒るというより呆れているようだ。
「……なにしてんだ草加」
「いや、その、なんだか美味そうだったのでつい……」
「行動するより先に言えよ。やるから」
「えぇ!?」
驚いた声をあげた草加に呆れたまま角松はほらと缶を渡した。
「まだ半分くらいは残ってるだろ」
「…………」
受け取ったものの、ぽかんとしている草加と、べとついた顔や指に嫌そうに眉を顰めている角松に、悪戯の張本人は失敗したのか成功したのか複雑なところだと思い、菊池がいなくて良かったと深いため息を吐き出したのだった。
2.木の枝の上から
瞼を開ければ、空の青。
見上げているわけではないのにどうして。どう思うと同時に自分が仰向けになっていることに気がついた。木の枝が体を支えてくれている。おかげで地面への落下を免れたのだ。
「大丈夫か?」
突然下から呼びかけられて、なんとか首だけを動かして見ると麦藁帽子にTシャツ短パン姿の少年がびっくりした表情でこちらを見上げていた。かれの足元には木の枝。さっきまで足をかけていたやつだ。
「怪我は?」
「平気…でも動けない」
ヘタに動いたら今度こそ地面に真っ逆さまだ。痛いだけでは済みそうもない高さまで来てしまっている。その子はこちらの状況にうなずいて、足と手をどの位置に伸ばせばいいのか指示をだしてくれた。
「どうもありがとう」
「どういたしまして」
改めて、今度は頑丈な木の枝に座る。その子もするすると木を登り、すぐ隣りの同じく太い枝に跨った。
見かけない子供だ。自分と同じか、すこし上くらいの年齢だろうか。この辺りで同年代の子供はみんな遊び仲間だから知っているはずなのに。どこの子だろう。
「いきなり枝が降ってきたからびっくりしたよ」
にこにこしながらその子が言った。
さっと顔が赤くなるのがわかる。あの時の驚きと恐怖が今更のように込み上げ、見られていたという羞恥が湧いた。
「ぼくも、びっくりしました」
二人して笑いあって、自己紹介をした。草加拓海です。その子も名乗ったのだが葉ずれの音が耳を塞いで聞こえなかった。
どこから来たのと尋ねる前に、かれが言った。
「ここ、俺の一番のお気に入りの木なんだ」
「え?」
どういうことだろう。ここはぼくのお気に入りの木のはずなのに。
だが、かれが嘘を吐いているようには見えない。にこにこしながらよく登れたなぁと感心したように言っている。
よくよく周りを見てみるとなんだかいつもと景色が違う。蝉の鳴き声もいつもの耳馴染んだ声とは別だった。
「おまえ、どこから来たんだ?」
「ええっ?えーと、その、海が見えるかなと思ってたんだけど……」
「海?」
どこから来たもなにも、ここはどこだろう。答えになっていない返事をして、草加はその子を窺った。
かれは少しぽかんとした表情になった。
「海ならもう少し上からなら見えるけど…」
「本当か!?」
海が見える。それだけで何もかもどうでもよくなった。憧れの海だ。
「うん。でもこれより上は枝が細くなってるから、危ないぞ」
「大丈夫だ、気をつけるから!」
ぎし、としなる枝に手足を絡めてさらに上へ。体を移動させるたびに枝が大きく揺れた。
「右側を見てみろ、光っているのが見えるか?」
心配そうなかれの声に従って、右に目を向ける。
空と混じりあう青が、かれの言うとおり光っていた。あれが海。
「あれが、海!?」
「そうだ。おい、危な――」
知らず、右側に寄っていたらしい。片足を乗せていた枝が、重みに耐え切れずに圧し折れた。
落ちる。
手を伸ばす。枝を掴んだが一瞬ですり抜けていく。勢いのついていた体に重力は容赦がなかった。
気がついたら空の青。
見覚えのある風景にびっくりして、懲りずにまた木に登ってみた。かれはいなかった。
その後も海が見たくなるたびにあの木に登ってみたが、二度とあの場所へ行くことはできなかった。
夢でも見ていたのだろうと言われるのが怖くて、誰にも言わなかった。白昼夢。その一言で済ませてしまうにはあまりにも鮮やかに覚えている、あの海の光。木の枝の上から見た光景。
そして海への憧れは年を追うごとに強くなり、とうとう海軍兵学校への入学を決めた。
いつか海であの子と会い、その時こそかれの名前を心に刻むのだ。
3.潮風
楽しい夏休みは今年でおしまい。
頭でわかっていてもなんとなくピンとこない夏季休暇を、尾栗と菊池は角松の家で過ごすことにした。江田島からは実家よりも角松の家のほうが近いというのが最大の理由だが、三人一緒に過ごせる夏を惜しむ気持ちも強かった。そしてその気持ちは、日を増すごとに大きくなっていった。
朝から海で遊んで昼食後には並んで昼寝。夕方になったら家に帰る。
「今時小学生でも味わえない夏休みだなー」
しゃく、とスイカに齧りつきながら尾栗が言った。角松と菊池もうなずく。
「若い子は外で遊んでらっしゃい、だもんな。扱いがまるっきり子供だ」
「ばあちゃんたちから見たら子供なのは間違いないけどなぁ」
角松の家は尾栗と菊池にとって驚くことばかりだった。多忙を極める現役自衛官の父親の代わりにかれの家にいたのは祖父母(正確には大叔父と大叔母)を筆頭とする旧海軍関係の年配者たちだったのだ。洋介ちゃんおかえりまあまあ大きくなって、から始まり親友二人の紹介とかれらの紹介、昔の海の男はなという昔話もおせっかいにも嫁の心配をする気の早い話まで、尾栗と菊池には始めてのことだらけだった。親戚でもない人たちが集まるのもすごいことだが、その全員が家に入りどんちゃんさわぎができる家というのも驚いた。
「でも、いいよな」
「ああ。…なんか、懐かしくなる」
広い部屋には夏草模様の蚊帳が吊ってある。せっかくのお客様だからと出してくれたのだ。中に入って横になれば、藺草の香ばしい匂いヒヤリとした冷たさが心地よかった。クーラーをつけていないので暑いことは暑いのだが、外の殺人的な暑さとは一線を画す暑さだ。
蝉の鳴き声。降るような――という表現がぴったりの夏特有のやかましさが空から聞こえてくる。
ごろごろしながら話をしているうちに、寝入ってしまったらしい。尾栗がふと気づくと腹にタオルが掛けられていた。どこかの誰かが様子を見に来て、掛けてくれたのだろう。
二人は、と上体を起こす。
角松はまだ眠っていて、そんなかれを菊池がじっと見つめていた。尾栗が起きたことに気づいて微笑する。
日焼けした角松の顔。鼻の頭の皮が剥けてきていた。元気いっぱいに遊びまくる子供そのものだ。自分たちもそう見られているのだと思うと、なんだかおかしい。
「…洋介」
ぽつりと菊池が名前を呼んだ。とても幸福そうで、懐かしげで、愛おしさのこもった――綺麗な顔をしている。尾栗を見て、その綺麗な顔は笑み崩れた。
「なあ――なんだろうな?この気分」
「さあ…でも、もうわかってるんだろ?」
「そうかもしれない…でも、どうしてだろう」
心の奥の、やわらかな一番大切なものを仕舞うところに、誰かが棲んでいる。その不思議さはとても言葉で説明できるものではない。いつのまにか潮風が体に染み付いている。そんなようなもの。
洋介、とまた菊池がささやくと、角松がゆっくりと瞼を開いた。見つめられていることに、呆けたまま笑う。
恋に落ちる瞬間の顔とは、こんなにも綺麗なものなのか。
吸い込まれるように角松に魅入っている菊池に、尾栗はそんな感想を抱いた。
4.笑顔でサヨナラ
「みらい」から持って来た無線機の使用方法を説明している間、特務中尉は興味深々に瞳を輝かせていた。といっても、いつもの無表情なのには変わりはないのだが。
一通り教わって無線機を受け取ると、かれは操作手順を繰り返した。無表情に熱心に。子供みたいな集中力に苦笑して、ためしにともう片方を持っている尾栗と交信して見せた。如月は素直に感心し、驚いている。これほど性能の良い無線機が各地に配備されればさぞ戦況が楽になるだろうにと絶賛した。角松としてはちょっといい気分だ。
「使い方はわかった。なにかあったら連絡する」
「ああ」
「それで私の任務は、菊池という男と、桃井という看護婦を内地へ送ればいいのだな?」
「ああ。だが菊池はまだ傷が完治していないだろう。苦労だと思うが、頼む」
「ひとつ、確かめておきたいのだが」
「…何だ?」
「その菊池という男、信用していいのだな?」
「ああ」
実にあっさりと角松はうなずいた。あまりにも迷いのない返事に、如月はかえって苛立った。菊池の怪我の原因というか、経緯を聞いていただけになおさらだった。
「あんたらしいが…私は私で確かめさせてもらう」
「それでいいさ」
角松は砂浜に仰向けに転がった。21世紀では考えられないような夜の暗さにもかかわらず、月と星の光のおかげで仄かに明るい。
如月は無線機を弄っている。放っておけば分解して組み立て、仕組みを覚えてしまうかもしれなかった。こいつに携帯電話をみせたらさぞかし吃驚してくれるだろう。いや喜ぶかもしれない。ともかく分解は困る。こう見えて機密の塊なのだ。
「……なんか、ロマンチックじゃないなぁ」
「…………は?」
「南の島で、夜の海に二人きりで、星は綺麗で。なのに話題が戦争のことばかりとは」
真面目くさってそう言うと、如月は呆れ顔になった。
「もったいないと思わないか?」
「そんな場合ではなかろう」
もったいないとか言える暢気な状況ではない。この場で角松とそういった行為をするのは危険すぎる。泳いで帰る間に溺れて死んだ、なんてことになったらたまったものではない。角松がそれほどヤワではないことは知っているが、危険は避けたほうがいい。
「なら、キスは?」
「…どうしたんだ?いやに積極的だな」
「もう二度と会えない」
「…………っ」
「…かもしれないな、と思って」
これから角松と「みらい」は、全ての力を使ってこの世界に戦いを挑む。草加の持つ原爆を使用させないために。そして日本や世界の未来のために。
結果は誰にもわからない。
「一番好きな顔を覚えておきたい」
あの時の如月は感情を剥き出しにする。
「もう会えないかもしれないなら、笑顔で――」
最後まで言わせなかった。
如月は角松に覆いかぶさり、そのくちびるを貪った。あえて考えずにいた可能性を、消し去るように。
5.青い空、白い雲
江田島の夏は暑い。炎天下だ。
その炎天下の中、山道を駆け足で登っている。自分の息すらうっとおしくなるほどの暑さだ。第一術科学校、通称江田島名物の山登りだ。駆け足で頂上まで登り、さらに校歌を歌わなければならない。声などだせそうもないのだがどんな声でもいいから大声で歌うのだ。おせじにも上手とは言い難い歌声が眼下の校庭まで届けば、教官が旗を振ってくる。それを見ることができればようやく一安心だ。声が届かなければ旗は振られないが、届かないことは決してない。
そしてまた駆け足で下山する。集合、整列、解散をするころには全員汗まみれで、どっか溶けてるんじゃないかという冗談が飛び出してくる。よく死なないもんだと全員が思っているはずだ。
「だ〜〜っ、暑い〜!」
休憩になって、しっかり木陰に座り込んだ尾栗が悲鳴をあげた。
「風呂に入りたいな、水風呂」
顔どころか頭まで水を浴びた菊池が言った。ちなみに眼鏡は外している。
「これ、絞ったら汗が流れてくるんじゃないか?」
笑いながら汗でぐっしょりと濡れた体操着をつまんでいた角松は、言うなりそれを脱いだ。
ぎょっとしたのは尾栗と菊池だけではない。
思い思いに涼を求めて散らばっていたクラスの視線が、一斉に角松に注がれた。しかし本人は気づくことなく本当に体操着を絞っている。ぽたぽたと汗が落ちるのにすごいすごいと歓声をあげた。
「よ、洋介!」
菊池は咄嗟に髪を拭いていたタオルを角松に投げつけた。ぎゃっと情けない悲鳴があがる。濡れているしかも体温で生ぬるいタオルは気持ちが悪いものだ。
「なにすんだ雅行っ」
「お前、みだらに脱ぐな!」
抗議の声もなんのその。菊池は角松の手から体操着を奪うと、しわくちゃのそれを広げて頭に被せた。ぎゃー、とまた悲鳴。濡れて生温かいうえに汗臭いシャツは最悪だった。
「みだらってなんだよ雅行。それをいうならみだりに、だろ」
「いいや、みだらだ。お前な、洋介。脱いだ途端に注目浴びたのわかってないだろ。あんまり無防備に脱いでると、いつか誰かに襲われるぞ!」
「なんだそりゃ」
意味がわからん。角松は体操着の裾を掴んでばふばふ仰いだ。風が起こって気持ちがいい。汗臭いけど。角松には見えないが、かれの腹から臍のあたりがちらちらと見えていた。
ひくりと菊池はこめかみを引きつらせる。
「だーかーらーみだらにそういうことをするなっ」
「みだらっていうなよ恥ずかしい。皆やってるじゃねえか!」
「お前がやるからみだらになるんだ!腹見せ禁止!臍をみせるなー!!」
ぎゃあぎゃあと、正しいけれど認めたくないクラスその他の意見を喚き散らしている菊池と、まったくわかっていない角松。平和な光景だ。
「ああ、空が青いなあ」
微笑ましいような危なっかしいような親友二人を眺めながら、尾栗は暢気に呟いた。