大人の純愛5ステップ
1、会いたいんです
病院というところは、退屈極まりない。
楽しみに来ているわけではないのだからあたりまえだが、もはや開き直りたくなるような暇さ加減だ。
菊池はぼんやりとしながら、それでも悟りや無我の境地とやらに辿り着けるはずもなく、ただ思うのは幸福であった未来でのことだ。あの時は幸福だと自覚したこともなかった、平和な日々。
親友がいて、勤務地が遠く離れていても年に数回は連絡を取って会っていた。会えなくても繋がっている何かがあると信じていた。何か。それは友情と呼ぶべきもの。たとえ自分の気持ちだけがとっくにそんなものを凌駕してしまっていても。
角松を想って眠れない日もあった。かれを思って自涜にふけったこともあった。かれが他の誰かのことを楽しそうに話しているだけで、嫉妬が心に渦巻いてどうしようもないほど荒れた日々を送ったことさえあった。
あんなことはまだ甘かったのだな。角松も菊池もお互いを疑うことすら知らずに一方は無邪気に、一方は痛みを堪えつつ笑いあえた。かれを害するものがもしも現れたなら、いつでも戦うのだと決意を固めていたのだ。
今となってはお笑い種だ。想像だけで終わっていた「もし」が、まさか自分になろうとは!なんて幸福な日々だったのだろう。離れていても確かにあったもの、信じていたもの、永遠に続くと思われた苦悩や痛みや悲しみも、なにもかもが懐かしく、いとおしい。
洋介。菊池は心の中でその名をそっと呟いた。恋しくてたまらないかれの名前を、そっと手のひらで掬うように。菊池が自ら断ち切ってしまった絆を、強引に繋いでしまった角松。なんてあいつらしい。だからこそ、惹かれたのだ。そうだよ、洋介。簡単なことだったんだ。
再会を果たした時、きっとかれにすべてをさらけだせるだろう。言葉にしなくても、素のままの自分をかれに見せることができる。俺にはおまえでなくてはダメなんだという事実を。だから。
どうか無事で。そして、その日の来ることを、どうかお前も祈ってくれ。会いたい。
2、早く帰りたいんです
どういうわけか急ぎたがる足をどうにかゆっくり動かしながら、如月は歩いていた。顔は無表情を通り越して仏頂面になってしまっている。早くと急かす心臓の音がやかましい。まったく俺の体はいつのまに持ち主のいうことをきかなくなったんだ。如月は理不尽な怒りを渦巻かせてここ数日ですっかり歩きなれた道を進む。正確に述べるならそこでかれを待っている男のもとへと、ひたすら他のものへは目もくれずに意識してゆっくり急いでいた。
合図をする。ドアを開ける。するとそこには如月を信頼しきっている男がいて、おかえりと言った。かれを見るたびに如月はいまだに戸惑ってしまう。
特にこれといった収穫のない情報を、角松は聞いてうなずいて、思考を始める。何を考えているのか興味はあるが、ここ数日でどうでもよいことだろうという見当はついていた。なにせこの角松という男、考えるより行動あるのみという性格らしく、如月を呆れさせるばかりなのだ。如月自身驚いたことに、そんなかれやかれを援けている自分が決していやではないのだった。
もうじきなにかが起きる。何の前触れすらないが、予感があった。草加という男の影が近づいてくる。草加と角松は一体どんな関係なのか、如月にはよくわからない。角松があまり語らないせいなのだが、どうやら敵対しているらしいということだ。
じゃあ行ってくると如月は朝に出かける。気をつけろよと角松が送り出す。今日こそはヤツの尻尾くらいは掴まなくてはという任務に対する焦りと、その時が来た時を想像し懼れている自分がいる。おかしい。こんなのは如月克己らしくないと戒める。情に捕らわれたら足元を掬われるとわかっているのに、角松に惹かれていく。足が早くなる。鼓動が急かす。あの男が一体何をしでかすのか、そして一体何者なのか、知りたいと。かれのなにもかもが。
思い通りにならない心と体は同じことを望んでいる。早く、かれの元へと帰りたい。
3、色々話したいんです(黙示録)
4、触れあいたいんです
酔った勢いというものが世の中にはある。
尾栗康平は今しがたの自分の行動をそう理由付けた。すでにもう酔いは醒めている、いや体は酔っているのだろうが、頭はすっかり醒めてしまった。
隣には体温の高い生きものがすやすやと眠りこけている。角松洋介は真昼の雄ライオンさながらの風情でだらしなく横になっていた。安心しきった、年齢の割りにあどけない寝顔をさらして、尾栗の上着を胸にかけている。
尾栗は痛恨の思いで酒をあおった。誰が予想できるだろう、この親友が、一定の酒量を超えるとアッサリ眠ってしまう体質だったなんて。
角松は酒に強い。経験上それは間違いない。酔いつぶれるのはいつも尾栗や菊池が先だった。それが悔しくて、ちょっとした意趣返しのつもりで、酔いつぶしてやろうとガンガン酒を注いでやったのだ。
そして結果がこれだ。
まずいよなあ。尾栗は酒で濡れたくちびるを舐めた。ついさっき味わった熱い感触が蘇る。ヤバイ。ヤバイぞ。体の奥が熱くなる。身に覚えのある興奮が溜まっていく。こんな時に菊池は酔いを醒ましてくるといって席を外してしまった。何してるんだ早く帰ってこいよと祈りにも似た、いささか情けない思い。おまえの親友はおまえの親友に欲情してるぞ。
ちらりと尾栗は角松を見た。完全に眠ってしまっている。悪戯くらいならいいかと持ち前のポジティブな考えがよぎる。膝を崩してかれに向き直った尾栗は、まず角松の頬を引っ張ってみた。あたりまえだが固い。伸びはじめた無精ひげがちくちくと指を刺した。
起きないことに安心してさっきうっかり重ねてしまったくちびるを突く。うすく開いたくちびるから覗く舌に指をあてると、ちゅっと吸い付いてきた。赤んぼみたいだなとあまりの無邪気さに笑ってしまう。尾栗はかがみこんだ。酒臭い互いの呼気が嗅げるほど。それをふさぐと、ん、と鼻にかかった吐息を角松は漏らした。
もうこれは悪戯ではすまされないなと、この状況を愉快に思っている自分がどこかで言う。間違いなく、この男とどうにかなってしまいたいのだ。酔っているにもかかわらず血が巡っているのが良い証拠だ。股間が痛い。気持ちよりも先に体が気づいてしまった。耳を澄ましてこちらに来る足音がないかを確かめながら、尾栗は自覚した。この男と、親友と、俺は触れ合いたいのだ。
5、傍に居たいんです
あまりにもかれに焦がれていたからだろうか、夢を見た。もしかしたらありえたのかもしれない夢を。
角松と同じ青の作業服を着て、かれと共に艦橋に立ち、梅津艦長がいつかのようにおだやかに微笑して二人を見つめていた。私はかれに助言を呈し、かれは聞き入れてそれを修正し、艦長に具申する。まあよかろうの一言で艦は動き、私たちはゆっくりと悲劇からの脱出を試みようとしていた。夜になれば角松と共に寝室へと行き、おつかれさんと労われて眠りにつく。健やかに眠るかれの呼吸を聞きながら、信頼されていることに私は切ない思いを味わいながら、まどろみはじめた。
そこで目が覚めた。
目を開かないように草加は布団の中で寝返りを打った。眼を開けたら頭が冴えてしまうだろう。戦場での貴重な睡眠時間を削りたくない。
しかし草加の思いに反して再度の眠りはなかなか訪れなかった。頑固に目を瞑ったまま転々と寝返りを繰り返す。あんな夢など。呟いても苛立ちは消えなかった。夢の中は切なくも幸福だったのだ。それは認める。だがでは今が不幸なのかといえばそうではない。そうであってはならないと草加は思う。その時点で幸福ではない現実を認めなくてはならないが、男子が一生の仕事として選んだことがたとえ自分を幸福に導くものでなくても、それがなんだというのだ。負け惜しみかもしれない。しかし本気だった。
苛立ちは消えない。
わかっている。自己が分離するように想いがぶつかり合っている。嫉妬しているのだ、自分は。夢の中の自分に。角松の信頼を勝ち得、かれと共に艦に乗り、かれの信念のままに行動していた自分。
その未来を夢見なかったわけではない。しかし草加の選んだのは違う道だった。結果、角松が草加に笑いかけることはなくなり、怒りと冷ややかな軽蔑のこめられた瞳で睨みつけられるだけになってしまった。
角松は敵ではない。ただ草加の持つ原爆が許せないだけ、草加のやり方が認められないだけ、ただ、邪魔なだけだ。
殺してしまえばよかった。
一瞬よぎった考えにゾッと背筋が震えた。そうだ、かれさえいなければこんな身を引き裂くような想いを味わうことはなかった。ただ悲しさだけが自分を支配しただろう。そして悲しみは時が癒してくれる。忘れることも可能だろう。
いや違う。後悔しているからといってかれを否定はできない。私を生み出したものを否定など、どうしてできるだろう?私は、かれを愛しているのだ。夢を見たのだ。願望そのもの。望んだものはたったひとつだけなのに――どうしてだ。
いつまでこんな想いを味わい続けるのだろう。殺し損ねるたびに、何度も安堵と後悔を繰り返している。殺したい、殺すべきだと思いながらその生にまぎれもない喜びを感じている。この世のどこかであなたが生きている。ただそれだけのことが、もう、耐え切れないほどの。
眠りたい、と草加は思った。夢が見たい。ただ、あなたの傍にいたい。