きっかけが必要です





 土曜日の夕方の駅前を、たくさんの人々が歩いている。駅に入る者、出て行く者、隣接しているデパートへ入っていく者。家路へと目指す者。目的は様々で、その表情も様々だ。
 人々の間を歩きながらチラリと背後を振り返った角松は、足を速めた。
 なんとなく、イラついていることを彼は自覚していた。その気分がなんであるのかわかるのがまたむかつく。
 先ほどの草加の対応がものの見事にまずかったことは、恋愛ごとに関して草加が初心者であることを考慮すれば、まあ許せる範囲だろう。たとえそこに、お呼びじゃない者を隠していたとしてもだ。
 では何にむかっ腹を立てているのかというと、草加が本当に何もしてこなかったことになのである。
 確かに草加は「何もしない」と約束した。それがなくては角松も草加の部屋に行ったりしなかっただろう。
 しかしまさか本当に指一本触れてこないとは、実は思っていなかった。
 男がちょっとでもいいなと思う女を(角松は男だが)部屋に招く時、そこにあるのはズバリ下心だ。自分のテリトリーに引き込み、あわよくばキスくらい、できることならばその先にまで進みたいと思うのはむしろ当然で、欲望がなければ部屋というもっともプライベートな密室でふたりきりになりたいなどとは思うまい。
 期待していたとはいわない。だがある程度の覚悟を固めていたのも事実なのだ。角松はまさに肩透かしを食わされた気分を味わっているのだった。
 もちろん、部屋に連れ込むのに成功したからといってその目論見が上手くいくとは限らない。というよりも上手くいかないほうが自然といったほうがいいだろう。その場の雰囲気や会話、タイミングなどが重要になってくる。こればっかりは相手のいることだけに自分の妄想を突っ走らせているだけでは上手くいきっこない。しかも肝心の相手は、嫌われたくない、好かれたい、許されたい相手なのだ。
 あの場面でもし自分だったらどうするか。角松は考えた。厄介なお邪魔虫を封じた後でその事をそれとなく伝え、協力を請うのだ。共通の敵の存在は親密さを生みやすい。
 また逆に厄介者の存在を知られたくない場合であれば(靴ごと)そいつを隠し、ことさら相手にやさしくしてみせる。厄介者は必ずこちらを窺っているはずだから、存在自体を無視――忘れられることに耐え切れなくなるだろう。自分など眼中にないのだということを見せ付けられる居た堪れなさに苛まれる。そうしておいて相手を送っていくなりの口実をつけて部屋を空ければ、ひとり取り残された敗北感に打ちのめされて逃げ出すだろう。そこまでされても居座っているほどずぶとい奴なら今度こそ容赦なく迷惑だと突き放せばいい。最初からガツンと言わないのは、どの男にもある優柔不断なやさしさだ。そっちのほうから逃げてくれないかというズルさでもある。
 角松は携帯電話を取り出した。自分ひとりでなんとかしやがれとは思うものの、援護射撃くらいはしてもいい。きっとまだ、草加はお邪魔虫相手に戦っている。

「………」

 少し考えて、メールを打った。色気の欠片もないそっけない文章だが、これだけでも草加は喜ぶに違いない。そしてこんな文章ひとつで喜ぶほどの相手だと、そいつ知らしめることができればいい。今日は楽しかった。たまには外で会うのもいいな。また明日、いつものところで。
 草加が安堵し、笑う顔を思い浮かべて角松はなんともいえない気持ちになった。毒されているというかほだされているというか、草加に傾倒しつつある自分を自覚した。意外なことに、あんまり嫌悪感がないのが困ったものだ。
 もしかしてそういうことなのだろうか。ためらいなら充分にある。きっと後悔するだろうという予感もあった。けれども2人の間に割り込もうとする存在が許せないんじゃしょうがない。あきらめが肝心とはいうが、無条件降伏するつもりはさらさらなかった。
 仕方ない。仕方がないから、草加、一緒に戦ってやるよ。
 角松はメールを送信した。
 フルフェイスのヘルメットをかぶり、角松は愛車に跨った。キーを回し、エンジンに火を入れる。アクセルをふかすと猛々しい唸りをあげて黒い煙を吐き出した。
 出発進行。道はいくらでも開けている。とりあえずは、安全運転で。