バレンタイン協奏曲





1:最高のチョコレート(バッテリー)





 高校生にとってバレンタインは、冬の一大イベントだ。
 女の子はもちろん男子も、この時期が近づくとなんとなくそわそわしはじめる。うまくいけば彼氏彼女になれる大チャンス。なかには浮ついた雰囲気に乗っかって、普段は大人しい女の子が義理チョコに本命を忍ばせて冗談交じりに渡したりもする。ようするにお祭りなのだ。それは男ばかりの高校野球部も、例外ではない。



「…ごめん」

 幼馴染の海部一樹がうつむいた女の子にたった一言そう告げるのを、武藤洋介は聞いてしまった。彼は内心焦ったがこれは別にわざとではない。野球部の施設内の一画で、そんなやりとりをしているほうが迂闊なのだ。
 武藤は一瞬立ち竦んだがすぐさま立ち去るべく背を向けた。が、相手のほうが早かった。想いを混めたチョコレートを受け取ってすらもらえなかった彼女が走り出し、しかし武藤の姿を見てショックを受け、そして今度こそ駆け出して行った。やれやれ疲れたとでも言いたげな表情の海部も同様に、武藤を見つけて固まった。

「洋介」
「あ…。悪い」
「かまわんが?」

 こちらに非はないのだがここは謝る場面だ。海部は一瞬とはいえ見せてしまった動揺をごまかすように皮肉げに笑った。チョコ?とわかりきったことを武藤が問う。ああ、とうなずいて、海部は武藤が両手に持っていたボールの入った籠を片方掴んだ。こういった雑用は本来ならマネージャーの仕事なのだが、百個近くもあるボールの片付けは重たくてしんどい仕事だ。女子に嫌われたくない先輩連の指導の結果、一年ボーズにお鉢が回される。

「なんで断ったんだよ、もったいない」

 よっこらしょと用具置き場にボールを片付け、武藤がたずねた。もったいないのはどちらかというと、女の子というよりはチョコレートのような口ぶりだ。事実そうなのだろう。色気より食い気。海部は苦笑した。

「好きでもない相手からのチョコレートなど、受け取れんよ。…洋介はもらったのか」
「ああ」

 武藤にチョコレートを渡してきたのはクラスの女の子とマネージャーだ。ホワイトデー楽しみにしてるからね!という渡し文句から察するまでもなくイベントをただ楽しむ目的でくれたのだろう。来月の財布を想像すると、ちょっぴり怖ろしい。高校球児にとって、お小遣いは貴重な買い食い資金なのだ。

「好きな女がいるのか!?」

 おどろいた。目を丸くした武藤の瞳をまっすぐに見つめ、しばらくためらった後で海部は「ああ」とだけ答えた。
 まったく。いったいいつになったら自分の気持ちに気がついてくださるのだろうか?この朴念仁は。

「誰だよ、俺の知ってる女?」

 好奇心丸出しの親友を秘密だとそっけなく突っぱね、海部はさっさと更衣室へと歩き出した。そこには二人の鞄が置いてあり、そしてまったく腹の立つことに武藤の鞄には今日もらったというチョコレートが入っているのだろう。

「そうだ洋介、チョコレートひとつよこせ」
「ええっ?なんで?」
「こっちは貰えなかったんだからおすそわけくらいいいだろう」
「自分が貰わなかっただけだろ。ダメだって。バレンタインのチョコはうっかり本命が混じってる可能性があるから無碍に扱うなってオフクロが言ってた」

 だったらなおさらだ。この眼力でそいつを探し出して排除してやる。嫉妬心に煽られるままなおも強請る海部に「ダメだって言ってるだろ」とそうとは知らない武藤は半分笑いながら、

「そんなに欲しけりゃ、買ってやるから!」

 海部一樹(16歳)のバレンタインを、最高のものにしてくれた。





2:チョコレートフォンデュ(幼稚園草松)





 いくら好きでも、できることとできないことがある。
 はい、チョコ。そう言って妻が仕事に行くついでにくれたやや小さめの、だが高級そうなその箱は、彼女の夫の手によってダイニングテーブルの上に置かれた。その隣にはやはり早朝息子に渡された、こちらはだいぶ大きめな、そして可愛らしいパッケージの箱。息子はすでに昨日、本命の女の子から貰ったチョコレートを食べて幸せいっぱいだ。
 本命からのチョコレート。この単語にうしろめたさを感じてしまうのは、妻以外の人に恋をしているからなのだろう。
 草加拓海の想い人。息子と同じ名前を持つ息子の通う幼稚園の角松先生。彼を思い浮かべるだけで草加の胸はチョコレートよりも甘い気分に浸される。やわらかくもあるそれは喩えるならチョコレートフォンデュの中のマシュマロ。高カロリーなのが気になるけれど、やみつきになりそう。
 無理だろうな。彼の立場を考えれば当然のことだ。草加があきらめを噛み締めつつ家事をしていると、母から貰ったチョコレートの箱を抱えた息子が公園に行きたいと言ってきた。ママからのチョコレートは昨日チョコレートをくれた本命の女の子と食べるのだという。なんだか微笑ましい幼い恋人たちに草加は父の顔になった。5歳とはいえやはり女だ。男のハハオヤは気になる存在なのだろう。
 こうしてうじうじと閉じこもっているよりはずっといい。それじゃあ行こうと草加は息子の手を引いて公園へ向かった。それに公園なら、角松先生との遭遇確率も高い。
 公園に入ると、ベンチで待っていた彼女が満面の笑みで駆け寄ってきた。こんにちはの挨拶の後すぐに息子の手を引っ張って二人きりになろうと向こうへ行ってしまう。同伴のママと草加は完全においてけぼりをくらい、顔を見合わせて幼い恋の行く末を案じる笑みを浮かべてうなずきあった。

「いつも息子がお世話になっています」

 いえいえこちらこそ。他愛の無い親同士の会話の合間にも恋人たちは盛り上がっていた。草加の妻が選んだチョコレートは、子供心をおおいにくすぐるものだったらしい。
 男女の違いはあれど親同士のコミュニケーションはとても重要だ。特に今の時代はどんな噂がどんなものに発展していくかわかりにくいし、最悪いじめにもつながっていく。子供の、ではない。親たちの間でのいじめだ。

「…あ」

 ふと公園の入り口を見ると、大きな荷物を抱えた角松先生が立っていた。
 彼は草加たちを見ていたらしく、眼が合うと軽く会釈をした。子供を仕事にしているだけに、公園にはつい足を向けてしまうといつか言っていたことがある。今日もそうなのだろう。草加たちの輪には入ろうとせず、行ってしまった。
 チョコレートを食べ終えた二人の子供は早々にそのカロリーを消費し、草加はその間にもやってきた母親たちの愚痴のはけ口となって精神的に消耗した。
 夕方になって公園を後にした草加と息子は、買い物をしてから帰ろうとスーパーへ立ち寄った。そしてそこで、角松先生を発見した。

「先生」
「洋介くんのお父さん」
「拓海です。…さっき、お買い物帰りじゃなかったんですか?」

 ずいぶんおおきな袋を持っていましたけど。草加の質問にイカのパックを持った角松がはにかんだ。

「ケーキの材料です」
「え?」
「明日、先生たちに配ろうと思って。ちょうど日曜だったから、今年は張り切ってみました」

 そういえばこう見えて彼の趣味はお菓子作りだ。腕をおおいに揮うことができるバレンタインはいい機会なのだろう。楽しげな表情を微笑ましく思いながらも、しかし明日彼から手作りのケーキを貰える先生たちに草加は嫉妬していた。バレンタインに会うことができても、二人の間に甘さはない。

「…残念ですか?」

 え、と草加が角松を振り返るが彼はなにげない顔をして豆腐を買い物カゴに入れていた。
 どういう意味ですか。そう聞き返そうとして――やめる。

「ええ…。残念です」

 すると角松はまっすぐな瞳で草加を見つめてきた。せつなさに彩られた黒い瞳が決意に揺らめく。

「……本当は。一番好きな人に食べてもらいたいだけなんですけどね。ところで、」

 そんなに残念なら、食べに来ませんか。拓海さん。
 はじめて角松の声で呼ばれたファーストネームは、草加を甘く蕩けさせた。





3:食べすぎ注意!(ハートオブゴールド)





 バレンタインにチョコレートというのは、実によくできていると角松洋介は言った。

「3月決算だしな。糖分を補給しろってことだ」
「いや、そんなつもりはなかったと思いますよ?」

 お菓子業界もそこまでは計算外だろう。角松が買いこんだ様々なブランドのチョコレートを眺めながら、草加は呆れ気味だ。
 2月14日にはどうしても会いたい。いつになく真剣な角松の願いに期待に胸膨らませてやってきた草加は、その『お誘い』に膨らんでいたヨコシマな想いが萎んでいくのを感じた。角松が今食べているチョコレートは、女子社員一同からだという。そこまで目くじら立てるつもりはないが、なんとなくむかつく。

「残業チョコは決算期恒例だぜ?あ、おまえのぶんもあるから好きなやつ食っていいぞ」
「どうも」

 好きなのと言いながら角松はさっさと箱を開けてしまった。アソートタイプのそれにはいろんな形のチョコレートが行儀よく詰まっている。

「そんなにチョコ好きでしたか?」
「別に?限定のチョコとかはこの時期に多いから。ほら、食えって」
「…このために会おうと言ったんですか、バレンタインだからかと思ったのに」

 草加がつまんだのはミルクチョコだった。彼にはやや甘すぎる味が舌の上に融ける。

「バレンタインだからだろ。…3月決算だって言ったろ?これから4月の頭あたりまで残業と休日出勤で会えなくなるから、その埋め合わせ」
「ええっ!?そうなんですか!?」

 つきあいはじめてからも二人は仕事帰りに会っている。仕事の都合で会えない時もあるが、そんな日はメールで連絡をいれていた。それでも2、3日くらいだ。今まで一番長い期間はまだつきあう前、草加が角松にふられたと思い込み、ヤケをおこしてそこから復活するまでである。こんなふうに、会えなくなると宣言されたことはなかった。

「そうなんだ」

 角松は神妙にうなずき、チョコレートを指でつまむと草加の口元に持っていった。草加は大人しく口を開ける。体温で指先についたチョコレートまで舐め取ると、角松は嬉しそうに笑った。

「だから今日、思い切りいちゃついておこうと思ってさ」
「…………っ」

 草加は融けかけのチョコレートを噛み砕いてしまった。彼の頭にぽんと浮かんだのは、あまりおおっぴらにできないいちゃつき方だ。

「どうした?」
「いえ。つい、即物的な考えになってしまって」

 情けないようだがそれが男というものである。草加の考えがどのようなものか、瞬時に理解した角松は声をあげて笑った。

「あのさ、草加」
「はい…」
「そのつもりだから」
「は…、ええっ?本当ですか!?」
「あたりまえだろ。なんのためにチョコレートを食わせてると思ってるんだよ」

 はい、あーん。ぽかんと頬を染めている草加の口にさらにもうひとつ放り込む。彼の咽喉が動くのを待って角松はそのチョコレートを味わった。いちごの味がした。

「からっぽになるまで頑張ってもらうからな、覚悟しとけ」

 角松の言葉に草加は今度こそ真っ赤になって、うつむいた。

「…草加?」
「…は、鼻血が」

 頭に血が昇りすぎた。大変、と慌てる角松と思わぬ失態に焦る草加が満腹になるのは、もう少し後のようだ。





4:開封後はお早めに(続き)





 3月には会えなくなる。角松の宣言どおり、多忙を極めた2人は仕事帰りにちょっと一杯(コーヒーだが)やっていくことさえ不可能な日々を送っていた。
 メールの回数まで減った。草加がせめてもと日記よろしくこまごまとしたそれはもう甘い言葉をちりばめたメールを送っても、角松から返ってくるのは「おやすみ」「おはよう」「良かったな」などのそっけないひと言。もっぱら「おはよう」が多いのは、おそらく通勤電車内でそれを読み、メールを打っているからだろう。ひと息つくのでさえラッシュの中だなんて。角松の身を思うと草加は気の毒すぎて涙ぐみたくなる。
 今日も草加は昼休みにメールを打ち、角松に送っていた。内容なんて他愛のないものだ。どこそこの公園で春の花が咲いたとか(でもあなたの笑顔のほうがもっとあたたかく思います)、食堂のメニューが春ランチに変わっていたとか(あなたと食べない食事は味気ないです)。結局最後には会いたいですで終わるメール。ただそんな日々のちょっとしたこと、些細なことを角松とわかちあい繋がっていることを確認するための作業である。
 どうせ今日も返信は遅いだろう。角松の健康が心配だった。だが草加の予想に反し、午後の仕事の最中にメールが来た。

『今、大丈夫か?』

 草加はすばやくオフィスを見回し、パソコンをスリープモードに切り替えた。その間に『OK』と入力、送信。自動販売機とソファが置かれた喫煙所についたところでタイミングよく携帯電話が鳴り響いた。着信メロディはオンリー・ユー。角松からだ。

「はい」
『草加?悪い、こんな時間に』
「とんでもない、でも、どうしたんですか?」

 電話越しとはいえ久しぶりの角松の声だった。懐かしさと愛おしさで胸がじんわりとあたたかくなる。

『ずっとメールくれてたのに、ロクな返事もできなかっただろ、なんだか…』

 そこで角松が息を吸い込んだのがわかった。ドキリとする。

『なんだか、すごく…会いたくなって』
「………。角松さん…」

 同じ想いでいてくれた。草加は感動のまま言葉を紡いでいた。

「私もです。あなたに会いたい。今すぐにでも会いに行きたいです。今すぐどこかへ連れ去って、2人きりになりたい」
『草加』

 あまりにも露骨な草加の訴えに角松が笑い出した。草加もハッと我に返り、誰かに聞かれていなかったかと周囲を見回す。幸いなことに誰もいなかった。

『攫われるのは、ダメだな』
「…言葉のアヤです。ひと息ついたら、食事に行きましょう」

 よく聞いてみれば、なんだか笑い声に疲れが混じっている。美味しいところを探しておきますよ。草加が言うと、うん、と角松にしては覇気のない返事がかえってきた。

『…そうだな。それまでは、チョコレートで我慢するか』
「えっ?」

 チョコレート。2月14日のことを思い出し、草加は赤面した。会えなくなる切なさを訴えるように体をぶつけてきた角松。狭くて熱い、彼の体。甘くかすれた嬌声。陶酔に浸る黒い瞳がまっすぐに草加を見つめた。草加。彼が呼ぶ。草加。草加拓海そのものを、身体に染み込ませるように。

『じゃ、またな』
「あ、はい……」

 短時間というにはおこがましいほどあっけなく切れた電話を握りしめ、草加はため息をつく。どうやら今夜はチョコレートを買って帰ることになりそうだった。





5:愛の妙薬(人魚)





「にがつじゅうよっか?」
「そうです。2月14日はバレンタインデーといって、大切な人に贈り物をするんですよ」
「にがつじゅうよっかって何?」

 そもそもそこから通じていなかった。海にはカレンダーなどというものは存在せず、人魚に日付の概念はない。時間は太陽と月、それに星の動きで決まる。なんとも羨ましい話だ。

「…2月14日というのは、今日のことです。贈り物をする日。私の国では好きな人にチョコレートを贈るのが一般的なんです」

 草加の説明にも人魚はよくわかっていない表情だ。とりあえず、何かくれるというのなら貰っておくかとばかりに手を差し出してきた。

「…で、コレ、何?」

 トリュフタイプのチョコレートを手のひらに乗せ、人魚はめずらしそうに顔を近づけて匂いを嗅いだ。食べ物ですと草加が言うと舌先を伸ばしてトリュフに塗されたココアパウダーを舐める。人魚は眉を寄せ、なんともいい難い顔になった。
 草加は笑いながら自分が先に食べて見せた。人魚が続いてぱくりと口に入れる。噛まなくても口内の温度で溶ける、生まれて始めてのチョコレートに、人魚の目が丸くなった。咽喉を鳴らして湧き出してくる唾液とチョコレートを飲み下した。
 草加は時々こうして人魚に人間の食べ物を食べさせていた。そこは海洋生物学者としての興味もあるのだ。加工食品の類は苦手なようだがおおむね人魚には好評を得ていた。なかでも彼のお気に入りは果物だ。
 チョコレートは原材料こそ果物だが、扱いが難しいものだった。犬や猫などには絶対に与えてはならない。人魚はどちらかというと人間に近い生き物である。毒性はないだろう。

「美味しいですか?」

 人魚は素直にうなずき、もっとと手を伸ばしてきた。草加が差し出すトリュフをぱくぱくと食べる。どうやらお気に召したらしい。

「贈り物だ!」

 ぱったん、と尾で海面を叩いて、人魚が叫んだ。嬉しそうだった。

「え?」
「俺も何か美味いもんとってくるからな!」

 何か勘違いしたらしい人魚が勢いよく海へと潜ってしまった。人魚らしい素直さに草加は苦笑した。獲物を捕まえてくるまで待つしかなさそうだ。

「!?」

 しかし人魚は待つほどもなく上がってきた。その顔を見て草加はさっと青褪めた。人魚の顔は苦しさに歪み、呼吸も荒くなっている。

「大丈夫ですか!?」

 しまった。痛恨の思いで草加が叫んだ。チョコレートの影響だろう。人間に近いからと油断したが、人魚はあくまで野生生物だ。しかも、未知の。与えるにしてももっと様子をみてからにしておけばこんなに急激に症状が現れなかっただろう。もしも、人魚に万一のことがあったら。想像するだけで心臓が凍りつきそうだ。

「…なんか、ヘン……」

 人魚は草加の乗る小型ボートの淵に手をかけ、身を乗り出してきた。草加が腋の下に手を回し引っ張りあげる。どべん、と重たげな音をさせて尾まで乗せ、草加はぎょっとした。さっきまで海の青と同じだったはずの彼の尾が、見事な赤に染まっている。発情期の色だ。

「なんか、熱い……っ」

 人魚が身をくねらせ、尾で船底を叩いた。ボートが盛大に揺れる。人魚は自分が発情していることに気がついていないのだ。

「大丈夫…、チョコレートのせいで、発情が促がされたんですね」
「発情期…?」

 苦しげに吐息を吐き出し、人魚が自分の尻尾を見た。

「そんな…なんで……。…っ」

 人魚の発情期はとっくに終わっていたはずだった。彼は戸惑い、混乱した。発情期にはいるとしてもいつもはもっとゆっくり、一週間ほどの時間をかけて始まるのだ。人魚は苦しさを訴えた。とにかくあの特有の、凶暴ともいえる衝動をどうにかしてほしかった。

「草加、欲しい…っ」

 一生に一度の恋。人魚がその相手に選んだのは草加なのだ。草加に縋りつくしかない。こうなってしまったら、人魚は伴侶しか見えなくなるのだ。
 目の前で悩ましげに身悶える人魚に、草加はごくりと咽喉を鳴らした。発情期以外では身体を繋げることを拒否されるので、年に数日しかできないのだ。一度普段の時に試してみたことがあるのだが、人魚が思い切り嫌がって暴れた為草加はうっかり死に掛けた。だがこれなら。
 草加が名前を呼ぶと、人魚が切なげにキスをしてきた。びったん、と尾が跳ねる。鱗に閉ざされ、秘められた人魚のそこに指を伸ばす。

「んん……っ」

 溺れるように人魚が縋りついてくる。これは怪我の功名といえるのだろうか。とりあえず、これから人魚に会うときにはチョコレートを必須としよう。草加は心のメモ帳にそう記すと、潮の匂いのする恋人の肌を味わうことに専念した。