人魚との出会い方





1:家族ってありがたい



 海洋生物学者といえば聞こえはいいが、その実態となると結構貧乏だ。テレビなどで顔が売れていれば本も売れるだろうが、そうではないほとんどの学者は大学や研究所の給料で生活をしている。研究対象のすべてに経費がおちるわけではないから、それが「研究」と認められるまでその経費はすべて自分持ちとなる。ならざるを得ない。よって、草加拓海は貧乏であった。
 彼が彼のもっとも興味を持ち、人生を捧げたいと願う対象であるところの『人魚』は、そもそも実在の生物として認められてすらいなかった。少なくとも海洋生物ではない。やるなら童話の研究でもしろと言われるに違いなかった。畑違いもいいところだろう。当然といえば当然であるが、現実に人魚に命を救われた草加としては、そんな常識などわずらわしいものでしかないのである。
 では、そんな草加がどうやって人魚研究の資金を得ているのかというと。

「義兄さん」

 ノックの音と共ににこりともしない顔をみせたのは、草加の義弟だった。入室の許可を草加が与える前にさっさと入ってくる。研究室にいた女性職員がつい振り返るほどの美青年。
 あの夏の日、家族を喪った草加は母の妹一家に引き取られることになった。彼はそこの1人息子。草加よりも5つ年下の義弟は、虚ろとまではいかないものの感情の起伏の乏しい顔で義兄となった草加を見つめ、はじめましてお兄さんと言った。草加にとって甥に当たる子供と会うのは数えるほどしかなく、いずれももっと幼かった頃だったため、あまり彼についての記憶がない草加は、いきなり現れて『義兄』となった自分にあまりいい感情を抱いていないのではないかと不安になったものだった。が、それは杞憂に終わった。
 この義弟があまり感情を表に出さないのはどうやら生まれつきであるらしく、誰に対してもそうだったのだ。実際、この義弟ほど草加を慰めたものはいなかった。
 いっぺんに家族を喪い周囲の大人たちに『人魚』は彼の頭の中で生み出された錯覚である――子供が泳いであの海から陸地まで辿り着くことは物理的に不可能であるから、救助した者はいたのだろうが、力尽きて亡くなってしまったのだ。草加はそれを受け止められず、あれは『人魚』だったと言うのだ――と解釈され、塞ぎこんでいた草加によりそうようにぴったりと張り付き、何度も人魚の話をせがんだ。人魚の存在を否定しないたったひとりの味方がこの義弟だったのである。立ち直った草加は一度、なぜあんなに人魚の話を聞きたがったのか尋ねたことがある。その時、この義弟はやはり顔色ひとつ変えずに答えた。あのころ人魚の話をする時だけ、義兄さんは安心した顔をしていたから。
 そして現在、大人になった義弟は児童向け文学の作家として名を馳せている。デビュー作はその年の新人賞を獲得し、未だに根強い人気があった。

「克己くん、どうした?」

 如月克己が草加の所属する研究所に顔パスで入ることができるのは、彼の寄付金と容姿に寄る所が大きい。黙ってさえいれば如月は美青年なのである。ひとたび口を開けばけっこう毒舌だったりするのだが、それが発揮されるのはもっぱら親しい人のみなので今のところ問題になったことはなかった。彼はつかつかと草加に歩み寄ると、鞄の中から手紙の束を取り出した。

「手紙が溜まったから」

 受け取った手紙に草加は苦笑する。宛名は『如月克己様』になっているのだ。

「君へのファンレターだろう」
「王子様あてだ」

 このやりとりも、慣れたものだ。如月のデビュー作、人魚と王子の物語は(何を隠そうこれがタイトルだ)王子が再会を誓う場面で終わっている。読者からの続編を望む声が多いのだ。

「早く再会してくれ。とのことだ。早く再会してくれ王子様」

 王子様にあてられた熱いファンレターをぱらぱらと読み、草加は正真正銘自分宛の手紙を見つけた。これも毎年届けられる。
 あの海で家族を亡くした者たちが集う遺族会。命日を偲ぶ集会への招待状だった。





2:遺族会



 人魚の鱗は今も草加と共にある。傷つけるのを嫌がった草加のために、義父がハンダでチェーンをつけ、ペンダントにしてくれたのだ。歳月のためにあの日のような切れ味はなくなっているが青い輝きは失われていなかった。
 客船沈没の原因は、電気系統からの出火だった。万に一つもあるはずのない船内の出火にパニックになったのは乗客だけではなく、訓練を受けているはずの船員ですら混乱していた。煙が充満し、足元が海であるという恐怖。逃げ惑う人々をどうすることもできず、結果として多くの死者をだした。助かったのは救命ボートに乗り移ったり、しがみつくことができた者たちばかりで、船が渦を生み出しながら人間とともに沈んでいくあの光景は生存者の心に消えない傷を残した。
 たったひとり、陸へと辿り着いた草加はその中でも異色の存在で、当然マスコミその他の注目を浴びた。人魚の話は美談として伝わり、その該当男性が誰であるかの捜索も行われたが草加は人魚説を覆さなかったし、遺体も発見できず、うやむやのまま人々の記憶から遠ざかっていった。20年も経てば、もはや昔話だ。
 月明かりに鱗を透かし見て、草加はよく思ったものだった。この鱗から光の筋が伸びて、人魚への道を示してくれないだろうか、と。アニメーションならありそうなことだが、現実に鱗はただの鱗にすぎなかった。研究者となったとき、解析をしてみた結果。神秘的なことなど何ひとつない。
 暗い海の底には、両親と姉が今も眠っている。草加は海洋生物学者として様々な海を潜ったが、この海だけは例外であった。怖ろしいのだ。泳げないというトラウマを克服できていないだけではなく(潜ることはできる)、懐かしい家族に手招きされたら、飛び込んでいってしまうかもしれなかった。忘れたいわけではない。だが、忘れさせてもらえないというのも辛いのである。

「草加さん」

 声をかけられて草加は振り返った。手のひらから零れた鱗が煌きながら胸元へと戻る。初老の女性が微笑みながら近づいてきた。挨拶をかわし、近況を話し合う。立派になったわね、と彼女はしみじみ言った。

「ご両親とお姉さんも、きっと喜んでおられるわ」
「だと、いいんですが」
「そうよ。私なんか、いまだに駄目。この日にならないと、恐くて海には行けないわ。…次は、どこへ行くの?」
「沖縄です。ジュゴンの調査に」

 青い海。白い砂浜。南国の太陽。
 人魚はどこにいるのだろう。





3:人魚、再来



 沖縄の海にはジュゴンがいる。マナティと共に人魚のモデルとなったといわれる哺乳類だ。穏和な性格と人懐こさで人気があるこの海の生き物は、しかし絶滅の危機にあった。

「…いませんね」

 青い海を哀しげに見つめて、津田が言った。草加の後輩にあたる研究員だ。
 小型の調査船はエンジンを切り、ジュゴンの目撃情報が寄せられているポイントに浮かんでいる。

「相手は海だ。ちょっと遊びに行っているだけかもしれんぞ」

 ジュゴンにとってはちょっとでも、人類にとっては広大だ。人間の描く線などおかまいなしで彼らは移動する。調査範囲と日程が限られている者たちにとって、それは無情なほどである。

「思っていたより珊瑚の状態も悪くない。希望は捨てずにやろう」
「はい」

 ダイビングスーツと酸素ボンベを背負った草加が胸元のペンダントを確かめる。海へと赴く時の、彼の儀式だった。
 なるべく静かに海中へと潜り込む。まとわりつくあたたかな海水に湧き上がってくる恐怖心を押し込めて、草加は目を開いた。透明度の高い、うつくしい海。
 珊瑚の拡がるところまで来ると、多様な生物たちが数を増す。人間と同じで、生命が混在しているほうが魚たちにとっても生きやすいらしかった。その中を、陸上生物である草加が不自然な姿を晒して泳いでいく。
 こぽりと二酸化炭素を吐き出す。この時ほど海では生きていけないのだと思い知ることはない。苦しかった。人間の地図など気にもせず、人魚を探して大海原をどこまでも行けたらどんなにいいだろう。

「………?」

 と、目があった。
 何にだろう、と確かめようと目を凝らした途端、胸に飛び込んでくる体。きらきらと、青い鱗が揺れている。

「………っ!!」

 ぎゅうぎゅうと締め付けられて少しだけ痛い。頬を擦り付けてくる人魚を抱きしめながら、草加はその顔を確かめた。間違いない。彼だ。草加の人魚。黒い瞳が喜びをいっぱいにあらわして、草加を見ている。その口が何かを言いかけ――たちまち驚愕に歪められた。
 バッと草加の体を引き剥がし、上から下へと眺め回す。

「……人間!?」

 叫ぶや否や、身を翻した。草加は手を伸ばしたが人魚に叶うはずがない。みるみる遠ざかっていく人魚に草加はマスクとゴーグルを外して叫んだ。

「待ってくれ!!私は」

 思い切り吸い込んだ海水に呼吸をふさがれる。

「待って……!」

 たちまち消え去った青い光に胸が引き裂かれそうになる。もどかしく思いながら草加はダイビングスーツの上半身を脱いだ。肌身離さず持っていた人魚の鱗を握りしめる。マスクから酸素を補給し、ひと息に叫んだ。

「思い出してくれ、ぼくの名前は、草加拓海だ!!」

 忘れたことなど一時もなかった。人魚のほうから見つけてくれたのだと、抱きしめてくれたのだと一瞬歓喜したのに。
 胸が痛い。息もできない。涙が海に溶けた。





4:子供は大人になる



 水中を伝わって届いた声に、人魚はスピードを緩めた。人間の姿が見えなくなっていることに一安心する。
 捜し求めていた仲間にようやく会えたのだと、つい飛びついてしまったが、まさか人間だったとは。まだ胸が早鐘を打っている。
 人間には気をつけなければならない。やつらは人魚をつかまえ、生きたまま肝を食うという。昔から海の生き物たちのあいだではそんな言い伝えがまことしやかに語られていた。人魚は振り返り、人間の近くまで戻ってみようかと迷った。今まで会った中で、人間の知り合いなどたった一人だ。名前を言ったのも。
 あの子なのだろうか。人魚はゆっくりと慎重に戻ってみることにした。
 人間は上の服を脱ぎ、何かを握りしめていた。その手を額にあて、ぎゅうと目を閉じている。人魚がゆっくりと旋回すると、人間は目を開いた。
 人魚の姿に人間は目を見開いて、次に切なそうな表情になった。握りしめていた両手が開かれる。青い鱗が日に輝いた。
 一定の距離を保ったまま、人魚は人間を見つめ続けた。昔一枚だけ剥がした鱗は再生せず、そこにだけ肉がのぞいている。痛みと共に、あの子供の顔が脳裏に蘇る。
 人間が手を伸ばした。子供が親を求めるような仕草に人魚はその手を握り返していた。じわじわと喜びがこみあげ、にっこり笑った人魚にとうとう人間が縋りついてきた。
 海面にあがる。口に咥えていたものを外した人間がやっと会えたと言った。

「…おまえ、あの子か?大きくなったな!」

 まるっきり親戚のような人魚の言い方に人間――草加は泣き笑いの表情だ。

「ずっとずっと探していたんだ。会いたかった、私の人魚」
「よくまあこんなところまで独りで来たな。わざわざ、会いに?」

 うなずいた草加に、偉い偉いと人魚は頭を撫でてやった。くすぐったそうに笑う顔に、懐かしい面影が滲む。

「人間は成長が早いって本当だな。元気そうでなによりだ」
「あなたは変わらないな…。もう、子供ではない。子ども扱いはやめてくれ」
「はは。そうだな」

 なごやかに再会を喜び合う二人の間に、無粋なエンジン音が近づいてきた。先輩、と呼ぶ声に、心配した津田が探しに来たのだろうと草加は振り返る。そうだ、人魚の存在を、本当に実在することを、教えてやらなくては。

「津田、ここだ」
「………!」

 しかし人魚は緊張し、草加の手を振り払った。すぐさま海中へと逃げ込む。草加の慌てた声が聞こえてきたが、人魚は全力でその場から離れた。人間は船でやってきて魚たちを捕まえてしまう。あの子もそうだったのか。

「先輩!どうしたんですか?」
「津田…」

 草加は呆然と、人魚が行ってしまった方角を眺めていた。エンジン音に驚いたのだろうか。どうして去ってしまったのか、草加に真の理由などわかるはずもなかった。人魚を捕食しようなどと考えていないのだからそれは当然の困惑だった。人魚にしてみれば人間の世界では人魚の存在そのものを空想としていることなど思いもよらないことなのだ。
 決断の時だ。草加は家族のいる人間の世界と人魚の住む海とを咄嗟に天秤にかけた。ためらいは一瞬だった。20年間求めていたものがようやく目の前にあるのだ。迷っている余裕はない。

「津田、私は行く。一時間だけ待って私が戻らなければ、港に帰っていてくれ」
「え!?行くってどこへ……。先輩!?」

 首にかけていた鱗のペンダントのチェーンを手に巻きつけ、ダイビングスーツを着なおす。酸素ボンベのマスクを口に咥え、草加は海へと沈んだ。





5:プロポーズ



 草加は海に潜ることはできるが泳ぐのは苦手だった。できないと言い換えたほうがむしろ正しいだろう。今も人魚を追いかけているのか海流に流されているのかわからない有様である。足につけていたフィンがなければとっくに溺れているだろう。ちなみに人魚が草加を仲間と見間違えたのは、鰭の形を模したこのフィンのせいである。
 人魚は。残りの酸素があとどれくらいもつか。焦りと共に二酸化炭素を吐き出した。青く煌く鱗はどこにも見えなかった。
 流されて泳ぎながら人魚を探してさらに深くまで潜る。目を凝らしている草加の前に、ゆらりと大きな影がよぎった。人魚かと胸ときめかせて後を追った草加だが、そこにいたものを見て、固まった。

(サメ!?)

 探しているのはおまえじゃない。慌てて否定するが鮫が草加の言葉を理解するはずもなく、猛然と迫ってくる。人間などが泳いで逃げても無駄といわんばかりのスピードだ。

「こっちだ!」

 ハッと上を見る。太陽の光を浴びて輝くシルエット。

「早く!」

 差し出された手に向かって必死で水を蹴る。人魚は草加を引っ張りあげると鮫に向かって一閃した。
 どべしっ
 やたら重たげな音が響き、人魚の太い尻尾が鮫の頭を直撃する。勢いに飛ばされた鮫はそのままふらふらと流されていった。
 人魚VS鮫。一瞬で決着したなにやらメルヘンな対決に草加があっけにとられていると、気づいた人魚が勝ち誇るようにシッポを一撫でし、笑った。
 だが、草加が近づくと人魚はそのぶん遠ざかる。距離を保ったままの人魚に草加はあらためて疑問に思った。

「…命を救われたのはこれで二度目だ。ありがとうございます」

 海面にあがりマスクをとった草加が20年分の想いを込めて礼を言うと、人魚はほっとしたようだった。だがやはり近づいてはこない。草加の疑問を読み取った人魚が周囲を見回した。

「おまえは…」
「草加拓海、だ」
「ああ。おまえは、俺を食わない…か?」

 意味がわからなかった。

「………何の話だ?」

 ぽかんとなった草加に人魚はさらに問いを続けた。それは草加の疑問の答えでもあった。

「…人間は俺たちを捕まえて、喰うんだろう?女の人魚は特に人間の男に陸に連れ去られるって聞いた」
「なんだそれは」

 八百比丘尼と人魚姫がごっちゃになり、しかもさらに曲解されて広まっている。

「そんなこと、しない」
「じゃあなんであんな大きな船が近づいてきたんだ」
「調査だ。人魚を捕まえたとしても、殺して食べたりなどしない。むしろ、保護するだろう」
「保護してどうするんだ」
「それは……」

 調査と研究。どのみち彼らにとって「陸に連れ去られる」ことに変わりはないだろう。言葉に詰まった草加を胡散臭そうに見て、また少し人魚が離れてしまった。

「…少なくとも、私はあなたに危害などあたえない。他の人間にも、命に代えてでもそんなことはさせない。護ってみせる」

 あなたは私の恩人だ。言い切った草加にさすがに照れくさそうに笑って、人魚が近づいてきた。
 今度は草加が少しだけ距離をとった。顔が赤くなっている。あらためて見なくても人魚は当然のことながら全裸で、何ひとつ隠していない。厚い胸板も、日焼けした膚を飾る桃色の突起も、腹から腰にかけて続く線も。子供の頃にはなかった感情が俄かに芽生えたのを草加は自覚した。

「…あの、あなたの名前は何というのだ?どうして私の名前を呼んでくれないのだ」

 人間社会ではあたりまえの自己紹介を求めた草加に、人魚はそれこそ尻尾の先まで赤くなったのではないかと思った。まさか人間に、男に、以前出会った事があるとはいえそんなことを言われるなんて。人魚の風習など草加が知るよしもないことなど頭からすっとんでいた。

「そっ…そんなこと、簡単に言えるわけないだろが!バカヤロ!!」

 どべしんっ
 鮫を一撃で撃退せしめた尻尾の一振り。草加は見事に空中を舞い、綺麗に放物線を描いて海面に落下した。ひゅ〜ん、ばっちゃーん。という、なんともメルヘンチックな音が沖縄の海に響きわたる。

「あ。」

 人魚の世界では結婚の証しとして互いの名前を教えあうのだと草加が知るのは、もうしばらく後になるようだ。